白美の剣士と猫勇者
さっきまで見えなかったはずの猫たちが、
まるで影が実体を持ったかのように、次々と姿を現す。
屋根の縁。
壁の上。
崩れかけた石積みの隙間。
数は、数えられない。
誰一匹、鳴かない。
走り回りもしない。
ただ――
全員が、同じ方向を向いていた。
烏男。
ミイナは、思わず息を呑む。
(……街中の猫が、集まってる?)
黒猫の背後で、ひときわ軽やかな影が動いた。
『キッド一家、加勢にきたぜ』
乾いた声。
金色の毛並みを持つ細身の猫が、屋根の縁に立っていた。
続いて、反対側。
ずしり、と空気が沈む。
『メド一家。到着した』
短く、太い声。
緑がかった毛並みの巨体が、壁の上から身を乗り出す。
眼は、最初から烏男だけを捉えていた。
さらに――
『ワン一家。通りは抑えたである』
道の向こう。
小柄な橙色の猫が、地面に伏せるように構えている。
姿勢は低く、無駄がない。
『エルマタ一家も合流したねぇ! これで思い切りやれるねぇ!』
エルマタの背後にも、数十匹の猫が控えていた。
『大親分。うちの一家とリーニョ一家は非戦闘員の避難。
ニコフ一家は、西の烏の対処に向かわせておりやす』
冷静なエモンの声。
『ニコフがいないのは英断だな。あれは狂犬だ』
黒猫が相槌を打つ。
猫なのに“狂犬”?とミイナは思ったが、口には出さなかった。
逃げ道と、殺気だけが、正確に配置されていく。
ミイナは、理解した。
これが偶然ではないことを。
猫たちが、誰の指示で、どう動いているかを。
黒猫は、一歩前に出た。
小さな背中。
けれど、その場にいるすべての猫が、自然と従っている。
烏男が、ゆっくりと首を巡らせた。
「ほう……」
感心したような声。
だが、赤黒い眼は冷え切っている。
「猫風情が、軍勢を気取るか」
『軍勢じゃねえ』
黒猫が、低く返す。
『ここは、俺の縄張りだ』
その一言で、空気が変わった。
『おうおうおう! 烏頭!
誰のシマで好き勝手やってんのじゃ!』
キッドが怒声を響かせると、背後の猫たちもそれに続く。
ニャーーオ!
ニャァゴ!
シャー!
それは、ミイナにははっきりと罵声に聞こえた。
『トリはトリらしく、ワシらに狩られてればええよ』
続けて、メドが言う。
『どちらにせよ。我らが相手である』
ワンは、すでに戦闘の構えを取っていた。
『いいねぇ! 袋だよ! 袋叩きだよぉ!』
エルマタは、さらにヒートアップしている。
猫軍団と烏男は、まんじりともせず睨み合った。
その隙に、エモンが黒猫の側へ寄る。
『大親分。伝言です』
『言え』
『東で、人が待っています』
黒猫の耳が、ぴくりと動いた。
『……誰だ』
『白猫の剣士です』
一瞬、場の空気が変わる。
黒猫は、それ以上聞かなかった。
『白美か……!』
短く言い切り、烏男へ向き直る。
『俺たちが相手だ』
その声に、猫たちが一斉に前へ出た。
道を塞ぐ。
屋根を抑える。
逃げ道だけが、東へ向けて開く。
そして――
数十匹の猫が、一斉に烏男へ飛びかかった。
影が弾けたように、ミイナには見えた。
しかし、烏男も速い。
一歩踏み込むだけで距離を詰め、身を翻す。
長剣が横薙ぎに振るわれ、空気が裂けた。
猫は、空中では躱せない。
――そのはずだった。
だが、その隙間を縫って、雷が迸る。
「ッ……!」
キッドだった。
金色の毛並みが一瞬、白く光る。
猫魔術――雷。
烏男は感電し、動きがわずかに鈍る。
その瞬間。
重い衝撃が、腹部を打った。
メドの一撃だった。
丸太のような前足が、容赦なく突き刺さる。
さらに――
回り込んでいたワンが、部下数匹と同時に踏み込む。
低い体勢からの体当たり。
脚を刈るような、正確な足払い。
烏男の体勢が崩れ、仰向けになる。
