魅せて。
「魅せて。」
彼女は言った。僕はその言葉に心を固められたかように感情が止まった。
だが言葉は既に先走っていた。
「逃げよう。」
7月下旬。既に夏休みに入っていた僕は家から出ない生活を始めていた。外に出たっておもしろいことなんてひとつもない。家にいれば誰かにとやかく言われる事もない。一人で窓際に座る。
燦々と太陽が日本を照らす。うざったい程に明るく嫌気が指す。見渡した先は蜃気楼が揺らぐ。
夏が嫌いだ。みんなが元気になっている気がするから。みんなが楽しそうに見えるから。
「いいな、」反射的に自分を否定する。夏は嫌い。あいつらと群れたっていいことなんてひとつもない。
窓を閉める。かすかに聞こえる子どもたちの笑い声。「行くか。」家の鍵を手に取る。
久しぶりの外出。幼馴染の叶恵に会いに行く。あいつは既に長くないであろうと思っていた。
小さい頃から唯一友達と呼べた叶恵。会えるうちに会っておきたい。その程度にしか考えていなかった。
どうも実感が沸かないのだ。確かに小さい頃から体が弱かった。小学6年生の時に病気してからは
ずっと入院している。とはいえいつも元気そうにしている。あいつの最期なんてのは考えられない。
歩きながらそんなことを考えていた。バス停に近づいたときスマホが鳴った。母からだった。
「涼太、今から竹町病院に行ける?」
「今向かってるとこだけどなんで?」
「叶恵ちゃん、もう長くないみたいなの。」
母親同士も関わりがありいつも連絡は母から来る。
「わかった、急ぐよ。」
そう言って電話を切った。いつもは仕事仕事ってなにも連絡なんてしないくせに。
もちろん僕を養うためというのはわかっているし、今回の叶恵の事は急ぎだからしょうがない。
わかっている。だがどうしてもやり場のない感情が残る。
「叶恵?」
扉を開け、奥のベッドにいる叶恵の姿。
「涼ちゃん!」
もう長くないやつが出す声じゃない。
「体調は?平気なの?」
「ん、まあまあかな?」
叶恵が笑う。
数秒の沈黙。
「連絡、行った?」
刹那の静寂。
「うん。」
叶恵が問う。
「驚いた?」
「ちょっとだけ。」
「信じられる?」
「信じられない。」
「私も。」
また叶恵は笑う。
外からかすかに聞こえるセミの声。その声はとても強かった。
「ごめんね、毎回お母さんに連絡させちゃって。忙しいのにね。」
叶恵が言う。
「いいけど、相変わらずスマホを持つ気にはならないんだね。」
「うん、やっぱりネットで楽しそうな事してる人達見ると羨ましくなっちゃう。」
セミの声が止む。
「ずっと入院してるもんね」
叶恵に言う。
「それだけじゃないよ、小さい頃から体弱いからずっと家の中。たまに近所の公園。」
「その公園で僕達出会ったよね」
「なに?急に思い出話なんかしちゃって。残りの時間短いから?」
「そういうわけじゃないけどさ。」
叶恵が弱っている事なんて感じられない。
すると彼女は呟く。
「私もっと色んなもの、見てみたかった。」
その瞬間に、何かを言ってやることはできなかった。
「遠くに行ったら魅力的なものがたくさんあると思うの。」
「うん。」
叶恵の顔が見れなくなる。
「私、家族と公園に行った記憶しかない。」
「うん。」
声が震える。
十数秒の沈黙。空に大きな入道雲が見える。
「私ってこのまま何も見れずに死んじゃうのかな。」
叶恵の声は消えそうだった。
「このまま連れてってよ。」
そっと叶恵が呟いた。
僕の視界がぼやける。
「涼ちゃんと世界を見てみたいの。」
想像もしていないセリフだった。
「涼ちゃんとなら世界全部が色付く、そう思えるの。」
そんな事、僕が言いたい。
「魅せて。」
彼女は言った。僕はその言葉に心を固められたかように感情が止まった。
だが声は既に先走っていた。
「逃げよう。」