奴隷少女と猫勇者
「こんにちは、黒猫さん」
ミイナは檻の中から、そう声をかけた。
ここ最近、毎日のように見る猫だった。
夜のような漆黒の毛並み。額には白い×印。
目は、晴れた日の空の色をしている。
猫は鉄格子の外、日陰になる場所にちょこんと座っていた。
鳴きもせず、動きもせず、ただこちらを見ている。
ミイナは格子のそばにしゃがみ込んだ。
焦茶色の髪が肩に落ち、首から下げた木札が胸で揺れる。
317。
ミイナが名前より先に呼ばれる数字だった。
本当の名前は、もう思い出せない。
317番だから“ミイナ”。それだけのことだ。
ミイナは着ているボロ布の端をほどき、隠していた干しパンを取り出した。
昨日の残り。硬くて、噛むと顎が痛くなる粗悪なパンだ。
それでも、食べれば少しは空腹がまぎれる。
ミイナはパンを小さく割り、格子の外に置いた。
「これ、あげる」
黒猫は動かない。
鳴き声も上げない。
空色の目だけが、こちらを見ていた。
「……食べないの?」
返事はない。
それでもいいと、ミイナは思った。
返事があったら、期待してしまう。
檻の中で期待を持つと、あとから苦しくなる。
背後で、布の擦れる音がした。
「ミイナ。前に行きすぎないで」
振り返ると、同じ檻に囚われているニイナが立っていた。
首から下がる木札には、217と刻まれている。
217だから、ニイナ。
背が高く、細い体つき。
金に近い茶色の髪と、落ち着いた青い目。
汗と砂にまみれていても、きれいな人だと分かる。
ニイナはミイナを立たせ、膝についた砂を払ってやった。
乱れたボロ布の裾を、そっと整える。
「また、自分の分をあげたの?」
「……少しだけ」
ニイナは小さく息をついたが、責めることはなかった。
「あなた、本当に動物が好きね」
「うん。だって、みんな正直なんだもん」
じゃらり、と金属の音がした。
ミイナの肩が反射的にすくむ。
ニイナも背筋を伸ばす。
音だけで、体が覚えている。
奴隷商だった。
太い首、脂の浮いた顔、腰にぶら下げた鍵束。
男は檻の前で立ち止まり、木札を見る。
217。
317。
それから、ニイナを見る。
視線が、足元から、脚、胸、顔へとゆっくり動く。
ミイナは息を止めた。
ニイナは目を伏せる。慣れた仕草だった。
男は鼻を鳴らし、小屋の奥へ戻っていった。
「……大丈夫?」
ミイナが聞くと、ニイナは頷いた。
「大丈夫。いつものことよ」
その言葉が、ミイナは嫌だった。
黒猫は瞬きもせず、じっとこちらを見ていた。
*
午後、街に砂嵐の兆しが出た。
空がわずかに黄ばみ、遠くの建物がぼやける。
風に混じる砂が細かくなり、目の端に溜まる。
そのとき、小屋の入口の布が揺れた。
香水の匂いがした。
砂と汗の匂いを覆い隠す、甘い匂い。
護衛らしい男が二人。
その後ろに、良い布をまとった人物が立っていた。
金持ちだ、とミイナは思った。
その人物は穏やかな笑みを浮かべ、静かな声で言った。
「この街の子どもたちのために、少しでも力になりたいのです」
奴隷商がへらへら笑い、言葉を合わせる。
値段の話。数の話。使い道の話。
ミイナには分からない。
ただ、「売られる」空気だけは分かった。
視線が檻に向く。
まず、ニイナ。
慈善家の目が、少しだけ柔らぐ。
「……きれいな顔をしていますね」
ニイナは反射的に目を伏せた。
「苦労も多かったでしょう。安心しなさい。乱暴な扱いはしません」
ミイナは、その言葉が怖かった。
視線が、ミイナへ移る。
一瞬だけ、表情が変わる。
すぐに笑顔に戻る。
「……その子は?」
「317です。小さいですが、手は使えます」
「躾は?」
「叩けば覚えます」
背中が冷えた。
ニイナが、そっとミイナの手を握る。
温かかった。
「二人とも連れていきましょう」
鍵束が鳴り、錠前が外れる。
檻の扉が開いた。
「出ろ」
ニイナが先に立ち、ミイナの手を引く。
外に出ても、胸が苦しかった。
馬車が待っていた。
布で覆われ、窓は小さい。
ミイナは、黒猫を探した。
影の中。
いつもの場所。
黒猫は、そこにいた。
何も言わず、ただ見ている。
呼びかけようとして、ミイナはやめた。
慈善家がニイナの手を取る。
ニイナは一瞬だけ固まり、それから笑った。
次に、ミイナを見る。
「余計なことはしないように」
ミイナは頷いた。
馬車の中は暗かった。
扉が閉まり、外の光が細くなる。
ミイナは、ニイナの手を握った。
少し、震えていた。
馬車が動き出す。
――最後に馬車の隙間から、ミイナは外を見た。
黒猫は、動かない。
額の白い×印だけが、はっきりと目に残った。




