〈Ⅰ〉死者は風となる
──風の導きを
──魂が迷うことのないように
草原に横たえられたひとつの遺体へ、歌が降る。
これは葬送。三十名あまりの遊牧民──ロダリヤ族が、族長の死を惜しんで捧ぐ〝風の儀〟だ。
祈りの歌に誘われた風が亡骸を覆う布を揺らせば、死者の魂が風に還った合図。
「……父さま」
葬送の輪の中心、少女がつぶやいた。
遺体のそばに膝をついた彼女は、色彩豊かな刺繍がほどこされた華やかな長衣をまとっている。
両の耳朶を飾る風切羽の耳飾りは一族の繁栄を願うもの。羽の影が落ちるその頬に、涙が音もなく伝う。
「ナジャよ。うつむくのはおやめ」
しわがれた声に呼ばれ、少女──ナジャは力なく顔をあげた。編みこんでふたつに垂らした赤毛が熾火のように揺れる。涙に濡れた目を向けた先、同じ髪色を持つ老女が立っていた。
老いさらばえた手が布にのせた何かを差し出す。
乳白色のなめらかな骨。ナジャの両手ほどの長さでまばらに穴が空いている。うつくしくも荒々しいそれは、ひどく見覚えのあるものだった。
「おまえも知っているとおり、これは古の時代に一族を守っていた聖なる獣の脚の骨を削り、磨いて作った骨笛だ。使うことを許されるのは族長のみ」
「…………」
「さあ。手を」
促されるまま、ナジャは両手を差し伸べる。揃えた手のひらで受け取った骨笛はずしりと重い。
熱病で母を亡くし、父にも置いていかれてしまった少女には、酷な重みだった。
「大婆さま。わたしに……務まるのでしょうか」
一陣の風が吹き抜ける。
さやかな星影の下。白髪混じりの赤毛をなびかせて老女はほほえんだ。
「いい風だ。応えてごらん、おまえの音で」
通常の笛とは異なり、骨笛は高く澄んだ音から地を這うような音まで、幅広い周波数を奏でられる。
遠くで草を食む家畜を呼び戻すため、動物の鳴き声を模倣したり。自然に溶けこんで移動するため、砂嵐の音を模倣したり──歴代の族長はみな、さまざまな音波を巧みに操ってきた。
ときにはそう、対話の手段としても。
ナジャは音孔に指を添え、そっと息を吸う。慎重に吹きこまれた骨笛から、かすかな音が生まれた。
夜をわたる風と手を取りあうような。
慈しみ深く、穏やかな音が。
──死者は風となって帰ってくる。
──愛する者と駆けるために。
ナジャの血族が代々率いてきた、このロダリヤ族に息づくただひとつの教え。
たとえ最愛の相手を喪おうとも、寂しく思うことはない。目に見えなくてもその魂は姿かたちを変えて、寄り添ってくれているから──。
「おまえの父も、母もここにいる。私だってそうさ。この命は長くないが、死んだら風となり帰ってくる」
見渡すかぎりの草原がさらさらとそよめいている。
まるで、ナジャの涙を拭おうとするかのように──それはどこまでもあたたかく、優しい音だった。
「おそれるな。風はいつでも、おまえの味方だよ」