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奴隷少女とミルクシチュー

日が沈み、空が藍色に染まるころ。

街外れの小さな野営地に、火が起こされた。

乾いた枝がぱちぱちと弾け、鍋の底から、やさしい音が立ちのぼる。

白い剣士――ペルシャが、手際よく鍋をかき混ぜていた。

乳の匂い。

刻んだ根菜。

塩と、少しの香草。

ミイナは、その匂いだけで胸が詰まった。

(……いい匂い)

そう思った瞬間、自分が昨夜からずっと食事をしていなかったことに気づいた。

焚き火の向こうでは、黒猫が伏せている。

その周囲に、影が集まってきた。

キッドが屋根から飛び降り、

エモンが重い足取りで座り、

ワンはきっちり距離を保って丸くなり、

エルマタは待ちきれない様子で尻尾を揺らしている。

「……集まるの、早いね」

ミイナが小さく言うと、

『匂いだよ、匂い!』

エルマタが即答した。

『久々だしねぇ、こんな“ちゃんとした飯”!』

ペルシャは、くすりと笑う。

「量は多めに作っています。足りなければ言ってくださいね」

『みんな無事か? 被害は?』

黒猫が、ぼそりと言った。

『軽微とは言えましやせんな。数匹が戦死、十数匹が重症。軽傷を含めれば百匹以上になりやす』

エモンが、暗い声で言う。

『そうか……すまないな』

『いいえ。大親分が我らをまとめてくれたから、この程度の被害で済んだのでございやす』

『そうだぜ。喧嘩ばかりの俺たちを、力で纏めちまうんだからな。親分のおかげで、シマが平和になったんだぜ』

『役に立てたなら、本望である』

頭目たちは、頷きながらそれぞれ黒猫に言った。

『ありがとう。お前たち』

黒猫は、静かに頭を下げる。

ペルシャは、その黒猫を一瞬だけ見た。

視線は柔らかく、けれど、深い。

「……相変わらずですね、モノ」

ミイナの手が、止まった。

「……モノ?」

黒猫の名前だろうか。

ミイナは、首を傾げる。

ペルシャが、続ける。

「正確には――勇者モノ・クロス。

 呪われる前の、この人の名前」

ミイナの胸が、どくんと鳴った。

「……黒猫さん、勇者だったの?」

『昔の話だ。魔王に呪われてこうなった。最も忌むべき姿に変えてやろうってな。趣味の悪い話だ』

「忌むべき? なんで猫が?」

『猫アレルギーだったんだ……』

猫勇者は、苦々しげに吐き捨てた。

頭目たちは驚きで目を見開き、ペルシャはくすくすと笑っている。

「でも、魔王と勇者のお話って、だいぶ昔じゃ……」

「百五十年ちかく前になりますね」

ペルシャは、淡々と言った。

「え⁉︎ 猫さん何歳⁉︎」

ミイナは、さらに驚く。

『呪いで時が止まってるらしい……猫ジジイとか言うなよ?』

「言わないよ……」

頭目たちは、もう話を聞いていない。

シチューの鍋に、釘付けだ。

「さあ、できましたよ。食べましょうか」

鍋から、湯気が立ち上る。

ペルシャは木の器にシチューを注ぎ、まず黒猫の前に置いた。

それから猫の頭目たちに、そしてミイナの分を注いで渡してくれる。

黒猫は、少しだけ間を置いてから口をつけた。

猫舌なのだろうか。

『……いつもの味だ』

「それは、褒め言葉ですか?」

『他に言いようがあるか』

ペルシャは、少しだけ嬉しそうに笑った。

頭目たちは、それぞれシチューにがっついている。

ミイナは、そっと自分の匙を口に運んだ。

「美味しい……」

温かいものを食べたのは、いつ以来だろう。

はしたないと思いつつも、匙が止まらない。

あっという間に、一杯目を平らげてしまう。

「おかわりもありますよ」

温かい言葉。

二杯目を注いでもらい、さらに匙を運ぶ。

涙が出てきた。

昨日から、色々あったからだろう。

脱走して、ニイナがいなくなって、烏男から逃げて。

それでも生きている。

生きて、温かいシチューを食べている。

ミイナの匙と涙は、しばらくの間、止まることはなかった。



「それで、黒猫さんとペルシャさんは、どういう関係なの?」

満腹になって落ち着いたミイナが、そっと聞いた。

「私と彼ですか? 婚約者です」

ペルシャは、迷いなく言い切る。

『ちがう。腐れ縁だ』

モノが、さらにピシャリと否定した。

「え? どっち?」

ミイナは、首を傾げる。

