烏男と猫軍団
路地裏の積み上げられた木箱の上に、彼らはいた。
『……大親分。お待ちしておりやした。エモン一家、配置完了しておりやす』
低く、落ち着いた声だった。
青みがかった紺色の毛並み。体格のいい猫が、木箱の上に腰を据えている。
どうやら、エモンという名前らしい。
『遅い!遅いよ!もう来ないかと思った!何回も迎えに行こうと思った!でも、エモンがエルマタに動くなって!』
せっかちな猫だ。
エルマタという赤茶のトラ猫は、箱の縁に前足をかけ、身を乗り出している。
尖って反り返った耳は、見る角度によっては角のようにも見えた。
『待たせたな』
黒猫は短く応えた。
二匹の間を一度だけ見やると、すぐに視線を表通りへ向ける。
ミイナも、つられるようにそっと顔を出した。
通りには、人がいる。
荷車を押す商人。
立ち話をする女たち。
子どもが走り、笑い声が弾む。
――いつも通りの街だった。
でも。
ミイナは、違和感に気づいた。
屋根の縁。
壁の影。
看板の上。
そこかしこに、猫がいる。
寝そべっているようで、眠っていない。
毛づくろいをしているようで、目だけが動いている。
偶然そこにいる、という数ではなかった。
(……見てる)
誰を、とは分からない。
けれど、街全体が静かに見張られている――そんな気がした。
『人間どもは、いつも通りでさ』
エモンが言う。
『市場も門も、変な動きはねぇです』
『でも西が変!』
すぐにエルマタが口を挟んだ。
『烏!西の方で、やたら騒いでる!屋根の上も、塀の向こうも!』
黒猫は、短く息を吐く。
『……そうか。西には馬車の乗合場がある。先手を打たれたな』
それだけだった。
驚きも、迷いもない。
『西は避ける』
間を置かず、続く。
『市場を抜けて、東に出る』
エモンが頷いた。
『東側の見張り、もう動かしておりやす』
エルマタが尻尾を揺らす。
『合図があったら、いつでも行けるよ!戦う?ねぇ?蹴散らす?』
ミイナは、黒猫を見上げた。
いつの間にか、この猫の言葉一つで、街が動いている。
(……黒猫さん、ただの猫じゃない)
黒猫はその視線に気づいたのか、一度だけ振り返った。
『いいか、チビ娘』
低く、はっきりとした声。
『ここからは、烏男が相手だ。油断するなよ』
ミイナは、ぎゅっと左手を握る。
指輪の冷たさが、まだ残っていた。
『ついて来い』
そう言って、黒猫は路地の奥へ歩き出す。
ミイナも小走りで、その背中を追った。
木箱の上から、二匹の猫が無言で合図を交わす。
そして街のあちこちで、静かに猫たちが位置を変えていった。
人間は、誰も気づかない。
黒猫は路地を抜け、市場へ向かう。
人の流れに紛れるような、自然な足取りだった。
急がない。
振り返らない。
ミイナは胸の前で両手を握りしめ、必死についていく。
市場は、昼前で賑わっていた。
果物の山。
香辛料の匂い。
焼き菓子の甘い煙。
魚籠から滴る水。
――いつも通りだ。
でも、やっぱりいる。
露天の屋根。
柱の影。
天秤棒を担ぐ男たちの側。
袋の山の隙間。
猫。
猫。
猫。
猫。
数えきれないほど。
ミイナと目が合う猫もいる。
それでも鳴かない。
寄ってもこない。
ただ、そこにいる。
(……人が多すぎる)
ニイナは人混みを縫うように進むが、思うように行かない。
露天の魚屋の前を通った、そのときだった。
ばしゃっ。
銀色の魚が一匹、地面に落ちた。
「おい!」
店主の怒鳴り声。
次の瞬間、三毛猫が魚を咥える。
魚は、消えた。
屋台の下から影が走り抜ける。
一瞬、尻尾だけが見えた。
「なんだ今の!」
店主が身を乗り出す。
客が集まり、視線がそちらに向く。
黒猫は、何も言わずに進んだ。
ミイナも流れに押されるように歩く。
胸が、どくどくと鳴っている。
(……今のタイミング。わざとだ)
別の露天で、果物籠が揺れて倒れる。
果物が転がり、人の声が重なった。
市場が、一瞬だけざわつく。
その隙間を、黒猫とミイナは抜けていった。
市場の端が見えた、そのとき。
ミイナは、視線を感じた。
高いところ。
顔を上げる。
屋根の縁。
その脇、日除け布の柱。
一羽の烏が止まっていた。
黒い羽。
光を吸い込むような色。
動かない。
鳴かない。
ただ――こちらを見ている。
ミイナの喉が、ひくりと鳴った。
黒猫は歩調を変えない。
けれど、低く言う。
『見るな。このまま進むぞ』
ミイナはすぐに目を伏せた。
烏の気配が、背中に残っていた。
*
市場の喧騒が、遠ざかっていく。
呼び声も、笑い声も、背中の方へ薄れていく。
人はいる。
けれど、まばらだった。
荷を担いだ男が一人、道の端を通り過ぎる。
遠くで、子どもの笑い声がする。
街は相変わらず、いつも通りだ。
それなのに――
