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お屋敷と烏男

屋敷での仕事は、思ったよりも静かだった。

朝はまだ涼しく、石の床はひんやりとしている。

ミイナは濡らした布を引きずりながら、長い廊下を往復した。

砂は、どこからか必ず入り込む。

窓を閉めても、扉を閉めても、細かな粒が床に残る。

何度拭いても、完全には消えなかった。

「もういいわ」

監督役の女が、あきれたように言った。

ミイナは布を持ったまま立ち尽くす。

まだ残っている気がしたが、それを口にする勇気はなかった。

ニイナは違った。

同じ廊下を拭いても、動きに無駄がない。

布の絞り方も、拭く順番も、すべてがちょうどいい。

叱られることもない。

ミイナは、ニイナの背中を見ながら思った。

(ニイナは、ここに向いてる)

それが、少し誇らしくて、少し寂しかった。

昼になると、屋敷の中はさらに静かになる。

外は暑いはずなのに、厚い石壁のおかげで中は涼しい。

風が通るわけでもないのに、空気は動かない。

匂いだけがあった。

甘い香り。

最初は、いい匂いだと思った。

けれど、何度も嗅いでいるうちに、喉の奥に引っかかる感じがしてくる。

食事は十分だった。

量も、味も、奴隷市場とは比べものにならない。

それでも、ミイナはあまり食べられなかった。

満腹になると、眠くなりすぎる気がした。

夕方になると、仕事は終わる。

ミイナは早い。

「もう下がっていい」

そう言われる。

ニイナは残る。

最初は、片付けがあるのだと思っていた。

次に、特別な仕事があるのだと思った。

ニイナは、何も言わない。

夕食を終えると、女たちがニイナを呼ぶ。

髪をとかし、顔を拭き、綺麗な服に着替える。

香りを、少しだけ首元につける。

ミイナは隅で、それを見ていた。

「ニイナは、えらいね」

そう言うと、ニイナは少しだけ笑った。

「そう?」

「うん。ちゃんとできてる」

ニイナは、何か言いかけて、やめた。

「……先に戻ってて」

ミイナは頷き、部屋を出る。

夜の屋敷は、昼よりも静かだった。

灯りはあるのに、人の気配が薄い。

寝所は屋敷の奥にあった。

天井は低く、窓は小さい。

風は通らない。

ミイナは寝台に座り、足を抱えた。

時間の感覚が、分からなくなる。

ニイナが戻る日もあれば、戻らない日もあった。

戻る日は遅く、戻らない日は理由を聞かされない。

「疲れてるだけよ」

「ご主人様に呼ばれたの」

そう言われる。

ミイナは頷く。

夜になると、屋敷の外で鳥の声がする。

風のせいで、方向は分からない。

遠いのか、近いのかも分からない。

ミイナは布を被り、目を閉じる。

眠ると、夢を見る。

砂の上に立っている夢。

前をニイナが歩いている。

追いつこうと駆け出すが、砂に脚を取られ、前に進めない。

ニイナは、どんどん先に行ってしまう。

呼び止めても、叫んでも、振り返ってくれなかった。

目が覚めると、朝だった。

鳥の声はしない。

庭はきれいだが、動くものが少ない。

ミイナは顔を洗い、また布を手に取る。

布を絞り直し、床を拭く。

砂は、今日も残っている。

どれだけ拭いても、消えなかった。



その夜、屋敷はいつもより静かだった。

風の音がしない。

庭の木も揺れず、噴水の水音だけが規則正しく響いている。

ミイナは回廊を拭き終え、布を桶に戻した。

もう夕方だ。自分の仕事はここまで。

「先に戻っていいわよ」

そう言われ、ミイナは頷いた。

いつも通りのはずだった。

けれど、歩き出してから違和感に気づく。

屋敷の空気が、冷たい。

涼しいのとは違う。

肌にまとわりつくような、重い冷え方だった。

庭に面した回廊を通りかかったとき、ミイナは足を止めた。

一本の木が、闇の中に立っている。

枝の影が、妙に濃い。

「……?」

影の形が、人に見えた。

次の瞬間、それが影ではないと分かった。

黒い外套をまとった大男が、庭の木のそばに立っていた。

頭は――烏だった。

人の胴体に、烏の頭。

首の境目は外套に隠れ、つなぎ目が見えない。

背中には長剣。

ただ立っているだけなのに、そこだけ空気が歪んで見えた。

ミイナは声が出なかった。

逃げる、という発想が浮かばない。

足が床に縫いつけられたようだった。

烏男が、こちらを向く。

フードの奥で、赤黒い光がぎらりと瞬いた。

瞳孔が、縦に裂けているように見えた。

見てはいけない。

そう思った瞬間、視線が絡め取られる。

