〈Ⅲ〉正体を知る者
焼きたてのパン、沸かした牛乳から取れたほんのり甘い乳膜、山羊の乳を脱脂・発酵させた乾酪に酸味の強いヨーグルト、塩入りミルクティー。
乳製品を中心に並べられた夕食。今宵のメインは、羊肉と野菜を石と一緒に蒸し焼きにしたホルホグだ。客人のために普段より大量に盛り付けがされている。
「美味いな、この羊肉焼ってやつ。粗塩が合う」
食卓の中央に我が物顔で座ったアスランが、次々と肉を平らげていく。すらりとした痩身に反して大食漢らしく、豪快な食べっぷりで遠慮がない。
「ん……あんまり進んでないな、姫さん? しっかり食わねえと大きくなれないぞ。ほら」
強引に寄越された大ぶりの骨付き肉を前に、馴染みすぎだろとナジャは悪態をつく。
「そうですよぉ姫様は細すぎます! いっぱい食べて太らないとそのうち、牧草と見分けがつかなくなって大変なことになっちゃいますぅ」
「……ターニャ、酔っ払ってるな? おまえは酒精に強くないんだからほどほどに、」
「らって楽しいんですもん〜! 美味しいごちそうにみんなの笑顔、こんな夜は飲まなきゃもったいない、ない……」
赤ら顔のターニャの手には馬乳酒のグラスがある。ヨーグルトに似た味わいで度数は低く、ロダリヤ族では子どもの頃から楽しめる酒。だが酔いやすい彼女はあっという間にへべれけだ。
「じっとしていられないなぁ、えへへ……そうだぁ、歌います!」
「ああもう、どいつもこいつも」
「いいじゃねえか姫さん。好きにさせてやれば」
「おまえは図々しすぎだ。少しは遠慮しろ」
千鳥足で歌いだすターニャを横目に、ナジャは肉のお返しにと、なみなみと酒をそそいだ盃をアスランに押しつけた。小さな悪戯心が芽生えたのだ。
馬乳酒を蒸留させたその酒は一見、白く可愛らしいが度数が高い。酔い潰してやろう、とアスランが盃を空にするたび酌をする。
「何があったのか詮索はしないが……大怪我していたというわりに元気だな。鉄の王国の人間は身体も鉄でできているのか?」
冗談のつもりだったのに、アスランは「まあな」と真顔で頷いた。
「ちょっとした鉄の人工骨が入っているから、完全に生身の人間より痛覚は鈍いかもしれない」
「は? 鉄の、骨……?」
「本来であれば合金が主流だがな。不純物を極限まで減らした、生体適合性のある超高純度鉄の技術が開発された。腐食の課題においては、特殊な不動態皮膜を形成して表面処理することで──」
何を言っているのかさっぱりわからない。
人の理解が追いつかないようなことが鉄の王国では当たり前に行われているのか。
そのとき、パリンと音がした。
「きゃっ!」
ターニャの小さな悲鳴。
見れば、彼女が持つグラスが割れている。
「共振現象か。歌手に向いてそうな娘だ」
意味不明な独り言を口にしつつ、アスランはなおも盃を呷る。とても強い蒸留酒を何杯も飲んでいるのにけろりとした表情で、まったく酔うそぶりがない。
(飲み尽くされそうな勢いだな……。でも)
たしかにターニャの言うとおり、楽しい夜だった。
認めるのは癪だが、アスランのおかげで場の空気が和んでいる。最近は砂の魔物の暗い話題が続いていたため、一族の笑顔を見られたのはずいぶん久しぶりに感じられた。
(もし、族長がわたしでなかったら。討伐も成功し、仲間が不安になることもなかったかもしれない)
無意識に骨笛を撫でる。
首からさがる重みにふれ、つい暗澹とした気持ちに沈んでいき……長く考え事に耽っていたらしい。
「──話し相手になろうか? 姫さん」
皆、いつのまにか寝床に入ったようで、気が付けばナジャとアスランだけが場に取り残されていた。
にぎやかだった余韻の漂う夜の静寂。対面に座ったアスランが頬杖をついて、こちらを覗きこんでいる。
「余計なお世話かもしれないが、何か思いつめているように見えてな。俺でよければ話を聞こう。身内相手では言えないこともあるはずだ」
「どうしてわたしを気にかける?」
「別に深い意味はない。ただ、姫さん率いる一族には助けてもらった恩があるからな」
もつれた前髪でまなざしは見えない。
それでも彼の口元に浮かぶ笑みはどこか優しげで、思わず目頭が熱くなった。
