第六話:概念の探求者
水晶蠍が光の粒子となって消えた後、俺はしばらくその場から動けなかった。
荒い息を整えながら、先ほどの戦いを反芻する。
【我が剣は、“主を狙う、避けえぬ毒蛇”となれ】
あの時、俺が定義したのは、剣の硬さでも、鋭さでもなかった。剣の「在り方」そのものだ。
結果、安物の鉄剣は、物理法則を無視して敵の懐に潜り込み、弱点を正確に穿った。
(そうか…。俺の力は、足し算じゃなかったんだ。掛け算でもない。全く新しい数式を、俺自身が創り出す力だったんだ…)
追放されたことで得た、あまりにも大きな気付き。
心の奥底から、これまで感じたことのないような、知的な興奮が湧き上がってくる。
この力をもっと知りたい。もっと試したい。
俺は、いつまでも感傷に浸ってはいられないと、自らを奮い立たせた。まずは、この死地からの脱出が最優先だ。
幸い、水晶蠍を倒したことで、この区画の魔物の気配は薄れていた。俺は壁伝いに、慎重に進路を探り始める。
どれほど歩いただろうか。
俺の目の前に、絶望的な光景が広がった。
巨大なクレバスが、通路を完全に分断している。幅は50メートル以上。対岸は、暗闇の向こうで霞んで見えた。底からは、不気味な風が吹き上げてくるだけで、その深さは計り知れない。
(…終わったな)
一瞬、思考が停止する。
パーティーにいれば、賢者マグヌスが浮遊魔法を使っただろう。だが、俺にそんな大魔法は使えない。
どうする?引き返すか?いや、あの水晶蠍がいた区画をもう一度通るのは危険すぎる。
俺は、必死に頭を働かせた。
自分の力で、この状況を打破する方法は、ないか。
ただ剣を強化するだけでは、道は拓けない。もっと、根本的な解決方法を…。
俺はクレバスの縁に落ちていた、こぶし大の石を拾い上げた。
そして、それに一つの概念を定義してみる。
【この石は、“鳥の羽よりも軽く”】
手に持った石から、ふっと重さが消える。まるで発泡スチロールを持っているかのようだ。
(いける…!)
俺は、腰に巻き付けていた予備の細いロープを、その石に固く結びつけた。そして、野球のピッチャーのように、思い切り腕を振りかぶる。
「――行けッ!」
俺の手から放たれた石は、凄まじい勢いで空を切り、一直線に対岸へと飛んでいく。重さがないため、飛距離が尋常ではなかった。
石は、対岸の天井近くの岩の突起に、ガツン!と音を立てて激突し、その衝撃でうまい具合に引っかかった。
ロープの端は、こちらの岸にある頑丈な岩に、何度も巻き付けて固定する。
これで、一本の橋が架かった。
しかし、ただの細いロープだ。俺の体重を支えきれる保証はない。
そこで、俺はロープそのものにも、定義を与える。
【このロープは、“鋼鉄の鎖に等しく、決して切れない”】
ロープに込めた魔力で、その存在が物理的に補強されていくのを感じる。
俺は、意を決してロープにぶら下がり、腕の力だけを頼りに対岸へと渡り始めた。眼下には、奈落のような闇が広がっている。もし定義が解ければ、真っ逆さまだ。
冷や汗をかきながらも、なんとか対岸にたどり着いた時、俺は確信した。
この力は、戦闘以外でも、あらゆる可能性を秘めている、と。
さらに半日ほど進んだだろうか。
俺は、新たな脅威と遭遇した。
そいつは、まるで人の形をした“影”だった。実体がなく、ゆらゆらと輪郭を揺らめかせている。ダンジョンの闇に溶け込み、視認することさえ難しい。
《影喰らい(シャドウイーター)》。物理的な攻撃が効かない、厄介な魔物だ。
影喰らいは、その鋭い爪を伸ばし、俺に襲いかかってきた。
俺は、咄嗟にショートソードでそれを受け流そうとする。
しかし、俺の剣は、スリッ、と。まるで空を切るように、その影の腕を透過した。
「なっ…!?」
(実体がない…!こいつの概念は【幻影】か、あるいは【非物質】…!)
これまでの戦い方は、通用しない。剣を蛇に変えようが、槍に変えようが、当たらなければ意味がない。
影喰らいの爪が、俺の肩を掠める。防具がない肌に、冷たい痛みが走った。
どうすればいい。
どうすれば、この「当たらない敵」に、攻撃を当てることができる?
――違う。
発想が、まだ、パーティーにいた頃のままだった。
なぜ、「当てる」ことに固執する必要がある?
当たらなくとも、敵を倒す方法はあるはずだ。
俺は、影喰らいから距離を取り、剣を構え直す。
今度は、剣ではない。敵そのものに、直接、概念を定義する。
【――お前は、“光を浴びれば消滅する、ただの影”である】
俺がそう定義した瞬間、手に持った鉄の剣に、自らの魔力を注ぎ込み、新たな概念を与えた。
【この剣は、“小さな太陽”の如く、眩い光を放つ】
次の瞬間、俺の持つショートソードが、まるで本物の太陽のように、洞窟全体を白く焼き尽くすほどの、強烈な光を放った!
「ギィィィィィィッ!!」
影喰らいは、その光に照らされ、まるで闇が朝日に溶かされるように、断末魔の叫びを上げながら、その体を霧散させていった。
「はぁ…はぁ…」
魔力を一気に使ったせいで、激しい疲労感に襲われる。
だが、俺の心は、先ほどの水晶蠍を倒した時以上に、興奮に打ち震えていた。
剣を強化するだけじゃない。
環境を利用するだけでもない。
敵の存在そのものを、俺の都合のいいように、定義し直す。
俺は、自分の力の、本当の恐ろしさと、その深淵を、垣間見た気がした。
俺は、ただの「概念使い」ではない。
俺は、この世界のあらゆる理を支配できる、**「探求者」**なのだ。
その自覚が、俺の足を、さらなるダンジョンの深みへと向かわせた。