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オアシスと雨降師

馬車はオアシスに向かっていた。

砂を踏む音が、一定のリズムで続いている。

車輪が沈み、引き上げられるたび、低い軋みが響いた。

ミイナは荷台の端に腰を下ろしていた。

膝を抱えるようにして座り、風に煽られる砂を避けるため、ぼろ切れのような布を胸元で押さえている。

薄い褐色の肌に、焦茶の髪。

砂と汗で重くなった髪が、頬に張りついていた。

向かいには、黒猫がいる。

正体はモノ・クロスという、猫に変えられた元勇者だ。

夜のような黒い毛並み。

額に刻まれた白い×印。

空色の目は前方を静かに見据えたまま、瞬きひとつしない。

その隣には、白い外套の人物――ペルシャが座っていた。

フードの下に隠れているが、純白の毛並みと長い尻尾が、わずかに覗いている。

人の姿をしているのに、どこか人ではない。

黙っているだけで、周囲の空気が整うような存在感だった。

夜明け前に出発した一行は、当初は徒歩でオアシスを目指していた。

だが途中、荷を運ぶ馬車と出会い、乗合を許してもらっていた。

風が吹く。

砂が舞い、遠くの景色が揺れる。

荒地の遥か向こうには、黒々とした山々がうっすらと見えていた。

ミイナはそれを見つめながら、無意識に指輪へと視線を落とす。

左手の薬指。

盃と蛇が刻印された白銀の指輪は、砂にまみれてもなお、静かに光を失わない。

馬車の揺れに身を任せたまま、ミイナはしばらく黙っていた。

けれど、胸の奥に溜まったものは、じっとしていても消えてくれなかった。

「……ねえ」

小さな声。

自分でも驚くほど、かすれていた。

モノの耳が、ぴくりと動く。

『なんだ』

ミイナは一度、言葉を探すように口を閉じてから、意を決して続けた。

「私……猫さんたちと、話せるよね」

『ああ』

「それって……猫の魔法、とかじゃないの?」

ペルシャが、ほんのわずかに視線を動かす。

興味はあるが、口は出さない。

判断は、モノに任せている。

モノは、少し考えるように尻尾を揺らした。

『違う』

即答だった。

ミイナの肩が、わずかに落ちる。

『それは魔法じゃない。ただの“適性”だ』

「……適性?」

『猫の言葉が聞こえるだけ。使えるのは、それだけだ』

淡々とした声。

否定でも、慰めでもない。

「じゃあ……猫魔法って?」

モノは、空色の目を細めた。

『猫にしか使えない』

短く、切るように言う。

『しかも、才能がある奴だけだ。誰でもできるもんじゃない』

ミイナは、唇を噛んだ。

「……私には、無理?」

『無理だ』

迷いはない。

『猫じゃないし、教えたところで意味がない』

言葉だけ聞けば、冷たい。

けれど、そこには突き放す意図はなかった。

ミイナは俯く。

(やっぱり……)

(私は、できることが何もない)

