06. まだ、これから
旅とは、本来なら心が躍るものだった。少なくとも、前世の私はそう思っていた。
けれど今の私にとって、馬車の揺れは熱を持った身体を容赦なく削っていくものだった。
「大丈夫ですか?」
「……ええ、大丈夫」
護送されて二日目。初日の興奮が切れたのか、案の定熱が出た。馬車の荷台の壁にクッションを当てて寄りかかっているのを、三人から心配そうに見つめられる。
「このくらいならよくあるので大丈夫です。薬も飲みましたから、少しは落ち着くと思います」
「本当に?」
「ええ。いつもなら無理出来る範囲なのですが……流石に疲れるので大人しくしていてもいいですか?」
「それはもちろん! 到着まで時間はかかるけど、ゆっくり走らせます!」
「この先の街に宿屋があったはずだ。今夜はそこで休ませることも視野に入れよう」
「……護送馬車に乗っている人物を、宿屋で休ませるのはおかしいでしょう。これくらいなら大丈夫ですから、お構いなく。……流石に厳しい時は早めにいいます」
「遠慮なく申し付けてください」
「それと、お願いが……」
「何ですか!?」
食い気味で聞いてきたカイル様に、小さく笑う。
「まだ大丈夫ですが、いよいよダメな時は、私から炎が上がります。出来るだけ押さえますし、前兆が分かればお知らせします。……その際は、どうかすぐお逃げください。馬も出来れば外してあげてください」
「それは……」
「お願いします。……皆様を、巻き込みたくは、ないから」
カイル様の顔が歪んだ。オスカー様が「お前が泣くな」と肩を叩いている。
「だってぇ……!」
「カイル、オスカー。お前達は護送に戻れ。ルヴェリア嬢は俺が看よう。何かあったら卿達にすぐ知らせる」
「はっ! 行くぞ、カイル」
「ううう……!」
引き摺られるように、カイル様を連れてオスカー様が荷台の外へと連れ出す。荷台後部の扉が閉まって、馬車がゆっくりと動き出した。
側に控えるグランツ卿は、何も言わない。
「ごめんなさい。私のせいで、迷惑を……」
「……俺が渡したハンカチはまだお持ちですか?」
先日借りたハンカチを、ポケットから取り出して彼に手渡す。彼はそれを受け取ると、水筒を取り出してハンカチを水で濡らした。
「オスカー、これを冷やせるか?」
立ち上がって鉄格子の外の御者台とやり取りをすると、再び私の側に座った。ひやりと、冷たい物が私の額に載せられる。
「何もないよりはましでしょう。街の手前で馬車を隠し、今夜は宿で休みましょう。もうしばらくご辛抱を」
「……ありがとう、ございます」
額の冷たさが、とても心地良い。頭に籠もる熱を奪ってくれるようだ。
「そんなに謝らなくて結構です。……昔から、こういう役回りが多かったので」
「…………?」
どういう意味だろう。確認のために口を開こうとすると、ブランケットを掛けられた。
「街まではまだ先なのでお休みください。着きましたら起こしますから」
「ありがとう、ございます……あの」
声を掛けると、グランツ卿の手が止まった。こちらに向けられた深い灰色に、思わず視線を背ける。
「本当に、もしもの時は逃げて下さいね。私一人のために、皆様まで命を落とす必要はありません。どうか、私のことは捨て置いて……」
「いいえ。逃げません」
グランツ卿がそう短く答える。顔を向けるとハンカチが額からずれた。それをグランツ卿が載せ直す。
「ですが、もし炎が出たら——」
「同行しているオスカーは、水と氷の魔法を使えます」
遮るように告げられ、目を瞬いた。
「大量の水を生み出すことも出来ます。俺も燃えにくい厚手の布を用意しました。あなた様を包めるだけの大きさがあります」
「……逃げてくださらないの?」
「護衛は逃げるために同行しているのではありません」
当然のことのように答え、休むのを促すかのようにグランツ卿はブランケットを私の肩まで引き上げる。
「何か起きた時は、俺たちが対処します。ですから今は、お休みください」
「でも……」
「まだ辺境にも着いていません。これからです」
その言葉が、不思議なほど胸に残った。
私にはもう何も残されていないと思っていたのに、終わるだけだと思っていたのに、この人は当たり前のように、私に「これから」があると言う。
瞳を潤ませて、静かに頷いた。
「……ありがとう、グランツ卿」
「礼には及びません」
馬車の揺れに身を任せ、ゆっくりと目を閉じる。
……屋敷では、寂しい夜ほど、廊下を行き交う侍女の足音に耳を澄ませて眠った。こんなにも近くに人の気配を感じながら眠るのは、いつ以来だっただろう。
辺境への旅路は、私の体調のせいで想定の倍以上の時間がかかった。
体調がいい時は進み、悪い時は早めに宿がある街に立ち寄り休息を取る。
旅の途中から、グランツ卿は荷台の出入り口に待機するのではなく、私の側に控えるようになった。
定期的に額のハンカチを冷やし、水を飲ませ、動けない時には食事を運んでくれた。
私が何度「ごめんなさい」と言っても、そのたびに「お気になさらず」と返ってきた。
そうして予定を大きく超える日数をかけ、私たちはようやく北部侯爵領へ入った。
目指す辺境の高原は、もう目の前だ。
2026/8/11 加筆修正済み




