第62話 安全弁の限界
北方同盟・氷原地帯。
白い大地が波打っていた。
凍りついた湖面が浮き、空中で砕け、再び落ちる。
重力が一定ではない。
中心に立つのはイグナート。
以前の暴走とは違う。
彼は叫んでいない。
ただ、立っている。
「……分かる」
低く呟く。
「抑えられてる」
空間が軋む。
「でも、押し返せる」
氷原がさらに歪む。
*
アストレア。
緊急報が地下資料室に届く。
「北方同盟境界で大規模深度異常」
「半径二キロに拡大」
セレスティアが立ち上がる。
「規模が違う」
ハインリヒが低く言う。
「抑制網が飽和している」
アルカが冷静に分析する。
「深度上昇速度が、想定値を超えています」
ラグスが歯を食いしばる。
「抑制装置が追いついてねぇ」
*
アルトは目を閉じる。
視界の端にUIが浮かぶ。
【領域支配】
世界水晶網:負荷94%
局所安定化:単独不可
共同出力:必要
「間に合わない」
セレスティアが問う。
「どうする」
「安全弁を開く」
沈黙。
ハインリヒが即座に理解する。
「局所的閾値緩和か」
「全体を守るために、局所を許容する」
*
北方同盟。
イグナートの周囲に氷柱が浮遊する。
「俺は危険だ」
だが、その声は震えていない。
「でも、壊したくない」
空が裂けかける。
その瞬間。
三つの光が走る。
帝国水晶網。
王国水晶網。
商業連合水晶網。
共同出力。
空間が一瞬、安定する。
*
アルトが干渉する。
完全制圧ではない。
緩和。
閾値を“少し”緩める。
イグナートの呼吸が整う。
「……楽だ」
彼は呟く。
氷原の歪みが収束する。
完全ではない。
だが、崩壊は回避。
*
アストレア地下。
アルカが震える声で言う。
「今のは危険です」
「分かっている」
アルトは静かに答える。
「だが閉じれば爆発した」
セレスティアが言う。
「抑制だけでは限界」
ハインリヒも頷く。
「制度は安全弁だ」
「だが弁は永遠ではない」
*
会議室へ移動。
各国代表が集まる。
北方同盟代表が低く言う。
「我々の地を実験場にするな」
アルトは視線を逸らさない。
「実験ではない」
「なら何だ」
「移行だ」
沈黙。
「抑制から、調整へ」
*
アルカが補足する。
「現在の制度は固定上限型」
「必要なのは可変上限型」
商業連合代表が眉をひそめる。
「分かりやすく言え」
アルカは簡潔に言う。
「深度の成長を前提とした設計に変える」
ざわめき。
*
セレスティアが立ち上がる。
「王国は段階的移行に賛成する」
ハインリヒも続く。
「帝国も同意する」
北方同盟代表が問う。
「失敗すれば?」
アルトが答える。
「世界が崩れる」
静寂。
「だが、停滞しても崩れる」
*
夜。
アルトは一人、アストレアの塔に立つ。
視界の端でUIが更新される。
【領域支配】
抑制装置:限界接近
進化構造:設計可能
(進化か、崩壊か)
背後からセレスティアの声。
「怖い?」
「怖い」
即答。
「でも止めない」
「止められない」
アルトは空を見る。
星がわずかに揺れている。
三百年前。
抑制は世界を救った。
だが今。
世界は変わり始めている。
制度もまた――
進化を迫られていた。
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