その沈黙を破ったのは、ペルシャだった。

「焦らなくていいですよ、ミイナ」

鈴の鳴るような声。

柔らかく、けれど逃げ道を与えすぎない声音。

「役割は、最初から決まっているものではありません」

ミイナは顔を上げる。

「……でも」

「“今できない”ことと、“ずっとできない”は、違います」

ペルシャはそう言って、わずかに微笑んだ。

「少なくとも、あなたがここにいる理由は、はっきりしています」

ミイナの視線が、左手の指輪に落ちる。

モノはそれを見てから、ぽつりと言った。

『それだけでも、十分重い役目だ』

ミイナは答えられなかった。

でも、少しだけ胸の奥が軽くなった気がした。

乾いた風の中に、ほんのわずか――

水の匂いが混じりはじめていた。

何をするのか。

何が変わるのか。

自分は、まだ“ここにいていい”のか。

問いは形にならないまま、胸の奥に溜まっていく。

黒猫が、ふいに口を開いた。

『もうすぐ着く』

それだけだった。

ミイナは小さく頷く。

その声に、なぜか少しだけ背筋が伸びた。

馬車は、オアシスへと進んでいく。

水と人が集まる場所へ。

次の出来事が、待っている場所へ。



やがて、景色が変わりはじめた。

砂の色が、わずかに濃くなる。

乾いた風に混じって、はっきりと水の匂いがした。

「……あ」

ミイナが、思わず声を漏らす。

前方に、緑が見えた。

背の低い椰子の木。

岩を囲むように湧き出る水。

その周囲に、布張りの天幕や簡素な建物が点在している。

オアシスだった。

馬車が減速し、人の声が聞こえはじめる。

商人の呼び声。

水を汲む音。

家畜の鳴き声。

人々が生活する場所の音だった。

馬車が止まり、御者が声をかける。

「ここまでだ。気をつけてな」

ペルシャが礼を言い、代金を払う。

ミイナは慌てて荷を抱え、地面に降りた。

足の裏に伝わる感触が、砂漠とは違う。

湿り気を含んだ土。

水のそばに立っているだけで、喉の奥が緩む気がした。

「すごい……」

ミイナは周囲をきょろきょろと見回す。

前にも来たことはある。

しかし、その時はずっと下を向いていた。

人が多い。

それも、街とは違う種類の人たちだ。

旅装の商人。

砂漠仕様の外套をまとった護衛。

水袋を抱えた子どもたち。

誰も、ミイナを見ていない。

少なくとも、“値踏みする目”ではなかった。

モノは一度、周囲を見渡してから言った。

『まずは補給だな』

「はい。水と保存食、それから……」

ペルシャは一瞬、ミイナに視線を向ける。

「服、ですね」

ミイナの心臓が、跳ねた。

「え……?」

ペルシャは言い直すでもなく、当たり前のように続ける。

「このまま砂漠を越えるのは無理があります。

 それに――」

ペルシャはミイナの服を見てから言った。

「あなた、ずっとそれ一枚でしょう」

ミイナは、思わず胸元の布を押さえる。

ぼろ切れ同然の服。

縫い直された跡だらけで、色も元は何だったのかわからない。

「で、でも……私、お金……」

「心配しなくていいです」

きっぱりとした声。

「これは“必要な装備”です。遠慮する理由はありません」

それ以上、議論の余地はないという調子だった。

布を扱う露店の前で、ペルシャは足を止める。

吊るされた衣服は、どれも砂漠向けのものだ。

通気性のいい布。

肌を覆うが、動きやすい形。

「さあ、選んでください」

ミイナは固まった。

「……え、私が?」

「そうです」

「で、でも……どれがいいとか、分からなくて……」

『分からないなら、触ってみろ』

モノが、横から言う。

『着るのはお前だ』

ミイナは、おそるおそる布に手を伸ばす。

指先に伝わる感触が、今までと違った。

柔らかい。

ちゃんとした布だ。

店主が、にこやかに声をかける。

「嬢ちゃん、こっちの色は日除けになるよ」

差し出されたのは、淡い砂色の服だった。

袖は長く、体の線を隠す作り。

ミイナは、少し迷ってから頷いた。

「……これ、で」

試着して戻ってくると、ペルシャが一瞬、目を細めた。

「よく似合っています」

その言葉に、胸が熱くなる。

「……ありがとうございます」

声が、震えた。

ペルシャは何も言わず、代金を払う。

モノは視線を逸らしたまま、ぽつりと言った。

『動きやすそうだな』

それだけだったけれど、ミイナは嬉しかった。

「それがレディの服を褒める台詞ですか……?

 モノはもう少し女心というものをですね……」

『なんだよ。服なんて動きやすければ、なんでもいいだろ?』

モノはたじろいで言う。

新しい服の感触が、肌に馴染んでいく。

自分が、ちゃんと仲間の一員に認められた気がした。

(……私、もう奴隷じゃないんだ)

それだけで、ミイナの胸は高鳴るのだった。



買い出しを終えたころ、日はすっかり傾いていた。

水袋は満たされ、干し肉と保存食は袋に収まっている。

「次は、馬駱駝ですね」

「バラクーダ?」

ペルシャの言葉に、ミイナは首を傾げた。

「そうです。バラクーダ。見たことはありませんでしたか?