『いいか。こいつが勝手に言ってるだけだ。俺に婚約者はいない』

「そんな冷たいこと、言わないでニャン」

『その語尾やめろ。気持ち悪い』

「ひどいニャン! 男はこれでイチコロだって、婆やが言ってたのに!」

『そんなものでイチコロになるか! いいからやめろ!』

そのやり取りを見て、ミイナは思った。

「あれ? ペルシャさんって、意外と……」

『気づいたか? 初対面では猫を被るタイプだ』

「まあ、確かにそれはそうかもニャン。こっちが素だから、よろしくニャン。ミイナちゃん」

『だから、その語尾やめろ』

ミイナは、二人のやり取りが可笑しくて、今度は笑ってしまった。

間違いなく、心から笑えたと思ったのは、久しぶりのことだった。



焚き火が、はぜる。

『冗談はさておき、これからの話をしよう』

モノが、真面目な顔に戻って言った。

猫の頭目たちは、満腹で地面に転がっている。

『俺の目的は、呪いを解いて、魔王を今度こそ討伐することだ』

モノは続ける。

『だが、一人じゃ無理だ。俺には仲間がいた。戦士、魔術師、聖女。まずは、そいつらを探す』

「まあ、そりゃそうだろうね」

ペルシャが、短く頷く。

『そして、それからだ。ミイナ。お前の指輪を使って、呪いを解くことができるっていうシャクナ族を探す』

「……うん」

ミイナは、内心でびくびくしていた。

指輪を渡したら、お別れなのではないか。

また、奴隷の少女に逆戻りするのではないか。

『一緒に来てくれないか?』

「え?」

ミイナは、俯いていた顔を上げた。

モノの空色の目と、視線がぶつかる。

「……いいの?」

『いいも何も、お前がいなきゃ始まらないだろ。それに、放っておけないしな。来てくれるか?』

「……うん! 行く! 私、ついていきたい!」

気づけば、また涙が出ていた。

安堵の涙だ。

「まあ、私は構わないけどニャン。婚約者の座は渡さないニャン」

「だから婚約者じゃない。その語尾やめろ」

ミイナは、泣き笑いになる。

こんなに嬉しいのは、いつ以来だろう。

初めてかもしれない。

誰かに必要とされることなんて、なかったのだから。

ミイナは、胸に灯った温かいものを抱いて、その夜は眠った。



夜明け前。

焚き火は、すでに消えかけていた。

白くなった灰の中で、赤い火種だけが、かすかに息をしている。

空は、まだ薄暗い。

けれど、東の端だけが、わずかに色づきはじめていた。

ミイナは、小さな荷を背負って立っていた。

中身は多くない。

水袋と、少しの乾物。

そして――左手の指輪。

黒猫――モノ・クロスは、すでに歩き出す準備を終えている。

ペルシャは外套を整え、剣の位置を確かめていた。

その前に、影がいくつも並んでいた。

エモン。

キッド。

メド。

ワン。

エルマタ。

縄張りを離れない彼らは、旅には同行しない。

『ここまでだな』

モノが、静かに言う。

『ええ。大親分』

エモンが、短く頷く。

『飯に困ったら戻ってきな。シマは空けといてやる』

キッドが、いつものぶっきらぼうな調子で言った。

ワンは、きちんと座り直し、

『御武運を、である』

と、頭を下げる。

エルマタは、少しだけ黙っていたが、

やがて尻尾を揺らしながら言った。

『また帰ってきなよ! 絶対だよ!』

ミイナは、思わず一歩前に出た。

「……ありがとう」

声が、少し震えた。

「みんながいなかったら、私……きっと、ここにいない」

猫たちは鳴かない。

ただ、それぞれがミイナに擦り寄り、別れを惜しむように鼻先で触れた。

モノが、振り返る。

空色の目が、一匹ずつを映す。

『……世話になった』

それだけだった。

だが、十分だった。

モノが歩き出す。

ペルシャが、その隣に並ぶ。

ミイナは、少し遅れて後を追う。

数歩進んで、ふと振り返りたくなった。

「またね! ありがとう、猫さんたち!」

ミイナは、思い切り手を振ってから、前に向き直った。

朝日が、ゆっくりと地平線から顔を出す。

三つの影が、伸びていく。

背後では、猫たちが動かない。

見送る役目を、最後まで果たすために。

そして――

新しい旅が、静かに始まった。



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