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機巧の小鳥

 チリーン。

 澄んだ、極めて透明度の高い音が、午後の工房に響き渡った。

 その音色は、地獄の蓋を開けるようなおどろおどろしさは微塵もなく、むしろ「奥様、スープが冷めないうちにどうぞ」という執事の恭しい声を連想させる、生活感に満ちた周波数だった。

「……ん」

 カウンターの奥で、ヴィエラが満足げに頷いた。彼女の手には、緑青を綺麗に落とし、真鍮の輝きを取り戻したハンドベルが握られている。

「……いい音」

 彼女はもう一度、手首のスナップを利かせてベルを振った。

 チリーン。

「気に入ってくれたようで何よりだ。でもヴィエラ、それは君が期待していた『冥界の呼び鈴』じゃないよ。ただの『ディナーベル』だ。古代のネクロマンサーが死者を呼ぶために使ったんじゃなく、屋敷の主が空腹を訴えるために使っていた、極めて俗世的な合図だ」

 僕は作業台を片付けながら、やれやれと肩をすくめた。

 持ち込まれた当初、彼女はこれを「死の軍勢を召喚する禁断の法具」だと主張していたが、錆ついたクラッパーを削り、音響解析をした結果はご覧の通りだ。

 しかし、ヴィエラは落胆するどころか、その澄んだ音色がすっかり気に入ったらしい。

「……お腹、空いた」

「死者の軍勢は来ないけど、パンとスープなら用意できるよ」

 平和だ。

 この店に持ち込まれる「世界の危機」なんて、所詮はこの程度のものでいい。食欲という健全な欲求に帰結するなら、それは幸福な結末だと言えるだろう。

 だが。

 その平和な余韻は、唐突に、しかしあまりにも静かに断ち切られた。

 カラン。

 ドアベルが鳴った。

 だが、それは誰かがドアを開けた音ではなかった。誰かが「すでに中に入ってから」閉める際に鳴った音だった。

 僕が顔を上げた時、その老紳士は、すでにカウンターの前に立っていた。

 いつ入ってきた?

 気配がない。足音がない。空気の流動さえ感じさせない。まるで、最初からそこの空気の一部であったかのような自然さで、彼はそこに「存在」していた。

「おや、驚かせてしまいましたかな。申し訳ありません」

 老紳士は、深く、あまりにも完璧な角度で腰を折った。

 仕立ての良い燕尾服。白髪は一本の乱れもなく撫でつけられ、革靴は鏡のように磨き上げられている。

「お初にお目にかかります。このような……奥ゆかしく、静謐な場所に工房を構えておられるとは。実に素晴らしい」

 柔らかな物腰。慈父のような微笑み。

 僕は思わず居住まいを正した。ただの客ではない。長年、高貴な家に仕え、自らの「個」を完全に消し去る術を身につけた、熟練の執事だ。存在感の希薄さは、その職業病のようなものだろう。

