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レッドキャップと仮面の男

洞窟の空気は、乾いているのに、どこか湿っていた。

砂漠の夜の冷えが岩肌に染み込み、息をするたび胸の奥がきゅっと縮む。

ナディルは、石壁を背に座っていた。

手首には荒い縄。がっちりと結ばれていて解けそうにない。けれど、解いたところで逃げられる距離ではないのが分かっていた。

洞窟の入口は薄い布で覆われ、その向こうに外の光がぼんやり滲んでいる。

正気に戻ってからどのくらいの時間が経ったのだろう。布越しに差す灰色の明かりからは時間の判別ができない。

何時間、ここにいるのか。時間の感覚が曖昧だった。

杖は――ない。

雨雲の杖は、奪われていた。

それだけで胸が苦しくなる。

代々守ってきたものを、手のひらから引き剥がされたのだ。

「……っ」

歯を噛む。

泣きそうになるのを堪える。

泣いたら――相手の思うつぼだ。

洞窟の奥から、声が響いた。

「――なぜ、連れてこなかった」

低い声。怒鳴り声ではない。

抑えているのに、怒りの熱だけがじわじわと漏れてくる声だった。

ナディルは顔を上げる。

薄暗い奥に、火が一本灯っている。

焚き火ではない。

床に据えられた皿の上で、蝋燭のような炎がゆらゆらと揺れていた。

その炎の前に、男が立っている。

仮面だ。

派手な色。厚塗りの文様。

眼玉のような意匠をいくつも施された仮面。額には円環と不可思議な図形が重なる幾何学が刻まれている。

目の部分だけが穴として抜かれ、暗い奥で何かが赤黒く光っている。

男の前には、複数の小さな影が縮こまっていた。

赤いものが、最初に目に入った。

帽子のようにも見えるそれは、頭頂から生えた肉の突起だった。

濡れたように艶を帯びた赤。感情に反応するのか、微かに脈打っている。

布でも革でも帽子でもない。間違いなく身体の一部だ。

顔立ちは、人間に近い。

だが、どこかおかしい。

鼻筋は不自然に尖り、口は横に裂け気味で、歯の並びが揃っていない。

背は低い。

子どもほどの体躯に、青白く骨ばった手足。

寄せ集めの布と革を縫い留めた服には、赤い布切れがやけに多かった。

腰には小さな鎌。

刃は欠け、何度も研ぎ直された痕がある。

レッドキャップ。

そう呼ばれている魔物だった。

「言え」

仮面男が一歩近づく。

その歩みに合わせて、蝋燭の炎がふっと強く揺れた。

レッドキャップの一体が、びくりと肩を跳ねる。

「……つ、連れてこられなかった……」

掠れた声。

言い訳を言いかけて、言葉が止まる。

仮面男が静かに首を傾げた。

「連れてこられなかった、ではない。貴様らには私の術を与えたのだ。できないはずがなかろう。

 連れてこなかった。――そうだろう?」

問いかけの形をしているのに、答えは決まっている。

その声音だけで分かる。

レッドキャップたちは、言葉を失った。

仮面男は、ゆっくりと息を吐く。

「烏男が――敗れたそうだ」

レッドキャップ達は、さらに身を小さく縮める。

「その女の隣に寝ていたのが、よもや指輪を持つ者だとはな。

 貴様らが気づいていれば、魔王様もさぞお悦びになったであろうに」

その言葉に、ナディルの背筋が凍った。

魔王。

かつての昔話で語られる暗黒の時代。

その覇者が今も生きていると言うのか。

「だが、まあ良い。当初の目的に戻るとしよう」

仮面の男は、ナディルに向き直る。

慌ててナディルは目を閉じた。

「目覚めているな、女。さあ、目を開けるが良い」

「開けません。あなたの仮面の模様、催眠の魔術陣ですね……二度と同じ手は喰らいません」

「ほう。見破るとは流石は雨降師。

 平和ボケしていても、魔術師の端くれではあるようだ」

「あなたの目的はなんです……なぜ私を攫ってきたのです」

「話が早くて助かる。貴様にやってもらいたいことがあってな」

仮面男が、洞窟の奥に手を伸ばした。

そこに置かれていたものが、ぬっと持ち上がる。

