〈Ⅱ〉砂の魔物
ごう、ごうと地鳴りめいた音がする。
風の嘶きか──否、これは魔物の唸り声。
ゆらめく赤い陽の下。愛馬に跨ったナジャは、同じように馬を伴った男たちを率いて小高い丘にいた。
砂漠化が急速に進んだ地帯、彼女の見つめる先には青々とした草原でなく砂が舞っている。濁った空気に目を凝らすと、不気味にうごめくものがいた。
「姫様……本当にまた挑むおつもりですか」
「ああ。あれを野放しにしていては、いずれ遊牧民の生命線が断たれてしまう」
「しかし、我々は一度も……」
濛々と立つ砂煙のなかにいるのは、二階建ての建物に匹敵する大きな影。
遠目には巨大な岩に見えるそれが、多脚の黒い魔物であることをナジャは知っている。
──〝砂の魔物〟。
草原の水脈を渡り歩き、涸らす厄災だ。
近頃、忽然と現れたその魔物に、ロダリヤ族は甚大な被害を受けてきた。
水不足による熱病、家畜の衰弱、牧草の枯死。一度枯れて砂漠と化した草原はそう簡単に元に戻らない。水と草を求めて移動する遊牧民にとって、砂の魔物は始末しなくてはならない宿敵だった。
「……風よ。どうか、我々をお守りください」
首飾りに仕立てた骨笛にふれる。無自覚の仕草は、不安をやり過ごそうとするときのナジャの癖だ。
おそれは常にある。仲間や、自分自身の命を危険に晒して戦うことは、とてつもない恐怖心を伴うもの。
(それでも戦わなければ)
一族のためにも逃げてはいられないと思うから。
ナジャはぎゅっと骨笛を握った。まなじりを決して手綱を取り──次の瞬間、勢いよく愛馬を走らせた。
「……姫様に続け!」
男たちも一斉に馬で駆けだす。
吹き荒れる砂粒を全身に浴びながら標的に急接近、その巨躯の懐へ。飛びこむまでは慣れたものだ。
問題は、攻撃が通用するかどうか。
ロダリヤ族が使う武器は木製の弓に動物の角や腱、金属板を貼り合わせた複合弓が主流だったが、魔物には歯が立たなかった。敗北のたび強化が重ねられ、武骨になった大弓がナジャの背にもくくられている。
(頼む……!)
対魔物用の重々しい大弓をつがえ、力いっぱい引き絞る。砂の魔物は巨大な蠍を思わせる姿をしており、鋼のように強靭な八本の脚にナジャたちは幾度となく攻撃を防がれ、敗れてきた。
一本でも吹き飛ばせたら重心を崩すことに成功するかもしれない。そうすれば勝機が見える──ナジャを筆頭に、討伐隊が同じ思いで鏃をさだめた刹那。
砂の魔物が金切り音をあげた。
「うッ……!」
鼓膜から脳を揺さぶる凄まじい鳴き声。人間ですら耐えがたい音を食らえば、動物はひとたまりもない。
ロダリヤ族の跨る愛馬が狂ったように暴れだす。
振り落とされる者、金切り音で失神し落馬する者の姿が次々とナジャの視界に飛びこんでくる。
荒ぶる馬の背にしがみつき、彼女は奥歯を噛んだ。首からさがる骨笛は虚しく胸を打つばかり。
「っ、撤退だ! 全員、拠点に戻れ!」
引き際をあやまれば大勢の犠牲者が出る。
もう何度目の敗走だろうか。隊列の先頭ですばやく馬を引き返したナジャを、無力感が襲う。
(どうすればいい? 水脈を奪われ続けたら、草原で生きるわたしたちの命はないのに……!)
──勝てない。敵は、あまりにも強大だ。
そう感じているのは皆同じようで、討伐への反対の声が大きくなりつつあった。水脈を失うわけにいかなくとも、この無謀な戦いはやめるべきだと。
たかが十六歳の少女があの魔物に打ち勝てるなど、誰も信じていないのだ。
ナジャの父も砂の魔物に敗れ、命を落としたから。
◇◆
(また、何もできなかった)
絶望と焦燥をかかえて、ナジャは討伐隊の男たちとともに移動式住居に帰った。
あの魔物を破る手立てはないのか。いっそのこと、戦いを挑むことをやめるべきなのか。歯が立たないと知りながら立ち向かう意味はあるのか──今日もまた設けられるのだろう議論の場を思うと、ナジャの胸は重く苦しくなる。
だがこの日、彼女を迎えたのは明るい空気だった。
何やら拠点が賑々しい。
「……なんの騒ぎだ?」
「あっ、姫様! おかえりなさい!」
通りがかった同い年の娘、ターニャが応えた。
「見回りに出かけた人たちが、草原で倒れていた方を発見したんです。ひどい怪我をしていて」
「怪我?」
「ええ。なので、連れ帰って手当てをして……あっ、あそこにいらっしゃる方です」
ターニャに案内された先、ひとりの男がいた。
黒い外套に黒い鳥の巣頭。瞳の色を隠す長い前髪、無精髭が焚き火に照らされている。ナジャより二回りほど年上だろうか。真新しい包帯に巻かれた手で酒を嗜みつつ、男はゆるりと口端を持ちあげた。
「あんたが姫さんか。初めまして」
聞けば、腹や腕に火傷と切り傷を、脚に数発の銃創を受けた状態で草原に倒れていたらしい。一時は生死をさまよったが回復したのだと。
無事でよかったです。そう朗らかに笑うターニャの隣で、ナジャは思いきり顔をしかめた。
「なんだこの髭もじゃは……胡散くさい。素性のよくわからない奴を簡単に引き入れるな」
「でも、怪我人を放っておくなんてできませんし……このお方、とっても気さくなんですよ。子どもたちの遊び相手にもなってくれて。みんな楽しそうです!」
たしかに子どもに懐かれているようで、鳥の巣頭が引っ張られたり、あちこち飛び乗られてもみくちゃになっている。何をされても構わず笑って相手しているところを見ると、悪い奴ではないかもしれないが……やはり信用できない。
外部の人間を内側に入れることは危険を伴う。
だというのに、めったにない客人にロダリヤの男は酒盛りをはじめ、女はきゃっきゃと色めき立つ始末。
「まったく……」
ナジャは額を押さえた。
溜息をつきながらあらためて男を観察すると、彼の指できらめく複数の指輪が目に留まった。
どれも鉄製で、うつくしく乱れのない複雑な紋様が刻まれている。非常に高度な彫金だ。
「……鉄の王国の人間か。汚れてはいるが衣服の質がいい。見たところ、城の関係者か?」
「驚いた。鋭い目の持ち主だ」
鉄の王国とはその名のとおり、金属──とりわけ鉄を用いた最先端の技術を誇る大国。玉座にあって君臨する女王は、おそろしく狡猾なことで知られている。
「俺はアスラン。解雇されちまったが、つい最近まで王国お抱えの科学者だった者だ」
男が名乗る。
このときのナジャは知る由もなかった。
冴えない元科学者との出会いが、己の──ひいては一族の運命を拓くものになるなんて。