「……いらっしゃいませ。道に迷われましたか? ここは見ての通り、ガラクタの墓場ですが」

 僕が警戒心を隠して尋ねると、老紳士は困ったように眉を下げた。

「とんでもない。確信を持って、こちらへ参りました。若くして『神の手』を持つ解体職人がいると、専らの噂ですので」

 彼は懐から、ベルベットの布に包まれた小さな箱を取り出した。その動作もまた、流水のように滑らかで、視線誘導すら感じさせる洗練された所作だった。

「不躾なお願いで恐縮ですが……主より預かりし家宝、『銀のハチドリ』。数日前より声を失ってしまいましてな。どうか、貴殿の技術で癒やしてはいただけませんでしょうか」

 彼がカウンターに置いたのは、掌に乗るほどの大きさの、銀製の小鳥だった。

 ルビーの瞳。羽の一枚一枚まで彫り込まれた銀細工。

 確かに美しい。だが、僕がそれを受け取った瞬間、その異常な質量に息を呑んだ。

「……重い」

 比重がおかしい。銀の比重は約一〇・五だが、この重量感は鉛か、あるいはタングステンに近い。中身が異常な密度で詰まっている。

「愛玩用のオートマタにしては、質量バランスが悪くありませんか? これじゃあ、飛ぶというより『落ちる』ために作られたようなものだ」

 僕が皮肉を投げかけると、老紳士はふわりと笑った。

 あくまで穏やかな、好々爺の笑みだった。

「……思い出が、詰まっておりますゆえ」

 その言葉に、嘘や誤魔化しの色は感じられなかった。純粋に、彼にとって、あるいは彼の主人にとって、大切なものが詰まっているのだろう。

「三日。……三日後の同時刻に、参ります。費用については、いかようにも。白紙の小切手を用意いたしましょう」

「直るとは言っていませんが」

「いいえ。直して、いただけますとも」

 老紳士は再び深く一礼した。

 それは圧力ではなく、全幅の信頼だった。

「では、よろしくお願いいたします」

 彼は踵を返し、音もなく店を出て行った。ドアが閉まるその瞬間まで、背中の隙は一切なかった。

 残されたのは、沈黙と、美しすぎる銀の塊だけ。

「……上品な人。紅茶の淹れ方が上手そう」

 ヴィエラが感心したように呟く。僕も同感だ。あんな完璧な執事を雇える主人は、さぞ名のある貴族なのだろう。

 僕は震える手で『ハチドリ』を作業台へ運んだ。中を見なければ。この美しい鳥が、なぜこんなにも重いのかを。

 僕は背中の隠しネジを回し、外装を開放した。

 その瞬間。

「……ッ」

 声にならなかった。

 中身は、地獄だった。

 優雅なハチドリの体内には、本来あるべきオルゴールも、羽ばたきのリンク機構も見当たらない。代わりに隙間なく詰め込まれていたのは、殺意の結晶だ。

 超高張力のコイルスプリング。圧縮ガスのマイクロシリンダー。そして、くちばしの奥から喉元まで貫通している、中空構造の超硬質ニードル。

「……ヴィエラ。これは玩具じゃない。携帯用の暗殺兵器だ」

 背筋が凍りついた。

 さっきの老紳士の笑顔が、脳裏にフラッシュバックする。

 『思い出が詰まっておりますゆえ』

 あれは、嘘じゃなかったんだ。

 この針が奪ってきた命の数々。それを「思い出」と呼ぶような世界に、あの老人は生きている。

 あの優しげな態度。丁寧な言葉遣い。それらはすべて、「中身を見ればわかるだろう?」という無言のメッセージだったのか。脅し文句なんて必要ない。これを見た瞬間に、僕たちが見てはいけないものを見た、と理解することを、彼は最初から計算していたのだ。

「見てごらん、この多層構造。これはハニカム構造を利用したサイレンサーだ。標的の懐に『可愛い小鳥』として忍び込み、警戒心を解いた瞬間に、ゼロ距離から毒針を撃ち込む」

 僕は震える指先で、その冷たい機構を撫でた。

 認めたくないことだが、美しい。

 殺すためだけに特化した、無駄のない設計。限られたスペースに、最大限の殺傷能力を詰め込むための計算され尽くしたレイアウト。職人として、この設計者の執念と技術力には敬意すら抱いてしまう。

 「……『沈黙の蜂』」

 ヴィエラが、小鳥の翼の裏側にある微細な刻印を指差して言った。

 「三百年前に滅びた暗殺ギルドの紋章」

 間違いない。依頼人は三日後に戻ってくる。

 直せば、この針は誰かの心臓を貫く。

 直さなければ?

 あの老紳士は「がっかりしました」と寂しげに笑うだろう。そして、音もなく紅茶を淹れるような手つきで、僕たちの処理をするに違いない。

 僕は作業台に肘をつき、両手で顔を覆った。

 思考が泥沼にはまる。

 技術的には、修理は可能だ。むしろ簡単だ。ガスケットを交換し、スプリングのテンションを調整するだけ。一時間もあれば終わる。

 やってしまえばいい。悪魔の囁きが聞こえる。

 僕は道具屋だ。正義の味方じゃない。包丁を研ぐ職人が、その包丁で誰かが刺されることを心配するか? しない。彼らはただ、切れ味を保証するだけだ。

 僕も同じだ。この依頼を受け、完璧に直して返す。それがプロフェッショナルというものだろう? その後のことなんて知ったことじゃない。僕の責任範囲外だ。

「……でも」

 僕は自分の手を見つめた。

 油にまみれた、職人の手。

 この手は、動かないものを動かすためにある。壊れたものを蘇らせるためにある。

 命を奪う手伝いをするために、この技術を磨いてきたわけじゃない。

 もし、これを直して返せば、僕は一生、新聞の死亡記事を見るたびに震えることになる。「謎の死」という見出しを見るたびに、「僕が殺したのかもしれない」という疑念に苛まれることになる。

