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悪魔の穴と猫勇者

夜明け前の蜥蜴人の里は、いつもより静かだった。

風は弱く、天幕の布もほとんど揺れていない。

ミイナは馬駱駝の手綱を握りながら、何度目か分からない深呼吸をしていた。

胸の奥が少しだけ重い。だが、不思議と怖さはなかった。

「……いよいよ、ですね」

「そうですね」

隣で答えたのはペルシャだった。

白い髪を結い、いつも通りの落ち着いた表情だが、装備は完全に戦闘用だった。

里の外れ、砂丘の手前に二体の蜥蜴人が立っている。

一人は背が高く、無駄な装飾のない革鎧を身につけていた。

腰には工具袋、背には古い金属製の盾、そして大振りの曲剣。

「ガガと言ウ」

低く短い声だった。

それ以上の自己紹介はない。

もう一人は筋肉質で、背に大きな弓を背負っている。

矢筒の中の矢羽は黒く、刃先は返しのついた特別な形をしていた。

「ギゴ、ダ。弓が得イ」

こちらは少し荒い口調だが、視線は鋭い。

すでに一度、空を見上げていた。

「二人とも、よろしくお願いします!」

ミイナが深く頭を下げると、ギゴは一瞬だけ目を瞬かせた。

「……礼儀正しいナ、鱗なシ」

「ミイナだよ」

「覚えとク」

それだけ言って、ギゴは武軍鶏の手綱を引いた。

巨大な鳥は低く鳴き、砂を踏み鳴らす。

その様子を、少し離れた場所から里長ギガが見ていた。

砂色の鱗に、朝の光が反射している。

「目的地ハ、デモンズフォールだナ」

重く、低い声。

「深ク、暗ク、昔から多くの者を呑んできタ」

ミイナは、思わず背筋を伸ばした。

「だが――」

ギガは、ガガとギゴ、そしてミイナたち一行を順に見渡す。

「戻れぬ場所ではなイ」

一瞬、間を置く。

「油断すれバ、戻れぬ場所だガ」

その言葉が、胸に落ちた。

『肝に銘じるでござる』

クロスケが静かに答える。

モノは短く息を吐いた。

『行こう。行ってみないことにはどうしようもない』

ミイナは手綱を強く握りしめた。

武軍鶏が走り出し、馬駱駝がそれに続く。

砂族の里が、ゆっくりと背後に遠ざかっていく。

デモンズフォールまでは、この先、一ヶ月の旅になる。

彼女たちは、まだ見ぬ“悪魔の穴”へ向かう。

ミイナは、もう振り返ることはしなかった。



一ヶ月の旅は、静かに、しかし確実にミイナたちを削っていった。

昼の砂漠は焼けるようになるため、移動は早朝と日が傾いてからに限られた。

太陽は容赦なく照りつけ、体力と水分を奪っていく。

夜は一転して冷え込み、テントの中でも吐く息が白い。

ミイナは毎日、馬駱駝の背で揺られながら、自然と姿勢を正していた。

背筋を伸ばし、揺れに逆らわず、重心を崩さない。

二年の修行は、こうした場面でこそ意味を持った。

『疲れていないか?』

モノが気まぐれにそう聞く。

「大丈夫。前より、ずっと」

ミイナはそう答え、砂の地平線を見つめた。

武軍鶏は速かった。

ガガとギゴは一行の前後を走り、時折遠回りをして周囲を確認する。

特にギゴは、気配に敏感だった。

「……音がすル」

ある夜、焚き火のそばでギゴが短く言った。

「風ではなイ」

ガガも頷く。

その夜は何も起きなかったが、ミイナは眠りが浅かった。

複数回、魔物の襲撃にもあった。

大体は“砂吠魔”だ。

見た目は大型のコヨーテに近いが、エステラを宿し、小規模な砂嵐を起こすことができた。

群れで行動し、砂に紛れての連携攻撃が厄介な相手であった。

しかし致命的にならなかったのは、武軍鶏とガガ、ギゴの索敵能力のおかげだ。

先に発見し、遠距離から弓で蹴散らす。

この戦術により、被害を受けることはなかった。

もう一種類は“屍転がし”だ。

