ゴンドラと悪魔蝙蝠
ゴンドラは、最初はほとんど動かなかった。
「……?」
ミイナが足元を見る。
鉄籠は軋み、わずかに揺れただけだ。
次の瞬間――
ガクン!
ゴンドラ全体が、落ちた。
「っ……!」
数十センチ。
ただそれだけの降下だったはずなのに、感覚が一気に変わる。
空気が、違う。
砂漠の乾いた風ではない。
冷たく、重く、下へと引きずる流れ。
ゴンドラの鎖が、ぎぃ……と低く鳴った。
「……始まりましたね」
ペルシャが静かに言う。
「ガガ、どう?」
ミイナが声をかける。
ゴンドラの外、岩壁に沿って設置された操作台。
本来ならエステラで操作するはずのウィンチを、ガガは手動のハンドルで回している。
ガガは、視線を下に落としたまま、短く答えた。
「順調ダ」
「止めらレル。戻れル」
一拍置いて、
「今ハ、な」
その言葉が、妙に重く感じた。
ギゴはさらに後方、縁の外側に立っている。
弓を構えたまま、穴の中の闇を見つめていた。
「……気をつけロ」
誰に向けた言葉かは分からない。
ミイナは、ゴンドラの中で自然と姿勢を正した。
足裏に重心を落とし、揺れを受け流す。
身体が、勝手にそうしている。
(……外とは、全然違う)
音が、狂っていた。
声は下に落ち、反響して戻ってくる。
距離感が掴めない。
近いはずのモノが遠く、遠いはずの音が耳元で鳴る気がした。
『ここからは、ダンジョンでござる』
クロスケの声が、妙にはっきりと響いた。
『外の常識は、半分は捨てるでござるよ』
ゴンドラは、ゆっくりと降下を続ける。
人工の遺構が、次々と視界を横切った。
錆びた桟橋。
崩れた足場。
途中で折れ、闇に消えた昇降路。
かつては人がいた場所。
今は、何もいない。
……はずなのに。
「……ミイナさん」
ペルシャが低く呼ぶ。
「聞こえますか?」
ミイナは、頷きかけて――止まった。
風ではない音。
反響でもない。
羽音だ。
はるか下。
まだ、姿は見えない。
だが、空気が震えた。
ギゴが、弓を引き絞る。
「来るゾ」
その一言と同時に、
ゴンドラの鎖が、大きく軋んだ。
下から何かが、舞い上がる。
闇のなかから、それは現れたのだった。
*
下から湧き上がってきたそれは、最初は影にしか見えなかった。
岩壁にへばりつく影。
いや――影が、影を連れて上がってくる。
羽音が、遅れて届く。
低く、湿った音。
風を切る音ではない。
空気そのものを押し潰すような振動だった。
「……え」
ミイナの喉が、ひくりと鳴った。
それは、蝙蝠だった。
だが――
大きさが、違う。
翼を広げた瞬間、縦穴の影がさらに濃くなる。
人の背丈よりも大きな翼幅。
薄い皮膜の奥に、血管のような赤黒い筋が浮かび上がっている。
頭部は獣。
牙は外に突き出し、顎が裂けるように開いていた。
悪魔蝙蝠、デビルゾアと呼ばれる魔物だった。
ギゴの喉が、低く鳴る。
「……来タ」
次の瞬間だった。
ギィィィ――――ン!
耳鳴り。
いや、違う。
音が、頭の中で鳴っている。
「っ……!」
ミイナの視界が、一瞬、傾いた。
上下が分からなくなる。
身体が、浮いたような感覚。
「超音波です!」
ペルシャの声が、はっきりと届いた。
「目を閉じないで! 一点を見て!」
クロスケが、即座に叫ぶ。
『耳を塞ぐな! 姿勢を保て!』
ミイナは、歯を食いしばり、ゴンドラの床を踏みしめた。
揺れが、来る。
だが――
(……立っていられる)
重心を落とす。
揺れを、受け流す。
二年間、立ち続けた感覚が、身体を支えた。
ギゴの弓が、鳴った。
――ヒュン!