 そんなのは御免だ。

 かといって、断れば死ぬ。逃げても無駄だ。

 修理か拒否か。

 どちらを選んでも、僕の人生か、職人としての魂が終わる。

 詰んでいる。どのルートを選んでも、バッドエンドのフラグしか立っていない。

「……アルス」

 沈黙を破ったのは、ヴィエラだった。

 彼女は蒼白な顔で、しかし真っ直ぐに僕を見ていた。

「……逃げる?」

「逃げても無駄だ。あの歩き方、あの身のこなし。王都のどこに隠れても、彼なら朝の散歩ついでに僕らを見つけ出すだろうね」

 僕は小鳥を見下ろした。

 銀色の羽毛。ルビーの瞳。その造形は、悔しいほどに美しい。

 だが、その腹の中には、冷徹な死の機構がとぐろを巻いている。

 美と醜悪。生と死。相反する要素が、この小さな体に同居している。

 吐き気がする。こんな素晴らしい外装の中に、こんなおぞましい機能を隠すなんて、設計者の神経を疑う。

 ……待てよ?

 僕は思考の迷路の中で、ふと足を止めた。

 職人の仕事とは何か? 「依頼通りに直す」ことか?

 いや、違う。僕の仕事は「物の構造を理解し、あるべき姿に導く」ことだ。

 この小鳥の「あるべき姿」とは何だ?

 設計者は、確かにこれを兵器として作った。その点において、この殺傷機構は正しい。

 だが、この外装を作った銀細工師は? この瞳を磨いた宝石職人は?

 彼らもまた、人を殺すためにその技術を注ぎ込んだのか?

「……違うな」

 僕はピンセットを手に取り、小鳥の翼を撫でた。

 この曲線の美しさは、空を飛ぶためのものだ。

 この愛らしい瞳は、誰かと見つめ合うためのものだ。

 このハチドリ自身が、殺しの道具でいることを望んでいるようには見えない。

 ならば。

 僕がやるべきことは「修理」ではない。「治療」だ。

 この小鳥を蝕んでいる、殺意という名の癌細胞を切除することだ。

 だが、それは職人としての越権行為だ。依頼人の要望を無視し、勝手に機能を書き換える。それはもはや修理ではなく、改造であり、破壊だ。

 それでも。

 僕は、人殺しの片棒を担ぐよりは、傲慢な職人として死ぬ方を選びたい。

 それに、ただ壊すだけじゃない。

 代わりが必要だ。殺意という機能を埋めるほどの、圧倒的な、暴力的なまでの「別の機能」が。

 老紳士が文句を言えないほど完璧で、かつ、二度と彼がこの小鳥を武器として使いたくなくなるような、決定的な何かが。

「……ヴィエラ。賭けに乗る気はあるかい?」

 僕が尋ねると、彼女は少しだけ首を傾げ、それからコクリと頷いた。

「……一蓮托生」

「重い言葉をありがとう。胃が痛くなるよ」

 僕は深呼吸を一つして、覚悟を決めた。

 震える指先で、ドライバーを握り直す。

 冷たい汗が背中を伝う。

 成功率は五分五分。いや、もっと低いかもしれない。

 けれど、ただ座って死を待つよりは、手先を動かしてあがく方が、僕の性に合っている。

「気に入らないな」

 僕は自分自身を鼓舞するように、吐き捨てるように言った。

「こんな美しいガワの中に、こんな血生臭い機能を隠すなんて、構造的欠陥だ。直してやるよ。……僕なりの解釈で、『あるべき姿』にね」

 カチリ。

 作業台のライトを点ける。

 その光の下で、僕の影と、銀色の小鳥の影が、黒く長く伸びていた。


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