第四十九話:混沌の化身と、絶望の序曲
「――この世界の終焉を、そして、新たなる無の時代の始まりを、特等席で、見せてやろう」
宰相オルダスが、その言葉を言い終えるのと、彼の体が、人ならざるものへと、完全な変貌を遂げるのは、ほぼ同時だった。
混沌の呪術師から吸収した、膨大な「混沌の概念」。それが、彼の肉体を、そして魂を、内側から作り変えていく。
その姿は、もはや、人間のそれではない。
闇色の、しかし、貴族の礼服のような意匠を残した鎧が、その体を覆い、その背からは、まるで、影でできた翼のような、禍々しいオーラが、立ち上っている。
その瞳は、もはや、人間のそれではない。ただ、純粋な【無】を映す、二つの、底なしの深淵だった。
「戯言を!」
最初に動いたのは、ガウェイン卿だった。
彼は、もはや、この男との対話は無意味だと判断したのだろう。その巨体を、怒りと共に、オルダスへと突進させる。
「貴様の歪んだ理想ごと、我が戦斧で、微塵に砕いてくれるわ!」
その、山をも砕く一撃。
だが、変貌を遂げたオルダスは、動かなかった。ただ、その場に立ち、振り下ろされる戦斧を、無感動に、見つめているだけ。
そして、その薄い唇が、一つの「定義」を紡いだ。
「――その“剛”は、“脆”である」
瞬間。
ガウェイン卿の戦斧に宿っていた、絶対的な【剛健】の概念が、まるで、砂糖菓子のように、たやすく砕け散った。
戦斧は、オルダスに届く寸前で、その勢いを失い、ガウェイン卿自身が、信じられない、という顔で、自らの武器を見つめている。
「なっ…!?」
その隙を、逃すはずがない。
「チェストォォッ!」
銀色の閃光が、ガウェインの横をすり抜け、オルダスの死角へと回り込む。シルヴァの神速の剣だ。
だが、オルダスは、振り返りもしない。
「――その“速”は、“静”である」
シルヴァの体が、まるで、琥珀の中に閉じ込められた虫のように、空中で、ぴたり、と、その動きを止めた。
彼女の最大の武器である【神速】の概念が、より上位の【静止】の概念によって、完全に、その意味を奪われたのだ。
「シルヴァ!」
俺が叫ぶ。
オルダスは、動きを止めたシルヴァに、ゆっくりと、その指先を向けた。その指先には、全てのものを「無」に還すであろう、混沌のエネルギーが、収束していく。
(――させるか!)
俺は、地を蹴った。
そして、オルダスが指先から、破滅の光を放つ、その直前。
俺は、彼の前に、立ちはだかっていた。
俺は、【万象の剣】に、一つの、絶対的な守りの概念を与える。
「――この剣は、“揺るぎなき、希望の理”」
オルダスが放った、混沌の槍。
俺が構えた、秩序の剣。
二つの、相反する、絶対的な概念が、この玉座の間で、激突した。
――世界から、再び、音が消えた。
爆発も、衝撃も、何も起こらない。
ただ、俺とオルダスの間で、空間そのものが、まるで、黒と白の絵の具を混ぜ合わせたかのように、ぐちゃぐちゃに、その定義を書き換え合い、そして、互いを打ち消し合っていた。
やがて、その光と闇の渦が、晴れた時。
俺は、その場に立っていた。シルヴァも、ガウェインも、無事だ。
オルダスもまた、その場に、平然と立っていた。
だが、その顔には、初めて、人間らしい感情が浮かんでいた。
それは、狂信的な笑みではない。
自らと、同質の力を持つ存在を、ようやく、見つけ出したことに対する、純粋な「歓喜」の表情だった。
「素晴らしい…!ああ、素晴らしいぞ、ノア君!」
彼は、まるで、愛しい恋人を見るかのような、恍惚とした目で、俺を見つめる。
「それだ!それこそが、我が主を、この地に、完全に呼び覚ますための、最高の響き!」
彼の言葉に、俺は、戦慄した。
こいつは、俺と戦うことで、俺に、より強大な力を使わせることで、この空間の「混沌」の濃度を、さらに高めようとしているのだ。
俺が、仲間を守るために、振るう力そのものが、結果として、敵の思う壺になっている。
オルダスは、その両腕を広げ、まるで、舞台役者のように、高らかに、宣言した。
「さあ、もっと、もっと奏でるがいい、ノア君!君の『秩序』と、我が『混沌』、どちらが、この世界を定義するに、よりふさわしいか!」
「――今、この場で、決めようではないか!」
その言葉を合図に、彼の体から、先ほどとは比較にならないほどの、絶望的なまでの混沌のオーラが、溢れ出した。
玉座の間全体が、彼の歪んだ定義の下に、その理を、作り変えられていく。
本当の戦いが、今、始まる。
この、閉ざされた鳥籠の中で、世界の運命を賭けた、たった二人の、概念戦争が。




