第38話 救われているという事実
宗教自治領には、泣き声が少なかった。
子供の数は多い。
病人も、老人もいる。
だが――怒号がない。
それが、アルトには奇妙だった。
「……統計上は、危険水域です」
ミヒャエルが、低い声で言う。
「医療は最低限。
食糧も余裕があるとは言えない。
外部支援が途絶えれば、
すぐに不安定化します」
「でも、崩れてない」
ラグスが、ぽつりと呟く。
「むしろ……落ち着いてる」
その“ズレ”が、宗教自治領だった。
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昼。
施療所を訪れたアルトは、立ち止まった。
簡素な木造の建物。
寝台は足りていない。
薬も、質素だ。
だが、看取られている人間はいない。
「……医師は?」
「一人だけです」
司祭長が答える。
「訓練も、十分とは言えません」
それでも、
誰も不満を言わない。
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「どうして……?」
アルトは、思わず口にした。
司祭長は、少しだけ驚いたように目を細める。
「何が、でしょう?」
「足りないものが多い」
アルトは、率直に言った。
「それでも、
ここでは人が壊れていない」
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司祭長は、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「壊れていないのではありません」
静かな声。
「**壊れる前に、
委ねている**のです」
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夕刻。
祈りの場に、集落の人々が集まった。
誰かが倒れた。
重病らしい。
だが、叫び声は上がらない。
司祭が祈る。
人々も、祈る。
結果は、分からない。
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「……もし、
助からなかったら?」
ラグスが、小さく問う。
司祭長は、否定も肯定もしなかった。
「受け入れます」
それは、諦めではない。
**覚悟**だった。
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アルトの視界の端で、UIが反応する。
【領域支配】
評価不能
要因:幸福指標未定義
(……測れない)
いや、
測ってはいけないのかもしれない。
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夜。
アルトは、施療所の記録を読んでいた。
死亡率は、高い。
だが、
**暴動率は、ほぼゼロ**。
精神崩壊の記録も、ない。
「……救われている」
アルトは、声に出して言った。
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「え?」
ミヒャエルが、顔を上げる。
「ここは、
効率的ではありません」
アルトは、静かに続ける。
「だが――
**人は救われている**」
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ラグスが、歯を噛みしめる。
「……それ、
悔しいな」
「そうだな」
アルトは、否定しない。
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司祭長が、そっと言った。
「あなたの制度は、
人を“長く”生かすでしょう」
一拍。
「だが、
**生きる理由までは、
保証しない**」
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その言葉が、深く刺さった。
アルトは、反論できなかった。
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視界の端で、UIが静かに更新される。
【領域支配】
警告:
当該領域は
最適化対象外です
続く表示。
理由:
既に安定しています
(……最適化する必要が、ない)
---
夜更け。
アルトは、灯りを落とす前に、
一人で呟いた。
「……救われているという事実は、
正しさより、
重いことがある」
それを、
否定する資格は、
自分にはなかった。
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祈りの声は、
夜の中に溶けていった。
管理も、判断も、
届かない場所で。
それでも――
**人は、生きていた**。
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