「小賢しい……!」
その顔面に、影が落ちた。
エルマタだった。
ものすごい勢いで跳び上がり、頭突きを叩き込む。
鈍い音。
土煙が、視界を覆う。
『大親分!』
エモンの声が飛ぶ。
『ここは、アッシらに任せてください!』
黒猫は、一瞬だけ振り返った。
倒れている仲間たち。
まだ、動ける猫たち。
『……すまない』
短く、それだけを言う。
『チビ娘、走れるか?』
「うん!」
ミイナは、必死に頷いた。
「猫さんたち! ありがとう! 死なないでね!」
叫ぶと、あちこちから声が返る。
『おうよ!』
『気ぃつけて行け!』
『任せとき!』
その瞬間。
「――逃がすと思うか?」
不気味に甲高い声。
土煙の向こうから、烏男が立ち上がる。
剣を引きずりながら、こちらを見ていた。
傷は浅い。
致命的ではない。
『逆に、追わせると思いやすか?』
エモンが前に出る。
キッド、メド、ワン、エルマタが並ぶ。
五匹の頭目が、道を塞いだ。
『行け』
黒猫の声は、低く、はっきりしている。
『走るぞ。振り返るな』
ミイナは歯を食いしばり、走り出した。
東へ。
ただ、前だけを見て。
背後で、猫の鳴き声と衝撃音が重なる。
何度も、何度も。
振り返りたくなる衝動を、必死に押さえ込みながら――
ミイナは、走り続けた。
*
東へ抜けた道は、急にひらけた。
石畳が途切れ、乾いた土の広場へと変わる。
荷車の轍がいくつも刻まれ、中央には使われなくなった噴水跡。
町外れ――人の気配は、ほとんどなかった。
ミイナは、息を切らして立ち止まった。
背後の音は、まだ遠い。
けれど、追ってくる気配だけが、確かに残っている。
そのとき、気がついた。
広場の中央。
噴水跡の縁に――誰かが立っていた。
白い。
それが、最初の印象だった。
月光でも、砂埃でもない。
昼の光の中で、はっきりと“白い”。
細身の人影。
長いフード付きの外套をまとい、風に揺れる髪も、雪のような色をしている。
そして――
頭の上に、猫の耳。
ぴんと立ち、わずかに動いた。
人間の姿をしているのに、
どこか決定的に、人ではない。
ミイナは、思わず足を止めた。
(……きれい)
それは、美しい、という言葉よりも先に浮かんだ。
透き通るような白い肌。
深い海の底を思わせる、青い眼。
ニイナも、美人だった。
けれど――
(こんな人、初めて……)
その腰には、剣が二本。
一本は、弧を描くように曲がった刀身。
もう一本は、鉄板と鎖で幾重にも巻かれ、封じられている。
ただ立っているだけなのに、
広場の空気が、静まり返っていた。
黒猫が、ミイナの前に出る。
尻尾が、ほんのわずかに揺れた。
驚きではない。
警戒でもない。
――確認だ。
白い剣士は、ゆっくりとこちらを見た。
視線が、まず黒猫を捉え、
次に、ミイナへと移る。
そして、微かに――
口元が、緩んだ。
その瞬間。
黒猫が、低く息を吐く。
『……助けてくれ』
それだけだった。
名も呼ばない。
説明もしない。
けれど、ミイナには分かった。
この人は――
黒猫さんが、“対等”に見る存在だ。
白い剣士は、鈴が鳴るような声で言った。
「間に合ったようですね」
凛としているのに、どこか柔らかい声音。
そして、一歩だけ前に出る。
その足取りは、静かで、迷いがない。
「――追手は、どこです?」
『猫たちが足止めしてる。長くは持たないだろう』
広場に、風が吹き抜ける。
遠くで、破裂音が連続した。
黒い煙が立ち上っているのが見える。
「猫さんたち……」
追撃は、近い。
ミイナは、そう確信した。
白い剣士は、腰の剣には触れない。
ただ、静かに立ったまま。
その凛とした佇まいは、
焦りも、困惑もないように見える。
その背中は、
