第八話:戦場の概念
自らの力の新たな可能性に気づいて以来、俺のダンジョン探索は、単なる「生存」から、積極的な「実験」へと変わっていた。
追い立てられるように逃げるのではなく、自ら進んで魔物と対峙し、力の使い方を試す。
ある時は、音に敏感な魔物の群れをやり過ごすため、自らに**【沈黙】の概念を与えて、一切の音を立てずにその縄張りを突破した。
またある時は、頑強なゴーレムの関節部分に、【潤滑油が切れた、古い機械】**という定義を与えることで、その動きを致命的に鈍らせ、容易く撃破した。
力の使い方が洗練されていくにつれ、魔力の燃費も向上していった。無駄な力を使わず、敵や状況の「本質」を見抜き、最小限の力で、最大の効果を発揮する。それが、俺の戦い方の核となりつつあった。
だが、探索を続けるうちに、俺は、このダンジョン全体を覆う「異変」を、より強く、そしてはっきりと感じるようになっていた。
世界の理が、軋みを上げているような、不快な感覚。
あらゆる物質が持つ固有の概念に、まるでノイズのように混じりこむ、【混沌】の概念。
そして、その「ノイズ」が最も強く感じられる方角へと、俺は知らず知らずのうちに、導かれていた。
「…これは」
通路を抜けた先で、俺は息を呑んだ。
そこは、これまで見てきたどの空間よりも巨大な、ドーム状の大空洞だった。
そして、その中央で、凄まじい規模の戦闘が繰り広げられていた。
高い岩棚の上から、俺は気配を消して、その光景を見下ろす。
戦っているのは、一方的な数の暴力に晒された、一団の騎士たちだった。
その数、わずか十数名。銀色に統一された美しい鎧は、すでに泥と血で汚れ、ところどころが破損している。だが、その動きは、絶望的な状況にありながら、驚くほどに統率が取れていた。
盾兵が壁を作り、魔法使いが援護し、前衛が敵を斬り伏せる。一人一人が、間違いなく一流の戦士だ。
しかし、敵の数が、あまりにも多すぎた。
ゴブリンやオークといった、ありふれた魔物ではない。体の一部が歪に融合し、黒い瘴気をまとった、おぞましい異形の軍勢。その数は、数百は下らないだろう。
(…全滅は、時間の問題だな)
俺は、冷静に戦況を分析する。
騎士たちの中心で、一人の女性騎士が、銀色の髪を振り乱しながら、必死に指揮を執っていた。彼女が、この部隊のリーダーなのだろう。その剣技は、他の騎士たちとは一線を画す、苛烈さと気品を兼ね備えていた。
だが、俺の目には視える。
彼女の剣に宿る【鋭利】の概念が、消耗によって揺らぎ始めていること。彼女の体から放たれる【決意】の概念が、深い【疲労】の概念によって、上書きされかけていること。
(関わるべきじゃない。俺一人が加わったところで、この戦況が覆るとは思えない)
俺は、静かにその場を立ち去ろうとした。彼らが何者であろうと、俺には関係のないことだ。俺は、もう誰かのために戦うのはやめたのだから。
――その、時だった。
異形の魔物の一体が、騎士団の防御網を突破し、負傷してうずくまっていた魔法使いに襲いかかった。
誰もが間に合わない、と観念した瞬間。
リーダーである女性騎士が、信じられないほどの速度でその間に割り込み、魔物の爪を、自らの肩で受け止めたのだ。
ガキン、と音を立てて鎧が砕け、彼女の肩から鮮血が迸る。
「団長っ!」
部下の悲痛な叫び。
だが、彼女はうめき声一つ上げず、逆にその隙を突いて、魔物の心臓を剣で貫いた。そして、部下に向かって叫ぶ。
「感傷に浸るな!前を向け!我々は、最後まで王国騎士団としての誇りを失わん!」
俺は、その光景から、目を離せなかった。
自らの身を挺して、仲間を守る姿。
その姿が、かつて、俺を見捨てて逃げた、レギウスたちの姿と、鮮やかすぎるほど対照的に、俺の脳裏に焼き付いた。
俺の目に視える、彼女たちの概念。
【忠誠】【誇り】【自己犠牲】
そして、絶望的な状況にあっても決して消えない、か細く、しかし、凛とした【希望】の概念。
(…ああ、そうか)
俺は、なぜ自分が、この異様な「混沌の概念」に、これほどの不快感を覚えていたのか、ようやく理解した。
混沌は、これらの美しい「名前」を持つ概念を、無意味化し、汚し、破壊しようとしている。
それは、俺が心のどこかで、ずっと守りたいと願っていたものなのかもしれない。
俺は、自嘲気味に、小さく笑った。
「…面倒な、性分だな」
誰に言うでもなく、そうつぶやくと、俺は岩棚から、静かに飛び降りた。
戦場の喧騒。絶望の悲鳴。混沌の咆哮。
その全てが、俺の耳には、ただのBGMのように聞こえていた。
俺は、ゆっくりと、戦場の中心へと歩を進める。
腰に差した、安物の鉄の剣の柄を、強く、強く、握りしめた。
「この戦いの定義は、俺が書き換える」