黒い鳥の巣頭、無精髭、冴えない雰囲気──似ても似つかない男に亡き父の面影を重ねてしまったのは、二回りほど離れた年齢のせいだろう。
ふたりきりの食卓。
不思議と親しみの湧くアスランの空気に誘われて、ナジャはぽつり、ぽつりと話しだす。
両親に先立たれたこと。若い身で長にならなくてはいけなくなったこと。責任に押し潰されそうな日々。仲間たちには明かせない、不安や弱音。
「父さまが死に、大婆さまも後を追うようにこの世を去った。残されたわたしは族長の座を引き継いだが、力が及ばず、皆に苦労をかけてしまっている」
「その年でひとりぼっちになったのか。寂しいだろうに、頼れる存在がないのは難儀だな」
「──いや」
アスランの言葉にかぶりを振る。
「〝死者は風となって帰ってくる〟……ロダリヤ族にはそんな言い伝えがある。父から受け継いだこの笛もともに在ってくれるし、寂しくはない」
ただ、とナジャはくちびるを噛んだ。
「わたしたち遊牧民の安寧が脅かされはじめたのに、族長として何もできない自分が嫌になる。砂の魔物を破る策さえ見つかれば、と思っているんだが……」
「……なんだ、それは?」
「草原を跋扈する巨大な魔物だ。蠍のような姿で躰は黒く、硬質。水脈を涸らしながら渡り歩き、砂漠化を招くので〝砂の魔物〟と呼んでいる」
信じてくれるだろうか。
ナジャ自身、初めて砂の魔物に遭遇したときは己が目を疑ったものだった。草原に生まれ、草原に生き、あれほどおぞましい存在と対峙する日が来ようとは。
きっと話だけでは信じてもらえない。けれど、その強大な全貌を目の当たりにすれば、アスランも驚き、おそれをなすに違いない──。
そんなことを考えていたナジャだが、驚かされるのは彼女のほうだった。
「そうか。あんたたちにはあれが魔物に見えるのか」
アスランがつぶやく。
そして、信じられない一言を放った。
「あれは王国の音響兵器だ。水脈を破壊するための。女王の命令のもと、複数の個体が草原に放たれた」
「……え?」
「鉄の王国は水資源にも恵まれている。だからこそ、周辺の水脈が涸れることは女王にとって有益なんだ。水の価値をあげるついでに、勢力を伸ばされると後々面倒な遊牧民も潰すことができる」
淡々と告げられる内容に混乱する。
女王の音響兵器? 魔物と思っていた敵の正体は、作為的に生み出された機械だった?
平穏に暮らしているだけの遊牧民に軽々しい悪意を──いや。そもそも。
「なぜ、そんなことを知っている……?」
「生みの親が俺だからだ」
アスランがそう言ってのけたのと、ナジャが卓上にあった肉用の小刀を手にしたのは同時だった。
刃を突きつけられたアスランが両手をあげる。
「待て。話を聞いてくれ。俺はたしかに王国の科学者だったが、望んであんな兵器を作ったんじゃない」
「……どういうことだ?」
「騙されたんだよ。女王──血を分けた姉にな」
アスランはこう語った。
鉄の王国の科学者だった彼は王国のさらなる発展のために、その叡智を貸してほしいと女王に頼まれて、大型機械の開発にたずさわった。
災害などで国土が荒れた際、地中深くに音波を送ることで土地を活性化・再生させるもの──そう聞いて協力したはずが、実は嘘で、女王はアスランの知識を悪用し兵器を作ったのだと。
「つまりおまえは、女王に歯向かって殺されかけ……草原に捨てられた?」
「そう。派手な姉弟喧嘩ってわけだ。信じてほしい」
この髭もじゃが王族というのは信じがたい。だが、あまりに具体的な話に信憑性があるのも事実。
(完全に信用できるわけじゃない。でも……)
探りあうような沈黙ののち、ナジャは決意する。
──賭けてみよう、と。
どんなに武器を強化しても砂の魔物に敵わない今、彼女にはまったく新しい切り口で助言してくれる存在が必要だった。
「口先じゃなく、行動で示してもらう。おまえの話がでたらめでないという証拠を」
刃を向けたままアスランを見つめる。
「望んで兵器を作ったのではない、その言葉が真ならわたしに協力しろ。生みの科学者であれば当然、破壊するすべも考えられるはず」
「もちろん。あんたに出会ったおかげで、いい方法を思いついたところだ」
にやりと笑い、アスランはナジャの胸元を指した。
──代々の族長が受け継いできた、骨笛を。