第五十話:概念の応酬と、世界の領域
「――今、この場で、決めようではないか!」
変貌を遂げた宰相オルダスが、その言葉と共に、絶対的な混沌のオーラを解き放った。
玉座の間そのものが、彼の歪んだ定義の下に、悲鳴を上げる。床は、まるで黒い水面のように波打ち、壁には、無数の、苦悶に満ちた顔が浮かび上がっては、消えていく。重力は、気まぐれにその強さを変え、立っていることさえ困難だった。
「小僧、嬢ちゃん!気をつけろ!奴の領域だ!」
ガウェイン卿が、大地に根を張るようにして、なんとか、その身の安定を保ちながら叫ぶ。
「ノア、こいつは…!」
シルヴァも、レイピアを構えながら、その顔を警戒に歪めていた。
オルダスは、そんな俺たちを、まるで、弄ぶかのように、指先を向けた。
「まずは、君の『速さ』から、定義を奪おうか、〝銀閃〟」
彼がそうつぶやいた瞬間、シルヴァの周囲の空間が、ねばつくような【停滞】の概念に満たされる。彼女の神速は、再び、その輝きを封じられた。
「次は、君だ、ガウェイン卿。その『不動』は、実に、鬱陶しい」
オルダスの視線が、ガウェイン卿へと向く。
「――その“大地との繋がり”は、“切れやすい、蜘蛛の糸”である」
「ぐ、おおおおっ!?」
ガウェイン卿が、初めて、苦悶の声を上げた。彼の力の源泉である、大地との繋がりそのものが、概念的に、希薄になっていく。
俺は、即座に、二人の仲間を護るため、定義を放つ。
「シルヴァの【神速】を阻む、全ての概念を、消去する!」
「ガウェイン卿の【不動】を、より強固なものへと、再定義する!」
俺の力と、オルダスの力が、激しく衝突し、火花を散らす。
シルヴァは、束縛から解放され、再び、戦線に復帰する。ガウェイン卿も、なんとか、体勢を立て直した。
だが、俺の額には、脂汗が浮かんでいた。
(…まずい。俺の魔力が、削られていく…!)
オルダスは、この闘技場全体に満ちる「混沌の儀式」のエネルギーを、無限に引き出して、力を使っている。対して、俺が使うのは、俺自身の、有限の魔力だ。
このまま、概念の上書き合戦を続けていけば、先に倒れるのは、間違いなく、俺の方だった。
「ハッハッハ!どうした、ノア君!君の『秩序』の光が、翳ってきたぞ!」
オルダスは、俺の消耗を見抜き、さらに、攻撃の手を強める。
彼は、今度は、俺ではなく、俺が庇う、シルヴァとガウェイン卿に、その狙いを定めた。
「君が、それほどまでに護りたい、その“仲間”という、脆く、儚い概念ごと、消し去ってやろう!」
オルダスの両手から、これまでとは比較にならないほど、濃密な、純粋な【混沌】の奔流が、二人めがけて、放たれた。
あれに飲み込まれれば、ただでは済まない。存在そのものが、消し去られるかもしれない。
(…駄目だ。このままでは、間に合わない…!)
俺一人の力で、世界全体を、仲間全員を、定義し続けるには、限界がある。
魔力が尽きる。そして、全てが、終わる。
(――なら)
絶望的な状況の中、俺の頭に、一つの、途方もない考えが、浮かび上がった。
(俺が、世界を定義するんじゃない)
(俺の『世界』に、この空間ごと、引きずり込めばいいんだ!)
それは、まさに、神の領域への挑戦。
だが、仲間たちが、今、目の前で、消されようとしている。
俺に、迷いはなかった。
俺は、血を吐くような思いで、最後の魔力を、振り絞った。
そして、【万象の剣】を、玉座の間の、その床に、深く、突き立てる!
俺は、もはや、個別の事象を定義しない。
この空間、そのものの、支配権を、オルダスから、奪い取る。
「――第二段階定義、起動!」
「我が剣を中心に、“ノアの世界”を展開する!この領域において、我が言葉こそが、絶対の“法則”である!全ての【混沌】を禁じ、全ての【仲間】を、祝福する!」
俺がそう叫んだ瞬間、突き立てた剣を中心に、黄金色の光のドームが、凄まじい勢いで、玉座の間全体を覆い尽くしていった!
オルダスの放っていた、禍々しい紫色の混沌のオーラは、その黄金の光に触れた瞬間、まるで、闇が朝日を浴びたかのように、悲鳴を上げて、消滅していく。
波打っていた床は、安定した大理石に戻り、壁に浮かんでいた苦悶の顔も、全て消え去った。
シルヴァやガウェイン卿の傷も、その光を浴びて、みるみるうちに、癒えていく。
そこは、もはや、オルダスの歪んだ領域ではなかった。
ただ、静かで、清浄で、そして、俺の意志が、隅々まで満ちている、俺だけの、絶対不可侵の**【領域】**。
「ば、馬鹿な…!?」
領域の外側へと弾き出されたオルダスが、初めて、その顔に、焦りと、恐怖の色を浮かべていた。
「空間の理そのものを、局地的に、自分のものへと、定義し直しただと!?小僧、貴様、一体、何者なんだ!」
俺は、自らが創造した、黄金の世界の中で、ゆっくりと立ち上がった。
そして、驚愕に目を見開く、シルヴァとガウェイン卿に、一度だけ、安心させるように、頷いてみせる。
俺は、領域の外で、狼狽する、哀れな偽りの神を見据えた。
そして、この戦いの、本当の始まりを、宣言する。
「ここが、俺の世界だ」
「――そして、俺の世界では、お前は、ただの侵入者に過ぎない」