雨雲の杖。

ナディルの喉が詰まる。

木の杖。

身の丈ほどの長さ。

先端の宝玉――透明な水晶の中に、吸収の陣が刻まれている。

今は、薄い青に染まっていた。

水が入っている。

「お前の仕事道具だ」

仮面男の指が、宝玉の表面を撫でる。

「素晴らしい。

 よく出来た器だ。水を抱き、雲に変える」

ナディルは、唇を噛む。

「……それは、村を救うための道具です」

「救う?」

仮面男が首を傾げる。

「救うためにも、壊すためにも使える。

 道具とは、そういうものだろう」

その言葉が、胸の奥に冷たく刺さる。

仮面男は、杖の宝玉の下に小さな壺を置いた。

蓋を開ける。

甘い匂いがした。

蜜のような――いや、違う。

喉の奥にひっかかる、嫌な甘さ。

「毒だ」

さらりと言う。

「これを吸わせろ。

 雨雲に変え、石麦畑へ降らせろ」

ナディルの血の気が引いた。

「……何を、言って……」

仮面男は、淡々と続ける。

「麦が枯れれば、この穀倉は死ぬ。

 この地域は飢える。

 人は弱る。

 争いが起きる。

 兵は餓える」

言葉が、刃物のように並ぶ。

「魔王の復活に備え、兵糧を絶つ。

 それだけだ」

ナディルは、震える息を吐いた。

「……そんな、ことをして……」

「世界は、『戦って』変わるのではない。

 『食えなくなって』崩れる」

仮面男の声は静かだった。

静かだからこそ、恐ろしい。

「雨降師は尊敬される。

 命の水を運ぶ者だからな」

仮面男は、わざとらしく小さく拍手をした。

「ならば、同じ手口で“毒”も運べる。

 お前は、村人の前で雨を降らせる。

 彼らは泣いて喜ぶ。

 そして――数日で畑が死ぬ」

ナディルの背中が冷たくなる。

「あなたは、私に……私の手で、村を殺せと?」

「そうだ」

即答。

仮面男は、少しだけ顔を近づけた。

「簡単な話だ。この条件を飲むならば、解放してやろう」

ナディルは、息を吸う。

頭の中に、石麦村の畑が浮かぶ。

待っていた人たちの顔。

雨を期待する目。

そして――ミイナの顔。

新しい服を着て、必死に前を向いていた子。

魔術陣を描かれて、泣きそうになりながら水球を保った子。

あの子が、ここに来る前よりずっと、少し強くなっていた。

(……守らなきゃ)

ナディルは、震えを抑えて言った。

「断ります」

仮面男の動きが止まった。

「ほう」

「私は雨降師です。

 水を運ぶ者です。

 ……毒を運ぶために杖を持っているんじゃない」

仮面男は、しばらく黙っていた。

その沈黙が、洞窟の空気をさらに重くした。

やがて、仮面男がゆっくりと頷く。

「馬鹿な女だ。

 貴様が毒を降らせなくても、旱魃でこの村は死ぬ。

 貴様を解放しない限りはな」

「……っ!そんな!」

「だが、万が一にも自然に雨が降るかもしれない。

 私は不確実性が嫌いでね。

 貴様には是非とも、私の言うとおりにしてもらいたい。

 痛い思いは嫌だろう?

 苦痛は恐ろしいだろう?」

「…………っ!」

ナディルは黙ったまま、目を固く閉じ歯を食いしばっている。

「シナリオはこうだ。

 レッドキャップに攫われた哀れな雨降師が、傷つけられながらも命からがら逃げおおせる。

 そして健気にも、村に雨を降らせるのだ。

 感動的だろう?」

「……そんなこと!私は屈しません!……きゃっ!」

ナディルが言い終わる前に、レッドキャップが鎌でナディルのローブの裾を切り裂いた。

「威勢のいいことだ。さて、いつまで眼を閉じたままでいられるかな?」

仮面男は、そう言って一歩引いた。

代わりに、レッドキャップたちが前に出る。

ナディルは、そこで理解した。

これ以上、言葉は必要ないのだと。

目を閉じる。

歯を食いしばる。

――それでも、屈しない。

洞窟の奥で、ナディルのくぐもった悲鳴が反響するのだった。


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