 砂漠を馬のように走れる、駱駝の魔物ですよ」

「え……魔物……」

ミイナは、魔物を見たことがなかった。

――例の烏男を別にすれば、だが。

『怖がることはない。魔物といっても、人に飼い慣らされてる大人しいやつさ』

「ええ。それに赤身に程よく脂が乗っていて、美味しいですよ」

『…………お前、魔物食ったことあるのか?』

「ありますよ? 昔、軍で遠征した時に」

『お、おう……そうか。さすがに逞しいな』

そんなことを話しているうちに、馬駱駝の小屋が見えてきた。

乾いた藁と、獣の匂いが混じる空気。

「……あれが、バラクーダです」

ペルシャがそう言った。

ミイナは、思わず足を止めた。

でかい。

とにかく、でかい。

普通の馬など、比べものにならない。

駱駝よりも、さらに一回り――いや、二回りは大きいだろうか。

砂色の巨体は、どっしりと地面に構えられ、

沈み込まないように発達した足は、皿のように大きく広がっている。

蹄というより、分厚い肉の塊に近い。

顔立ちは、確かに駱駝に似ている。

だが――

目が、見えない。

正確には、見えないほど長い毛に覆われていた。

砂嵐から眼球を守るためだと、ひと目で分かる。

風に揺れる毛の奥で、

何かがこちらを“感じ取っている”気配だけがあった。

首は太く、馬のように力強く伸びている。

たてがみもあり、硬く、砂に強そうな質感だ。

背中は、広い。

そして――

こぶが、六つ。

二列に並んだこぶが、背中を占領するように隆起している。

荷を載せるために生まれてきた、と言われれば、納得してしまう形だった。

さらに、その額。

短いが、はっきりとした角が四本。

獣というより、魔物だと主張するように生えている。

「……魔物、なんだよね?」

ミイナが小さく呟くと、

『ああ。立派な魔物だ』

モノが平然と答えた。

バラクーダは、低く喉を鳴らした。

咆哮ではない。

砂漠の奥から響くような、重く鈍い音。

けれど、不思議と恐怖はなかった。

暴れる気配はなく、ただ静かに、そこに立っている。

「砂漠では、これ以上に頼れる足はありません」

ペルシャが続ける。

「水を蓄え、砂に沈まず、

 長距離を休みなく進める。

 人の命を運ぶための魔物です」

ミイナは、バラクーダを見上げた。

(……この子に乗って、砂漠を越えるんだ)

その時、小屋の方から声が響いてきた。

「だから……ですから……っ」

高めの声。

今にも泣き出しそうに、震えている。

ミイナは、思わず足を止めた。

小屋の外に、ひとりの女性が立っていた。

緑色の外套。背は高くない。

両手で、杖を抱え込むようにしている。

その向かいには、

腕を組んだ壮年の、髭を蓄えた男性が、困ったように立ち尽くしていた。

「姉ちゃん、話は分かったって言ってるだろ」

「でも……でも……」

女性の声が裏返る。

「馬駱駝がないと、間に合わないんです……!

 石麦村、今季一度も雨が降ってないらしくて……!」

ミイナの胸が、きゅっと縮んだ。

商人は、頭をかいた。

「分かってる。分かってるがな……

 護衛も金も無しで、砂漠を越えさせるわけにゃいかねえ」

「……っ」

女性の肩が、小さく震える。

「ちゃんと……仕事は、できます……

 雨も、降らせられます……

 そうすれば、ちゃんとお金だって……」

最後の言葉は、ほとんど声にならなかった。

ペルシャが、一歩前に出る。

「……失礼ですが」

鈴の鳴るような声に、商人と女性が同時に顔を上げる。

「何かお困りごとですか?」

その一言で、周囲の視線が集まった。

商人は、ため息をつく。

「……ああ。そうだよな」

女性は、はっとして慌てて涙を拭おうとする。

「い、いえ……その……」

「無理に隠さなくていい」

商人は、声を落とした。

「この姉ちゃんは、雨降師なんだ」

ミイナは、首を傾げた。

“あめふらし”――聞いたことのない言葉だ。

「それが、護衛に金を持ち逃げされちまって、無一文なんだと。

 ……俺だって、放っておきたいわけじゃねえ」

商人は、真っ直ぐに女性を見つめる。

「だがな。砂漠は甘くねえ。

 護衛無しは、死ねって言ってるのと同じだ。

 だから後払いも認められねえ。こっちも商売なんでな」

女性は、杖を抱きしめたまま、震える声で言った。

「それでも……お願いします……

 私が遅れたら……

 村が……」

その時だった。

「石麦村へ向かうのですか?」

ペルシャの問いに、商人が顔を上げる。

「あんたらは……?」

「ええ。私たちも、同じ方向です」

商人は、三人を見回した。

白い外套の剣士。

黒猫。

そして、まだ少しおどおどした少女。

少し考えてから、口を開く。

「……なあ。あんた、腕が立ちそうだ」

「この嬢ちゃん、一緒に連れてってくれねえか?」

女性が、はっと顔を上げる。

「え……?」

商人は続けた。

「あんたらは雨降師が一人いれば、水の心配がいらなくなる。

 姉ちゃんにとっては、護衛も増える。

 お互い、悪い話じゃねえだろ」

ミイナは、ペルシャを見る。

ペルシャは、静かに頷いた。

「構いません」

女性の目に、再び涙が浮かぶ。

「ほ……本当、ですか……?」

その視線が、ふと黒猫に向いた。

「……えっと……猫?」

猫は答えない。

ただ、じっとこちらを見ている。

ペルシャが言った。

「彼が、私たちの旅のリーダーなんですの」

女性は一瞬、きょとんとし――

次の瞬間、思わず小さく笑った。

「私はナディル。ナディル・ユーフラテスといいます。

 よろしくお願いします!」

そう言って、深く頭を下げる。

「ありがとうございます……!

 絶対、お役に立ちますから……!」

ナディルは、今度こそ満面の笑みで言ったのだった。



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