第五話:自由の定義、覚醒の一閃
絶対的な静寂。絶対的な暗闇。
その中で、俺はただ一本の安物の鉄剣を握りしめ、己の存在を確かめていた。
追放された絶望は、すでにない。代わりに、心の奥底から湧き上がってくるのは、これまで味わったことのない、純粋な高揚感だった。
(試したい…)
この、誰にも縛られることのない状況で、俺の力――【万物定義】が、どこまで通用するのかを。
その思考を読み取ったかのように、闇の奥から、無機質な音が響いた。
カサ、カサリ。
姿を現したのは、体長2メートルを超える巨大な蠍、《水晶蠍》だった。その名の通り、全身が水晶の甲殻で覆われており、ダンジョンの僅かな光を乱反射させ、その姿を幻惑的に揺らめかせている。
パーティーで交戦した際は、賢者マグヌスの魔法さえもその甲殻で屈折させ、勇者レギウスの聖剣の一撃ですら、決定打を与えるのに苦労した強敵だ。
(…ちょうどいい)
今の俺が、一人でどこまでやれるのか。試すには、これ以上ない相手だった。
水晶蠍が、その巨大なハサミを威嚇するように打ち鳴らし、突進してくる。
俺は、かつての習慣のまま、剣に一つの概念を定義した。
【この剣は、“鋼鉄を断つほど、鋭利”である】
パーティーにいた頃、俺が最も多用していた単純な付与だ。
俺は突進を躱し、蠍の胴体めがけて、渾身の一撃を叩き込む!
ガギィン!という耳障りな金属音と、激しい火花が散った。
俺の剣は、しかし、水晶の甲殻の上を滑り、弾かれただけだった。蠍の体には、傷一つついていない。
「くっ…!」
やはり、これだけでは駄目か。
この甲殻が持つ概念は、単なる【硬質】ではない。光や力を捻じ曲げる【屈折】の特性を持っている。俺が与えた【鋭利】という、あまりにも直進的な概念は、その特性の前では無力だった。
追撃の尾が、猛毒の針を光らせながら、鞭のようにしなって俺に襲いかかる。俺は地面を転がって、辛うじてそれを避けた。
(どうする…?もっと強い概念を定義するか?いや、魔力が持たない…)
焦りが、思考を鈍らせる。
パーティーでの戦いが、いかにレギウスやマグヌスの力に依存していたかを、今更ながらに痛感させられた。
その時だった。
ふと、俺の頭に、追放された時のレギウスの言葉が蘇った。
『お前のその、訳のわからない小細工には、もううんざりだ』
――小細工。
そうだ。俺はずっと、自分の力を、既存の剣や魔法の枠組みに当てはめようとしてきた。剣を、より「剣らしく」するために。それが、間違いだったのだ。
俺の力の本質は、そんなちっぽけなものじゃない。
(真っ向から「破壊」するんじゃない。相手の「定義」の穴を突くんだ…)
目の前で、水晶蠍が再び体勢を整えている。
もう、迷いはなかった。
俺は、深く息を吸い込み、剣を構え直す。今度は、剣そのものを強化するのではない。剣の“在り方”そのものを、新たに定義し直す。
俺は、生まれて初めて、複数の概念を同時に、そして複雑に組み合わせる**【概念調合】**を試みた。
【我が剣は、“主を狙う、避けえぬ毒蛇”となれ】
瞬間、俺の魔力がごっそりと吸い上げられる。だが、それと引き換えに、手に持った安物の鉄剣が、まるで意思を持ったかのように、その姿をぐにゃりと歪ませた。
俺は、ただ、前へ踏み出した。
狙いを定めるまでもない。定義は、すでに終わっている。
俺が剣を振るうと、刃は、物理法則を完全に無視した軌道を描き始めた。それは、まるで生きている大蛇のように、うねり、しなり、水晶蠍が防御のために構えた両腕のハサミを、滑らかにすり抜けていく。
「なっ!?」という驚愕があったのかどうか。蠍に知性はない。
ただ、その防御を無意味化された刃は、寸分の狂いもなく、甲殻と甲殻の僅かな継ぎ目――唯一の弱点である首元に、吸い込まれるように突き刺さった。
――ギシャァァァァァッ!
水晶蠍は、断末魔の絶叫を上げ、その巨体を激しく痙攣させた後、やがて足元からサラサラと崩れ始め、数秒後には、光の粒子となって完全に消滅した。
後に残されたのは、静寂と、荒い息をつく俺だけだった。
俺は、自分の手の中にある、ただの鉄の剣を見下ろす。
今の一撃は、俺がこれまで振るってきた、どの攻撃とも全く異質だった。
(そうか…。俺の力は、物を強くするための“補助”じゃない)
(存在そのものの“意味”を書き換える力なんだ…)
これまで、俺は自分の力を、コップに水を注ぐことしかしてこなかった。だが、本当は、コップそのものの形を、粘土のように自在に変えることができる力だったのだ。
パーティーにいた頃は、決して辿り着けなかったであろう、あまりにも根源的な気付き。
俺は、ダンジョンのさらに奥深く、濃密な闇が広がる方へと視線を向けた。
そこに待ち受けるのは、数多の死の脅威だろう。
だが、今の俺の心には、恐怖はなかった。
自分の力がどこまで通用するのか。この力の果てには、何があるのか。
それを知りたいという、燃えるような探求心だけが、俺を突き動かしていた。
俺の本当の物語は、この絶望の底から、今、始まったのだ。