ミイナは、その「いつも通り」に違和感を覚えた。
屋根の縁。
壁の影。
看板の上。
さっきまで、そこかしこにいた猫が。
今は、見えない。
一匹も。
黒猫も気づいたのか、歩様をわずかに緩める気配だけを見せた。
だが、止まらない。止まれない。
ただ、尻尾の先が、ほんのわずか揺れる。
『……配置が薄い』
ぼそりと漏れた声は、誰に向けたものでもなかった。
ミイナの喉が、からりと乾く。
西の方角から、烏の鳴き声がかすかに届いた。
騒がしい。
同じ調子で、何羽もの鳴き声が重なっている。
(西が変、って……)
そう思った、その瞬間だった。
道の先に、黒いものが立っていた。
いつからそこにいたのか、分からない。
歩いてきた気配もない。
気づいた時には、もうそこにいた。
黒い外套。
背負った長剣。
人の胴体。
――頭だけが、烏。
ミイナの息が止まった。
フードの奥で、赤黒い眼が光る。
縦に裂けた瞳孔が、ゆっくりとこちらを捉えた。
黒猫が、ミイナの前へ一歩出る。
小さな背中が、道を塞いだ。
『……烏男』
低く、短い声。
確認というより、吐き捨てに近かった。
烏男は動かない。
剣にも触れない。
ただ、見ている。
その視線が落ちたのは、ミイナ本人ではない。
左手。
薬指。
白銀の指輪。
ミイナは反射的に手を引いた。
遅い。
もう、見られている。
黒猫が歯を噛む音を立てた――気がした。
『西の烏は……囮か』
今度は、ミイナにも分かった。
だから猫がいない。
見張りが、西へ引っ張られた。
烏男の眼が細くなる。
笑っているようにも見えた。
そして、初めて口を開く。
「――それを、渡せ」
その一言で、空気が変わった。
妙に甲高い声だった。
ミイナは、背筋が冷えていくのを感じる。
黒猫が短く言った。
『チビ娘。俺の後ろから、出るな』
ミイナは、頷くことしかできなかった。
『やるの? やっていいの⁉︎』
『こいつはやられましたね』
エルマタはなぜかはしゃぎ、エモンはやれやれといった様子で呟く。
黒猫とエモン、エルマタは、ミイナの前に立ち塞がるように踊り出た。
「猫如きが。邪魔をするなら、斬り伏せる」
『やってみろよ。トリ頭』
黒猫が言い終わるより早く、烏男は跳躍した。
抜刀。
すさまじい速さ。
三匹へ向けて、斬撃が走る。
空気が裂ける音がした。
だが、三匹も速い。
三者三様に跳び、斬撃を躱す。
そのまま、烏男の背後へ回り込む。
烏男は即座に反転する。
だが、そのときには――
エルマタが、烏男の脛に噛みついていた。
「小賢しい!」
烏男が蹴りを繰り出し、エルマタを振り落とす。
同時に、エモンと黒猫の肉球が顔面へ迫った。
猫魔術《弾き》。
魔力を帯びた肉球から放たれる衝撃が、烏男を打ち抜く。
身体が宙を舞い、壁面へ激突した。
さらに。
壁にめり込んだ烏男へ、エルマタが頭突きを叩き込む。
衝撃は、普通の猫のものではない。
これも、猫魔術なのだろう。
烏男は、何枚もの壁を貫通し、遥か先の通りまで吹き飛ばされた。
『今だ! 逃げるぞ、チビ娘!』
黒猫が叫ぶ。
ミイナが走り出そうとした、その瞬間。
目の前を、猫が舞った。
エルマタだった。
烏男に、投げ飛ばされたのだ。
遥か遠くへ吹き飛ばされたはずの烏男が、
次の瞬間には、壁を蹴り砕き、ものすごい速さでこちらへ迫っていた。
*
『……そう簡単には行かせてもらえないか。エモン。エルマタ。もう一度だ』
『へい。大親分』
エモンは、落ち着いた声で応える。
『あの烏頭! やってくれたねぇ! やってくれちゃったよねぇ!』
エルマタは、戦意満々だった。
「鬱陶しい猫どもが。なかなかやるじゃないか。
では、これならどうする?」
烏男は、外套を脱ぎ捨てた。
異形だった。
身体は人型。
だが上半身は、黒い羽毛に覆われ、筋肉質な体つきを隠している。
羽毛が、一斉に逆立つ。
次の瞬間。
あたり一体に、黒い羽が飛散した。
凄まじい数だ。
ミイナの方へも、羽が迫る。
『クソっ!』
黒猫が跳躍し、ミイナに向かう羽へ突進した。
ボンッ。
破裂音。
ボン!
ボン!
ボン!
ボン!
ボンッ!
連続する破裂音。
ミイナはしゃがみ込み、目と耳を閉じることしかできなかった。
土煙が、風に流される。
恐る恐る目を開ける。
黒猫は、ミイナのそばで横たわっていた。
エルマタは、壁際でへたり込んでいる。
エモンは、地面に倒れ伏していた。
「愚か者どもが。抵抗するから、こうなるのだ。
さっさと指輪を渡してもらおう」
烏男が、ミイナへにじり寄る。
ミイナは、立ちすくんでいた。
脚が、動かない。
そのときだった。
「ニャーーオ!」
声が、空気を震わせる。
屋根という屋根に。
壁という壁に。
ひしめくように、猫が現れた。
そのすべての眼が――
烏男を、睨みつけていた。