不思議なほど、大きく見えた。
*
それから数瞬して、風が止んだ。
さっきまで広場を渡っていたはずの乾いた風が、ぴたりと途切れる。
音が、消える。
――嫌な静けさだった。
白い剣士は、わずかに視線を動かした。
黒猫の尻尾が、ぴんと張りつめる。
『……来たか』
次の瞬間。
ゴン、と鈍い音が響いた。
広場の端。
崩れた石壁の向こうから、何かが叩きつけられるように現れる。
石片が跳ね、土煙が舞った。
人影。
いや――
黒い外套。
長剣。
人の胴体。
そして、烏の頭。
赤黒い眼が、ぎらりと光った。
烏男だった。
その足元には、引きずったような跡が残っている。
猫の毛。
血。
まだ、乾いていない。
ミイナの喉が、ひくりと鳴った。
「……追いついた」
烏男は、広場を一瞥する。
逃げ道。
噴水跡。
そして――
白い剣士。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、烏男の動きが止まった。
「……ほう」
低く、かすれた声。
感心したようでもあり、値踏みするようでもある。
「これは、これは」
赤黒い眼が、白い剣士を舐めるように見た。
次いで、黒猫へ。
そして、最後に――ミイナの左手。
指輪。
口元が、歪む。
「随分と、面白い駒を隠していたな」
黒猫が、一歩前に出る。
ミイナを、完全に背に庇う。
『昔馴染みでね』
言い切る前に、烏男が剣に手をかけた。
抜かない。
ただ、触れるだけ。
それだけで、空気が軋んだ。
「そこの白い剣士。相当な武人とお見受けする」
問いは、黒猫ではなく――
白い剣士に向けられていた。
白い剣士は、静かに答える。
剣には、まだ触れない。
「ええ。それなりには」
鈴の鳴るような声。
澄んでいて、冷たい。
「そして――」
一歩、前に出る。
その動きに、無駄はない。
殺気もない。
ただ、確信だけがある。
「貴方の相手を所望します」
烏男の眼が、細くなった。
笑ったのか、怒ったのか、分からない。
「ほう……面白い。尋常に一騎打ちと行こうではないか」
白い剣士は、首を傾げる。
ほんの、わずかに。
「意外と紳士的なのですね」
その声音は、変わらない。
「俺は剣士だ。剣士相手には礼を尽くす」
一拍。
青い眼が、黒猫を一瞬だけ映す。
そして、眼前の烏男を見据える。
剣には、まだ手を触れない。
烏男は、じりじりと間合いを詰めてくる。
ミイナには、白い剣士が不利に思えた。
白い剣士の武器は、“くの字”に曲がった曲剣。
シャムシールだと、教えてもらったことがある。
盾を躱して攻撃するための剣だが、
刀身が曲がっている分、リーチは短い。
もう一本は封じられているため、使わないだろう。
一方、烏男の大剣は大きく、長い。
シャムシールのリーチの倍はあるように見える。
さらに、上段に構え、いつでも振り下ろせる体勢だ。
白い剣士は、剣に触れてすらいない。
「……黒猫さん。あの人大丈夫かな……?」
ミイナは、不安そうに問いかけた。
『心配するな。奴の名はペルシャ――』
その瞬間。
言い終わらないうちに、烏男はものすごい速さで大剣を振り下ろした。
風切音とともに、脳天めがけて刃が迫る。
そこで、ようやく白い剣士が曲剣に手をかけた。
そして――
曲剣の刀身がしなり、まっすぐに伸びる。
ヒュン、という音とともに、
刃は烏男の首へと食い込んだ。
『獣王国軍のNo.2だ』
黒猫が言い終わると同時に、
烏男の首は、地面に落ちていた。
「ごめんなさい」
白い剣士は、静かに言う。
「私は、騎士道に殉じる趣味はありませんの」
転がった首の赤黒い眼が、驚愕に見開かれる。
黒猫とミイナを追い詰めていた烏男の意識は、
ここで、終わりを迎えたのだった。




