狂戦士の兜
雨音の周波数は、人を憂鬱にさせる効果があるらしい。
これは僕の個人的な感傷ではなく、低気圧が人体――特に自律神経系に及ぼす影響を考慮すれば、極めて科学的な事実だ。気圧が下がれば副交感神経が優位になり、血管が拡張し、やる気という名の神経伝達物質はどこかへ霧散する。
連日の雨により、王都の路地裏は水没した都市のように静まり返っている。客は来ない。仕事もない。当然、売り上げもない。
僕は作業台に突っ伏し、天井の雨漏りのシミが描くフラクタル図形の法則性を解明するという、不毛極まりない時間の浪費を行っていた。
「……暇だ。熱力学第二法則が許すなら、時間を巻き戻して二度寝したい。あるいは、この世界のすべての歯車を逆回転させて、昨日の夕食前からやり直したい気分だ」
僕が虚無の海に沈みかけていた時、工房のドアが重々しく、かつ湿り気を帯びた音を立てて開かれた。
現れたのは、雨雲そのものを擬人化したような女だった。
ヴィエラ・ミストルード。
彼女は傘も差さずに歩いてきたのか、自慢の銀髪から水滴をポタポタと床に滴らせている。濡れた衣服が肌に張り付いているが、本人は気にする様子もない。その手には、不気味な布に包まれた球体が、赤子のように抱えられていた。
「……ん」
ゴトッ。
カウンターに置かれたその物体は、明らかに周囲の空気よりも重い質量を持っていた。布が濡れて張り付き、禍々しいシルエットが浮き彫りになっている。
「……『狂戦士ガルヴァロスの兜』」
ヴィエラが濡れた髪をかき上げもせず、低い声で告げた。
「……第五王朝末期。装着者の脳髄に闘争本能を注入し、死ぬまで戦わせる呪いの防具。……文献と一致」
彼女は布を乱暴に剥ぎ取った。
現れたのは、黒鉄色の兜だった。だが、ただの兜ではない。頭頂部から側頭部にかけて、鋭利な棘が無数に突き出し、さらにその棘が兜の内側にまで貫通しているという、狂気じみた構造をしていた。
「うわ、悪趣味。なんだその棘は。内側にまで貫通してるじゃないか。これじゃ被った瞬間に前頭葉を物理的に破壊されて、闘争心どころか人格そのものがリセットされるぞ。ロボトミー手術器具の間違いじゃないのか?」
「……それが覚悟。限界を超えるためのシステム」
「システムというか、単なる自傷行為だろ。痛覚を麻痺させるんじゃなくて、痛みで発狂させてるだけだ。危ないから持ち帰ってくれ。僕の店は医療廃棄物の処理場じゃない」
僕が拒絶の意思を示し、ヒラヒラと手を振った瞬間だった。
温度が下がった。
いや、室温は変わっていない。ヴィエラが発する「圧」によって、僕の体感温度が氷点下まで叩き落とされたのだ。
彼女は幽霊のように音もなくカウンターを回り込み、僕の背後――パーソナルスペースの絶対不可侵領域に侵入していた。
背中に感じる、湿った服の冷たさと、視線。
「……逃げるの?」
耳元で囁かれる言葉は、呪詛よりも重い。
振り返ると、そこには漆黒の瞳があった。
瞳孔が開いている。瞬きがない。呼吸音さえしない。彼女は一言も発さず、ただ僕の目の奥にある網膜を焦がすような強度で凝視してくる。
――直せ。
――雨の中、これを運んできた私の労力を無にするな。
――断れば、どうなるか分かっているな?
言葉はない。だが、雄弁すぎる殺意が伝わってくる。彼女の手が、作業台の上の精密ドライバーに伸びていた。僕の愛用する工具を、サイズ違いのネジ穴にねじ込んで二度と使い物にならなくするつもりだ。
「……わ、わかった! 見るよ! 見ればいいんだろ!」
僕は降参した。沈黙する捕食者に勝てる草食動物はいない。
僕は兜を作業台に引き寄せ、ルーペを装着した。
触れてみて、すぐに違和感を覚えた。
「……軽い。見た目は重厚な鋳鉄だが、これは比重からして二・七前後……アルミニウム系の合金だ。しかも表面積を増やすためのフィン……つまり放熱板のような加工がされている。熱伝導率が高すぎるんだよ」
僕は兜をひっくり返し、内側を覗き込んだ。
そこには、ヴィエラが言うような「脳を刺す針」はなかった。あるのは、弾力性のある樹脂製の突起と、吸水性の高いスポンジのような内張りだ。
「おいヴィエラ、水差しを貸してくれ」
ヴィエラが無言で水差しを突き出す。僕は兜の後部にあるタンク――彼女が『魔力増幅器』だと思っていた部分――に水を注ぎ込み、加熱用の魔石回路を接続した。
「いいかい、見てごらん。君の言う『闘争本能』が、液体として噴出する瞬間を」
スイッチ、オン。
ボコボコという沸騰音が響く。
数秒後。
プシューーーッ!!
棘の先端と、兜の内側の隙間から、勢いよく真っ白な蒸気が噴き出した。
同時に、工房内に漂う濃厚なラベンダーとミントの香り。
「……これ」
ヴィエラが目を丸くする。
「正解発表だ。これは『狂戦士の兜』じゃない。古代の『全自動ヘッドスチーマー・頭皮マッサージ機能付き』だ」
僕は兜の内側で、蒸気圧によってウニョウニョと動く突起を指さした。
「この棘は凶器じゃない、蒸気の排気弁だ。そして内部の突起は、温熱効果で柔らかくなった頭皮を揉みほぐすためのアクチュエータだよ。ガルヴァロスだか何だか知らないが、その英雄はきっと、重たい兜による慢性的な首の凝りと、戦場でのストレス性円形脱毛症に悩まされていたんだろうね。血に飢えていたんじゃない。血行不良に怯えていたんだ」
僕の解説が終わっても、ヴィエラは動かなかった。
呆然と、シュンシュンと音を立てて蒸気を吐き出す兜を見つめている。
彼女の脳内で構築されていた『血塗られた戦場の叙事詩』が、『風呂上がりの健康習慣』へと上書き保存されていく音が聞こえるようだ。
だが、次の瞬間。
ヴィエラはその兜をひったくり、作業台の椅子にドカリと座り込んだ。
「おい、髪が濡れたまま被る気か? 感電はしないだろうけど……」
僕の制止も聞かず、彼女はその蒸気を吹く機械を、頭蓋骨ごと押し込むように深く被った。
「……ふぅ」
兜の隙間から、とろけるような吐息が漏れた。
蒸気に包まれ、椅子に深く沈み込むヴィエラ。その姿には、狂戦士の威圧感など微塵もない。あるのは、ただの「サウナで整っている人」の弛緩しきったオーラだけだ。
「……血行促進。……毛穴の開放」
「おい、話を聞いているのか。……まあいい。結局のところ、人間が求める究極の快楽とは、戦場での勝利ではなく、副交感神経の優位性にあるという証明だね」
僕の皮肉に対する返答はなかった。
「……極楽」
ヴィエラの膝の上から、それまで大事に抱えていた古文書が、音もなく滑り落ちた。
パサリ、と床に落ちてページが開いても、彼女は拾おうともしない。
兜の隙間から漏れ出る真っ白な蒸気が、彼女の輪郭を曖昧にぼかしていく中で、だらりと垂れ下がった指先だけが、規則的なリズムでピク、ピクと痙攣していた。