――違う。

烏男は、ミイナを見ていなかった。

視線は、その奥。

回廊のさらに向こう。

ミイナの背後。

「……ミイナ?」

震えた声がした。

振り返ると、ニイナが立っていた。

夜の支度を終えたあとだったのだろう。

髪は整えられ、首元には香水の匂いが残っている。

ニイナは、ミイナの向こうを見た。

そして、凍りついた。

表情が、はっきりと変わる。

息を吸うのを忘れたように、胸が動かない。

ミイナは初めて見た。

ニイナが、はっきりと恐怖する顔を。

烏男の眼が、ニイナを捉える。

赤黒い光が、さらに濃く、強くなる。

まるで“開いた”ように見えた。

ニイナは一歩、後ずさる。

「……来ないで」

小さな声だった。

命令でも、懇願でもない。

烏男は動かない。

剣にも触れない。

ただ、見ている。

見られている。

それだけで、十分だった。

ニイナの手が震え始める。

香水の匂いが、急にきつくなった気がした。

ミイナは、状況が分からない。

分からないまま、ニイナの前に立とうとした。

「ニイナ……?」

その瞬間、烏男の視線が一瞬だけミイナを掠めた。

――冷たい。

興味のないものを見る目。

そして、すぐにニイナへ戻る。

ニイナは理解した。

逃げられない。

これは、間違いじゃない。

自分が、狙われている。

烏男は何も言わない。

それでも、ニイナには分かってしまった。

この屋敷は、守ってくれない。

ここにいても、“幸せ”は続かない。

烏男の影が、庭の闇に溶ける。

気づけば、そこには誰もいなかった。

足音もない。

風もない。

噴水の音だけが、何事もなかったように響いている。

ミイナは、息を吐いた。

「……今の、なに?」

ニイナは答えなかった。

ただ、ミイナの肩を強く掴む。

落ちてしまわないように、確かめるみたいに。

その手は、ずっと震えていた。



それから、烏男は何度も現れた。

最初は夜だけだった。

回廊の先、庭の縁、屋根の影。

いつも少し離れた場所に立ち、

何もせず、ただ見ていた。

ミイナがいるときも、いないときも。

けれど、視線はいつも同じだった。

ニイナ。

烏男は、ミイナを一度も追わない。

近づきもしない。

目を合わせようとすらしない。

まるで、

そこにいないものとして扱っているようだった。

ニイナは、夜ごとに眠れなくなった。

香水の量が増えた。

首元だけでなく、手首、髪、耳の裏。

「大丈夫よ」

そう言う声が、日に日に弱くなる。

ミイナは気づく。

ニイナが、夜に外を見なくなったこと。

庭に背を向けて眠るようになったこと。

回廊を通るとき、必ず壁側を歩くようになったこと。

烏男は、待っている。

追い詰めない。

逃がしもしない。

ただ、

ここにいる

という事実だけを、

何度も、何度も見せつけてくる。

ある夜、屋敷が騒がしくなった。

最初は女たちの悲鳴と怒鳴り声。

そのあと、

低く、抑えた声がいくつも重なった。

ミイナは、ニイナの手を引いた。

「見ちゃだめ」

ニイナは、そう言った。

でも、足が動かなかった。

生ぬるい風に乗って、鉄のような匂いがする。

ミイナは初めて、それが血の匂いだと知った。

護衛の一人だった。

昼間、門のそばに立っていた男。

無愛想で、

でもミイナに水を分けてくれたことがある。

その男が――

木に、吊るされていた。

正確には、

突き刺さっていた。

長剣が、

身体ごと、幹に打ち込まれている。

足は地面から浮き、

首は、ありえない角度に折れていた。

血はもう滴っていない。

乾き始めている。

時間が、少し経っていた。

「……っ」

ニイナが、音を殺して息を吸う。

誰も近づこうとしない。

使用人たちは視線を逸らして立っている。

屋敷の主は、姿を見せなかった。

誰かが言った。

「外に漏らすな」

「盗賊だろう」

「魔物かもしれん」

ミイナは、木の上を見た。

枝の影に、黒いものがいた。

外套。

烏の頭。

背中の剣。

フードの奥で、

赤黒い眼が、ぎらりと光る。

その眼は、

護衛でも、人々でもなく、

ニイナを見ていた。

ニイナは分かった。

これは、警告だ。

逃げるな、ではない。

逃げても無駄だ、という意味。

護衛が殺されたのは、

強かったからでも、

邪魔だったからでもない。

ただ、警告のために殺されたのだ。

ニイナの指先が冷たくなる。

胸の奥で、何かが、はっきりと形を取る。

(私だ)

(私の“あれ”が、これを呼んでいる)