矢は、闇を裂いて飛ぶ。
そして的確に、デビルゾアの頭部を貫いた。
脱力したデビルゾアは、糸の切れた人形のように、大穴に落下していく。
「やった! ギゴさんすごい!」
ミイナは感嘆の声を上げる。
「いいえ。ここからです」
「え?」
ミイナは、ヒヤリと背筋が冷える感覚がした。
大穴の壁面。
壁という壁に、彼らはいた。
デビルゾアの群れ。
四方八方から、黒光りする瞳が、ジロとゴンドラを見つめていた。
*
《落とす》《餌》《肉》《美味そう》
デビルゾアの断片的な思考が、ミイナの頭に流れ込んでくる。
ミイナは、額に冷や汗が伝うのを感じた。
「ダメ……数が多すぎて読めない……」
さらに本能的過ぎた。
戦法も何もなく、直線的に飛びかかってくる。
それでも、ギゴは落ち着いていた。
「ギャッ」「ギィッ」「ギャッ」
一匹、また一匹と、的確にデビルゾアを射抜いていく。
さらに、ゴンドラにとりついた個体は、ペルシャの剣と、クロスケの棒で叩き落とした。
ミイナは、ペルシャから譲り受けたショートソードを握り締め、構えているが、付け入る隙がなかった。
(やっぱり、みんなすごい人達だ……)
ゴンドラが、大穴の中腹に差し掛かった時、ペルシャが言った。
「ここからが本番です。もう直ぐ、弓の射程外になります」
「はい。……え?」
ミイナが頷いた、その時。
頭の中に、声が流れ込んでくる。
《どけ!》《落とす》《鎖》
それは、巨大な影だった。
翼長は、大人五人分の体高以上にあるだろうか。
ギラギラ光る黒い瞳。
口からは、大きな牙が覗いている。
大型のデビルゾアだった。
『チッ、大型!』
モノが、舌打ちをしつつ呟く。
「鎖が狙われています!」
ミイナの叫び声。
『任せるでござる!』
クロスケが跳躍し、鎖に取りつこうとしている大型デビルゾアの頭を叩いた。
バキッ!
しかし、怯まない。
何事もなかったかのように頭を振られ、クロスケはゴンドラの内側に叩きつけられる。
大型デビルゾアが、鎖に取り付く。
その重さで、ゴンドラがガクンと傾く。
それと同時に、ギゴが放った矢が、大型デビルゾアの翼手を貫いた。
痛みに耐えかねた大型デビルゾアは、鎖から思わず手を離し、ゴンドラにしがみつく。
その一瞬の隙を、ペルシャは逃さなかった。
揺れが、わずかに収まった瞬間。
魔物の意識が、ゴンドラに向いた瞬間。
ペルシャは跳んだ。
ゴンドラから身を投げ、シャムシールをこめかみに突き立てる。
その頭部を踏み台にし、反動でゴンドラへと戻る。
(すごい!)
と、ミイナが思ったのも束の間。
新たな思考が、ミイナに届いた。
《肉》《鎖》《落とす》《落とす》《鎖》《落とす》《肉》《餌》《落とす》
思考の奔流に、ミイナは頭が痛くなるのを感じた。
「また来ます!」
ミイナは叫んでいた。
次の瞬間、大型のデビルゾアが二匹、闇から飛翔し、ゴンドラの鎖に取り付く。
同時に、複数の小型デビルゾアが、ゴンドラ本体に取り付いた。
ゴンドラは、さらに傾く。
地上では、滑車が悲鳴を上げる。
ギリギリと滑るように、高度が下がっていく。
重量オーバーだ。
「まずいですね……」
ペルシャが、苦々しげに呟く。
『ああ。数が多すぎる……』
小型デビルゾアを弾き返しながら、モノが続いた。
地上からの弓は、もう届かない。
それでも、ギゴは援護の矢を放つが、大型デビルゾアの体表で弾かれる。
上を見上げると、地上の明かりが、遥か遠くに見える。
「ガリガリ」とも「ジャリジャリ」ともつかない音が鳴る。
大型デビルゾアが、鎖を噛み切ろうと牙を立てる。
劣化している鎖だ。
いつ切れてもおかしくない。
すでに、亀裂が入っている。
『まずいでござる! 鎖が切れる! ゴンドラにしがみつくでござる!』
クロスケが叫ぶ。
バキリ!
という音がした。
「きゃっ!」
ミイナは、悲鳴を上げた。
次の瞬間。
ゴンドラは、ものすごい勢いで、地の底へ引き摺り込まれて行ったのだった。




