第九話:静寂の支配者
俺が戦場に足を踏み入れたことに、最初に気づいたのは、騎士たちを率いる女性騎士――セレスティアだった。
彼女は、傷ついた肩を押さえながら、鬼気迫る表情で叫んだ。
「少年!下がりなさい!君のような者が来ていい場所ではない!死にたいのか!」
その声は、絶望的な状況にあってもなお、無関係な者を巻き込むまいとする、彼女の気高さを表していた。
だが、俺は止まらない。
仲間を見捨て、自分だけが助かろうとしたレギウスたちとは違う。この人たちは、守る価値がある。そう、直感が告げていた。
俺は、騎士団と、異形の魔物の軍勢との、ちょうど中間地点で足を止めた。
四方八方から、殺意と、血の匂いと、混沌の概念が、嵐のように俺に襲いかかる。
だが、俺の心は、不思議なほどに凪いでいた。
俺は、剣を抜くことさえせず、ただ、すっと右手を天に掲げる。
そして、この狂乱の戦場そのものに、新たな定義を与えた。
「――定義を開始する。この場に満ちる、全ての“狂騒”と“殺意”を、“深淵なる静寂”に塗り替える」
俺がそう宣言した、瞬間だった。
世界から、音が消えた。
魔物たちの耳をつんざくような咆哮が、ピタリと止んだ。剣と爪がぶつかり合う甲高い金属音も、魔法が炸裂する轟音も、負傷した騎士のうめき声さえも、全てが、まるで分厚い壁に遮られたかのように、掻き消える。
だが、それは、ただの聴覚的な現象ではなかった。
戦場を支配していた、暴力的なまでの闘争本能、憎悪、狂気といった概念そのものが、まるで潮が引くように、綺麗さっぱりと浄化されていったのだ。
「なっ……」
突撃の最中だった魔物たちは、自分たちがなぜここにいて、なぜ武器を振り上げているのかさえ忘れたかのように、その場で動きを止めて、きょろきょろと辺りを見回している。
セレスティアと彼女の騎士たちも、あまりの異常事態に、ただ呆然と立ち尽くしていた。
ほんの数秒前まで地獄の釜の底のようだった戦場が、今は、まるで時間が止まったかのような、不気味な静寂に包まれていた。
その静寂を破ったのは、再び動き出した、知性の低いゴブリン系の魔物たちだった。本能が、目の前に立つ俺という「異物」を、再び敵だと認識したのだ。
十数体の異形ゴブリンが、無音のまま、その歪な口から涎を垂らしながら、俺目掛けて殺到する。
「危ない!」
誰かが叫んだ。
セレスティアが、俺を助けるべく、傷ついた体で駆け出そうとするのが見えた。
俺は、そんな彼女たちに、大丈夫だ、と目で合図を送るかのように、ここで初めて、腰にあった安物のショートソードを、ゆっくりと引き抜いた。
そして、殺到するゴブリンの群れに向け、剣を水平に構える。
その切っ先は、一体の敵も狙ってはいなかった。
【我が剣は、“数多に分裂し、全てを刈り取る、無形の嵐”と化す】
俺の剣は、動かない。
だが、俺がそう定義した瞬間、俺とゴブリンたちとの間にある、何もない空間そのものが、まるでガラスのように、内側から粉々に砕け散った。
無数の、目に見えない斬撃の奔流が、暴風となってゴブリンの群れに襲いかかる。
――ザシュザシュザシュザシュッ!
音のない世界に、肉が断ち切られる生々しい音だけが響く。
突撃してきたゴブリンたちは、その勢いのまま、まるで巨大なシュレッダーにでもかけられたかのように、一瞬で原形を留めないほどの肉片へと変わり果て、その勢いを失い、ただの動かぬ肉塊となって地面に転がった。
一瞬。
本当に、たった一瞬の出来事だった。
パーティーの前衛を苦しめていた第一陣が、たった一人の、名もなき少年の、たった一振り(のようにも見えない所作)で、完全に殲滅されたのだ。
「……嘘だろ…」
騎士の一人が、かすれた声でつぶやいた。
「今の…は…何だ…?魔法…じゃない。剣技…でもない…」
セレスティアは、言葉さえ失っていた。彼女の騎士としての経験、公爵令嬢としての知識、その全てを総動員しても、今、目の前で起きた現象を説明できる言葉を、一つも見つけられなかった。
異形の魔物の軍勢の間に、明らかに動揺が走る。
彼らの混沌とした本能が、目の前に立つ、静かな少年を、「自分たちとは次元の違う、捕食者だ」と認識し始めていた。
俺は、返り血一つ浴びていない剣を、静かに下ろす。
そして、今度は、呆然とする魔物の第二陣――あの巨大な異形のオーガへと、ゆっくりと歩を進めた。
まだだ。
この戦場の定義は、まだ、終わっていない。