ミイナが、

何も知らないまま、

隣に立っている。

それが、

何よりも恐ろしかった。

烏男は、剣を引き抜くこともなく、

ゆっくりと木の影に溶けた。

残されたのは、

吊るされた死体と、

何事もなかったように動き続ける屋敷だけ。

ニイナは、ミイナの手を握り返した。

強く。

痛いほどに。

その夜、

ニイナは一睡もしなかった。



翌日の屋敷は、何事もなかったように動いていた。

庭の木は切り倒され、

血の跡は砂で覆われ、

噴水の水音だけが、昨日と同じ調子で響いている。

吊るされていた護衛の姿は、朝にはもうなかった。

代わりに、

いつもより多い護衛が門のそばに立ち、

回廊の角に立ち、

影の濃い場所を埋めていた。

人が増えれば安心するはずなのに、

空気は軽くならない。

むしろ、重くなっていた。

皆が小声で話し、

必要なことだけを短く言い、

視線を合わせない。

ミイナは朝から雑用を命じられた。

水汲み、床拭き、衣服の運搬。

同じ仕事でも、いつもより急かされる。

「早く」

「黙って」

「ぐずぐずしないで」

その言葉が、何度も飛んでくる。

ミイナは頷いて働いた。

働くことしか、できなかった。

ニイナは昨日よりさらに静かだった。

手は休めない。

指示は一度で飲み込む。

失敗もしない。

それなのに、ミイナの目には分かる。

ニイナの動きのどこかが、固い。

回廊を歩くとき、壁側に寄りすぎる。

庭に面した窓の前を通るとき、呼吸が浅くなる。

誰かに名前を呼ばれたとき、肩が一瞬だけ跳ねる。

そして何より、香りが濃い。

首元に、手首に、髪に。

甘い匂いが、いつもより強く残っている。

その下から、ほんの少しだけ汗の匂いが混じっていた。

夕方。

ミイナの仕事は、いつも通り終わった。

「もう下がっていいわ」

監督役の女がそう言い、

ミイナは布を桶に戻して頭を下げた。

足はくたくたで、

手のひらがひりひりした。

寝所に戻る途中、ミイナは振り返る。

ニイナは、まだ呼ばれていない。

女たちも、今日はすぐにニイナを連れていかなかった。

代わりに、護衛が二人、ニイナの近くに立っている。

守っているように見える。

護衛の目は、

庭や廊下の先ではなく、ニイナを見ていた。

ニイナは気づいていないふりをして、床の布を整えている。

指先が、わずかに震えていた。

ミイナは、何か言いたかった。

「大丈夫?」

「今日は呼ばれないの?」

でも、声をかけようとした瞬間、背中が冷えた。

言葉を言ってはいけない気がした。

屋敷全体が、そういう空気だった。

ミイナは寝所に戻った。

夜になっても眠れない。

灯りは消され、天井の低い部屋が暗くなる。

外は砂嵐の気配がない。

それなのに、胸の内側がざらざらする。

布を被り、目を閉じる。

眠りかけたころ、

遠くで金属の音がした気がした。

鍵束のような音。

目を開ける。

暗い。

何も見えない。

気のせいだ、とミイナは思った。

そう思おうとした。

――ほんの少し後。

布が、そっと揺れた。

「ミイナ」

囁く声。

ミイナは跳ね起きる。

そこに立っていたのは、ニイナだった。

夜の闇の中でも、顔の白さがはっきり分かる。

香水の匂いが、いつもより近く、きつい。

髪はまとめられているが、乱れていた。

「……ニイナ?」

名前を呼ぶと、ニイナは指を唇に当てた。

「声、出さないで」

ミイナは頷く。

心臓が、うるさい。

ニイナはミイナの手を掴み、寝所の外へ連れ出した。

廊下は暗く、灯りは最小限だった。

石壁が、妙に冷たく感じる。

角を曲がるたび、ニイナは立ち止まり、

耳を澄ませ、気配を確かめる。

その動きが、ミイナには怖かった。

ニイナが、こんなふうに怯えるのを初めて見た。

