第五十二話:救国の英雄
宰相オルダスが光の粒子となって消滅し、闘技場を覆っていた紫色の結界が、ガラスのように砕け散った。
夜明けの光が、破壊された闘技場に、まるで祝福のように、静かに降り注ぐ。
長かった、悪夢のような一夜が、ついに、終わりを告げたのだ。
支配者を失った反乱軍は、蜘蛛の子を散らすように逃亡するか、あるいは、その場で武器を捨てて投降した。混沌の魔物たちも、力の供給源を失い、次々と黒い塵となって消えていく。
「…終わった、のか…」
シルヴァが、レイピアを杖代わりにして、その場にへたり込んだ。彼女の体は、無数の切り傷と、極度の疲労に覆われている。
「うむ…。どうやら、な」
ガウェイン卿も、その巨大な戦斧を床に突き立て、荒い息をついていた。
俺もまた、立っているのがやっとだった。【領域定義】は、俺の魔力と精神力を、その根底から、ごっそりと奪い去っていた。
だが、俺たちの目には、疲労の色以上に、確かな達成感が浮かんでいた。
俺たちは、この絶望的な状況を、乗り越えたのだ。
やがて、貴賓席から、統制の取れた足音が、こちらへと近づいてくる。
現れたのは、鎧を汚し、満身創痍ながらも、その瞳に強い光を宿した、セレスティアとその部下たちだった。
彼女は、俺たち三人の無事な姿を認めると、これまで決して見せたことのない、安堵に満ちた、人間らしい表情で、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死にこらえていた。
「ノア君…!シルヴァ!そして、ガウェイン卿も…!よく、ぞ…!」
その声は、感謝と、安堵と、そして、多くのものを失った悲しみに、震えていた。
その時だった。
セレスティアの後方から、近衛騎士に厳重に護衛された、一人の老人が、ゆっくりと、俺たちの前へと進み出てきた。その威厳に満ちた佇まいは、彼が誰であるかを、雄弁に物語っていた。
アークライト王国の、国王陛下その人だった。
その場の全ての騎士たちが、一斉に、その場に膝をつく。俺も、シルヴァとガウェイン卿に倣い、静かに、片膝を折った。
国王は、まず、この惨状を、深い悲しみの色を浮かべた瞳で、一度、見渡した。
そして、その視線を、俺に、まっすぐに向けた。
彼の声が、増幅魔法によって、静まり返った闘技場の隅々まで、響き渡る。
「顔を上げよ、若き英雄よ」
俺は、促されるままに、顔を上げた。
「そなたの名は、ノア、と聞いた。いかなる身分か、いかなる出自か、今は、問うまい。ただ、事実として、そなたは、この国を、そして、この場にいた、数万の民の命を、救った」
国王は、その言葉を、一言一言、噛みしめるように、続けた。
「その功績は、千の騎士団にも勝る。アークライト王国、国王として、そして、この国の全ての民を代表し、そなたに、心からの感謝を捧げる」
そう言うと、国王は、俺に向かって、その頭を、ゆっくりと、しかし、深く、下げたのだ。
王が、名もなき少年に、頭を下げる。その、ありえない光景に、生き残った全ての者たちが、息を呑んだ。
「そして、その功績にふさわしい、栄誉を与えよう。ノアよ、君を、本日ただ今をもって、**『王国客員一等騎士』及び、『王家の守護者』**の称号をもって遇することを、ここに、宣言する!今後、君の存在を、不当に疑う者は、誰であろうと、王への反逆と見なす!」
その、あまりにも重い言葉。
それは、俺という存在が、この国に、公式に認められた瞬間だった。
追放され、全てを失った俺が、「救国の英雄」と、定義された瞬間だった。
その後、セレスティアが、国王の側近に、今回の事件の首謀者である、オルダスの最期について、報告しているのが、遠目に見えた。
俺の耳に、彼女の、ひそやかな声が届く。
「…陛下。オルダスは、最期に、不気味な言葉を遺しました。『我が主、第一の虚無様』…と」
その名を聞いた瞬間、国王の穏やかだった顔が、さっと、青ざめた。
「…やはり、そうか。古の伝承にあった、世界の『消去者』…。オルダスは、神話の領域にまで、手を伸ばしていたというのか…」
第一の虚無。
世界の、消去者。
俺は、その言葉の意味を、まだ、正確には理解できなかった。
だが、オルダスとの戦いが、終わりではなく、これから始まる、より巨大な戦いの、ほんの序章に過ぎなかったことだけは、確信していた。
俺は、破壊された闘技場の天井から差し込む、夜明けの光を見上げる。
ようやく取り戻したはずの平和が、すでに、次なる脅威の、巨大な影に覆われているのを感じながら。




