第七話:不協和音と、混沌の兆し
あれから、さらに数日が経過した。
俺は、ダンジョンの探索と戦闘を繰り返す中で、自らの力【万物定義】の、新たな側面を次々と発見していた。
これまでは、剣や、ロープや、敵といった、「外部」の対象にばかり概念を定義してきた。だが、ある時、俺はふと思ったのだ。
(――この力は、俺自身にも使えるんじゃないか?)
試したのは、無数の罠が仕掛けられた長い回廊だった。床には、踏めば矢が飛び出す感圧式の罠。壁には、触れれば呪いが発動する魔法的な罠。パーティーがいれば、斥候と神官が、数時間かけて慎重に解除していくような場所だ。
俺は、回廊の前で一度立ち止まり、深く息を吸い込む。そして、自らの存在そのものに、新たな定義を上書きした。
【我が足音は、“無”である。我が気配は、“風”よりも希薄である】
瞬間、俺の体から、ふっと重さが消えるような感覚があった。魔力の消耗は激しいが、それと引き換えに、俺の存在は、この世界のあらゆる物理法則から、少しだけ自由になっていた。
俺は、罠だらけの回廊を、まるで幽霊のように、音もなく、そして何にも触れることなく、駆け抜ける。感圧式の床も、呪いの紋様も、俺という「希薄な存在」に気づくことなく、沈黙を保ったままだった。
(…やはり、使えるか)
ただし、この「自己定義」は、魔力の消耗が尋常ではない。多用はできない、切り札の一つとすべきだろう。
だが、俺は確実に、この力の核心に近づきつつあった。
そんな成長の実感とは裏腹に、俺の心の中には、日を追うごとに、ある言いようのない不安が広がっていた。
ダンジョンの「概念」が、おかしくなっているのだ。
例えば、地下水脈が作り出した湖。その水の概念は、本来なら【冷たい】【澄んでいる】【深い】といった、安定したものであるはずだった。だが、今の俺が感じ取るのは、そのクリアな概念に、まるでテレビのノイズのように、ザラザラとした不純な概念が混じっている感覚だった。
【汚染】【淀み】【狂気】
それは、水だけでなく、岩にも、空気にも、この階層を満たす全ての物質に、まだらに、しかし確実に、浸食を始めていた。
その影響は、このダンジョンに生息する魔物たちに、最も顕著に現れていた。
ある日、俺が遭遇した一体の魔物は、狼のような体に、昆虫のような甲殻がまだらに生え、蛇のような鱗が浮かび上がるという、おぞましい姿をしていた。
その存在が放つ概念は、もはや【獣】という一つの言葉では定義できない。ただ、【痛み】【飢餓】【憎悪】といった、破壊的な衝動ごちゃまぜになった、混沌の塊だった。
「グルルルゥゥ…!」
そいつは、俺の姿を認めると、これまでの魔物とは比較にならないほどの、純粋な殺意を放って襲いかかってきた。動きも、予測ができないほどに不規則だ。
俺は、いつものように剣に【鋭利】の概念を与えて斬りかかるが、その刃は甲殻に弾かれ、蛇の鱗に滑ってしまう。敵の概念が混沌としすぎていて、俺の単純な定義では、その本質を捉えきれないのだ。
(…厄介だな)
俺は、一度距離を取る。
そして、これまでの戦い方とは、また違うアプローチを試みた。
敵の概念が混沌としているなら、それを上回る、より高次の、絶対的な概念をぶつければいい。
俺は、ショートソードを正眼に構え、その刃に、一つの「目的」を定義した。
【この剣は、“秩序をもたらす、裁きの光”である】
俺が剣を振るうと、刃から放たれたのは、斬撃ではなかった。
不浄を焼き払うかのような、白く、清浄な光の波だった。
その光に触れた瞬間、混沌の魔物は、まるで聖水に触れた悪魔のように、その体を激しく痙攣させる。
「ギィ、アアアアアアアアアッ!!」
断末魔の叫びと共に、魔物の体を構成していた、ちぐはぐな部位が、次々と崩壊していく。狼の毛皮も、昆虫の甲殻も、蛇の鱗も、全てが本来あるべき場所へと還るように、光の中に溶けていき、後には何も残らなかった。
「……」
俺は、激しい消耗感の中で、息を整える。
今の戦いで、確信した。
このダンジョンで、何かとてつもなく悪いことが起きている。世界の「定義」そのものを汚染し、歪めるような、巨大な悪意。
そして、その「混沌」に、俺の力は、何らかの形で対抗できる。
俺は、この概念の「ノイズ」が、より強く感じられる方角――ダンジョンのさらに奥深くへと、視線を向けた。
そこへ行けば、この異変の正体が分かるかもしれない。
同時に、俺の力の根源に関する、何らかの手がかりも掴めるかもしれない。
もはや、ただの脱出が目的ではない。
俺は、自らの意思で、この世界の深淵を覗き込む覚悟を決めた。
その先に、運命的な出会いが待っていることなど、知る由もなかった。