庭に面した回廊に出たところで、

ニイナはようやく立ち止まった。

闇の中で、噴水の水音が小さく響いている。

「ミイナ……お願い。ここから逃げよう」

声が震えていた。

目も揺れている。

「え……?」

意味が分からない。

ニイナは両手でミイナの肩を掴み、視線を合わせた。

「いい? 私たちは……ここにいたら、だめなの」

言い切ってから、息を吸う。

胸が大きく上下する。

「先に逃げて。私、あとから追いつくから。必ず。だから」

笑おうとした。

でも、うまく笑えなかった。

ミイナは混乱したまま、頷いてしまう。

ニイナが言うなら、正しい気がしたから。

「どこに……?」

「外の、噴水」

噴水。

市場へ買い出しに連れていかれたとき、

遠くに見えた水のきらめき。

砂の中にぽつんとある緑。

「分かる? オアシスの……噴水」

ミイナは頷いた。

喉が乾いているのに、唾が出ない。

ニイナは胸元に手を入れ、小さなものを取り出した。

白銀の指輪だった。

闇の中でも、淡い光を拾う。

表面には、紋章が彫られている。

コップ?いや盃だっただろうか?それに蛇が巻き付いている。

それを見た瞬間、理由もなく息を呑んだ。

冷たい気がした。

金属が、肌ではなく心に触れてくるみたいだった。

「これ……私の、大切なお守りなの」

声が、少しだけ柔らかくなる。

「ねえ、ミイナ。これを預かって。大事にして。落としちゃだめ」

ミイナは首を振りかけた。

「でも……ニイナの……」

「お願い」

ニイナが笑った。

ミイナも、今度は少しだけ笑えた。

ニイナは、泣きそうな笑い方だった。

「これがあれば、私……迷わないから。追いつけるから」

意味は分からなかった。

でも、その目を見て、反論できなくなった。

ニイナはミイナの左手を取り、

薬指に指輪をはめる。

白銀が触れた瞬間、ひやりとした。

ただの金属とは違う冷え方だった。

「……重い」

ぽつりと言うと、ニイナは小さく頷いた。

「大切なものは、重いの」

屋敷のどこかで、微かな足音がした。

ニイナの顔が硬くなる。

ミイナの手を、強く掴む。

「行って」

囁き声が、命令になる。

「今すぐ。走って。振り返らないで」

ミイナは立ち上がる。

足がもつれる。

「ニイナも……一緒に……」

「私も、すぐ行く」

ニイナはミイナの額に手を当てた。

撫でるではなく、確かめるように。

「ミイナは、ちゃんと生きて。お願い」

その言葉の意味が分からず、胸が痛くなる。

ミイナは走り出した。

回廊を抜け、裏手の小さな門へ。

昼間、水汲みの女たちが通っていた場所。

鍵は――開いていた。

ニイナが準備したのだろう。

門の外に出ると、夜の砂漠の空気が頬に刺さる。

冷たく、乾いている。

走る。

足元の砂が滑る。

胸が痛い。

背後で、屋敷の噴水の音が遠ざかる。

振り返りたい。

ニイナがついてきているか、確かめたい。

でも、ニイナは言った。

振り返るな。

歯を食いしばって走った。

指輪が、指に重い。

オアシスの噴水に辿り着いたとき、

ミイナは膝から崩れ落ちた。

水の匂い。

湿った土の匂い。

草の匂い。

ここだけが、世界の違う場所だった。

噴水の縁に手をつく。

冷たい水が跳ね、指先が濡れる。

「ニイナ……」

声が漏れ、夜の空に溶けた。

ミイナは噴水のそばで待った。

きっと来る。

ニイナは、必ず来る。

それが、当たり前みたいに思えた。

だから、動かなかった。

夜が深くなり、

空が白み始めても、動かなかった。

噴水の水音だけが、

ずっと同じ調子で響いていた。

――ニイナは、来なかった。


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