別名を“髑髏スカラべ”とも言う。

砂漠で死骸を囮にし、やってきた獲物を砂中から大顎で仕留める生態を持つ。

死骸を増やし、別の場所に転がしていき、これを繰り返す。

一度、武軍鶏が死骸を啄みに行ったところを襲撃され、危うくガガが振り落とされそうになった。

そのまま戦闘になったが、弓も剣も硬い甲殻に阻まれて通用しない。

最終的には、ペルシャが甲殻を柔らかくして貫くという結末になったが。

危険は至る所にあった。

それでも旅は続く。

進まなければ、辿り着けない。

やがて砂の色が変わり始めた。

赤みを帯び、岩が増え、地面は固くなる。

風の音が低く、反響するようになる。

そして――

ある日の夕暮れ。

遠くの地平線に、黒い裂け目が現れた。

地面が、落ちている。

そう表現するしかなかった。

巨大な縦穴。

岩盤を喰い破るように穿たれた、底の見えない闇。

「……あれが」

ミイナの喉が鳴る。

『ああ』

モノが短く答えた。

『デモンズフォールだ』

風が穴の中へ吸い込まれていく。

低い唸り声のような音が、ずっと響いている。

ミイナは深く息を吸った。

ここが――

最初の、本当の試練。

悪魔の穴は、口を開けて待っていた。



風が、はっきりと変わった。

縦穴の縁に立った瞬間、ミイナはそれを感じた。

砂漠の乾いた風とは違う。

下へ、下へと引きずり込まれるような流れ。

覗き込むと、視界が歪む。

闇だ。

ただ暗いのではない。

奥行きが、距離の感覚を狂わせる。

縦穴の内壁には、人工の痕跡が残っていた。

岩肌を削り、階段状に整えられた足場。

途中途中に打ち込まれた、錆びついた金属の梁。

崩れかけた桟橋の名残が、何層にも折り重なっている。

「……採掘坑の跡ですね」

ペルシャが静かに言った。

かつては人の手で掘られ、人が行き交っていた場所。

今はその面影だけを残し、深い闇に飲み込まれている。

『昔は、ここから鉱石を吊り上げていたそうだ』

モノが低く付け加える。

縁の近く、岩壁に沿って――

それは残っていた。

古い昇降装置。

鉄骨で組まれた簡素な櫓。

そこから垂れ下がる太いワイヤー。

そして、半ば砂に埋もれたゴンドラ。

箱型の鉄籠は歪み、ところどころに穴が空いている。

だが、完全には壊れていない。

「使えル」

ギゴが即断した。

すでに弓を下ろし、周囲の空を警戒している。

この高さだ。

飛行する魔物が出れば、最初に狙われる。

ガガは無言でゴンドラに近づき、軸と滑車を確認していた。

工具袋から道具を取り出し、躊躇なく作業に入る。

「……大丈夫そうですか?」

ミイナが恐る恐る尋ねる。

ガガは一瞬だけ顔を上げ、短く答えた。

「落ちル時ハ、落ちル」

身も蓋もない。

『つまり、今落ちる可能性は低いということでござるな』

クロスケが補足すると、ガガは一度だけ頷いた。

修理は手早かった。

歪みを直し、軸を締め直し、最低限の安全を確保する。

それでも――

下を見れば、底は見えない。

ゴンドラの縁に立ったミイナは、無意識に足を止めた。

風が、下から吹き上げてくる。

低い唸り声が、耳の奥に残る。

「……降りるんだよね」

『ああ』

モノは短く答えた。

『ここから先は、戻る方が難しい』

ペルシャがゴンドラに手をかける。

「準備はできています」

ミイナは一度だけ深呼吸をした。

二年間、立ち続けた。

揺れに耐えることも、崩れそうになる感覚も、知っている。

「……行こう」

その言葉と同時に、

ゴンドラが、きしりと音を立てた。

悪魔の穴は、まだ何も語らない。

ただ、深く、静かに――

彼女たちを待っていた。


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