第四十三話:秩序の定義と、反撃の狼煙
矛盾の化身が、光の粒子となって消滅する。
闘技場の中央に、束の間の静寂が訪れた。俺とガウェイン卿は、互いに肩で息をしながら、この局地的な勝利を、しかし、無言のまま分かち合った。
だが、一息つく暇など、ありはしなかった。
俺たちの耳に、闘技場のあちこちから、絶え間ない悲鳴と、剣戟の音が、再び届いてくる。
俺たちが一体の強敵と戦っている間にも、戦況は、刻一刻と、絶望的な方向へと進んでいたのだ。
俺は、闘技場全体を見渡す。
貴賓席では、セレスティアが率いる数名の近衛騎士たちが、王と王族を護りながら、反乱軍の猛攻に、じりじりと防衛線を後退させている。
観客席では、シルヴァが、他の健在な試合出場者たちをまとめ上げ、一般市民を庇いながら、溢れ出してくる「名もなき混沌」の魔物たちと、必死の攻防を繰り広げていた。
誰もが、満身創痍だった。この闘技場全体を覆う、【混沌】の概念が、彼らの体力と気力、そして、世界の理そのものを、じわじわと蝕んでいるのだ。
「…小僧、感傷に浸っている暇はないぞ!」
隣で、ガウェイン卿が、雷鳴のような声で叫んだ。
彼は、その巨大な戦斧を、天に掲げる。
「怯むなァ!王国の兵士たちよ!敵将が一体は、我らが、今、討ち取った!反撃の時は、今ぞ!」
その声は、魔法的な効果などなくとも、絶望に沈む騎士たちの心を、奮い立たせる力があった。各地で孤立していた騎士たちが、その声を頼りに、再び、剣を握り直す。
ガウェインは、本物の将軍だった。
(そうだ。俺も、俺のやるべきことをやる)
ガウェインが、物理的な戦場の「指揮官」なら、俺は、この歪んでしまった世界の「法則」を正す、指揮官にならなくてはならない。
俺は、闘技場の中央、先ほどまで矛盾の化身がいた場所へと、再び歩を進めた。ここが、混沌の力が最も強く、そして、最も不安定な、この空間のヘソだ。
俺は、両腕を広げ、目を閉じる。そして、自らの意識を、この闘技場全体へと、拡張させていった。
感じるのは、無数の【恐怖】と【絶望】。そして、それらを覆い尽くす、オルダスが仕掛けた【混沌】の定義。
(…上等じゃないか)
(あんたが、この場所を『混沌の揺り籠』と定義したのなら)
(俺は、その定義を、さらに、根源から、覆してやる)
俺は、自らの持つ、ありったけの魔力と、精神力を、たった一つの、巨大な定義の創造に、注ぎ込んだ。
「――定義を開始する!」
俺の声が、闘技場全体に、不思議なほど、クリアに響き渡る。
「この闘技場は、国王陛下の威光の下にある、絶対不可侵の“聖域”である!ここに満ちる全ての【混沌】を否定し、王に仇なす全ての【敵意】を浄化し、そして、王に忠誠を誓う全ての者に、【祝福】と【秩序】の概念を与える!」
俺がそう宣言した瞬間、俺の体から、黄金色の光の波紋が、同心円状に、闘技場の隅々まで、一気に広がっていった!
その光に触れた、異形の魔物たちは、まるで聖水に触れたアンデッドのように、その体を、苦悶と共に、じゅっと、焼かれていく。その動きは、明らかに鈍り、その力は、弱まっていた。
反乱軍の騎士たちが放つ【殺意】の概念は、光に打ち消され、その剣筋は、目に見えて、鈍くなった。
逆に、セレスティアやシルヴァ、そして、全ての王国騎士たちの体は、その光を浴びて、力がみなぎっていくのを、確かに感じていた。
消耗した魔力が、回復する。疲労した体に、活力が戻る。絶望に沈んだ心に、【勇気】という名の、新たな火が灯る。
「…これは…!」
セレスティアが、驚愕の顔で、俺を見つめる。
「…あいつ、戦場全体の『ルール』を、まるごと、こっちに有利なように、書き換えやがった…!」
シルヴァが、信じられない、という顔で、笑っていた。
戦況は、この一瞬で、完全に、覆った。
形勢が逆転した王国騎士団は、勢いづき、反乱軍を、圧倒し始める。
貴賓席の最上段で、その光景を見ていた宰相オルダスの顔から、ついに、余裕の笑みが消えた。
「…小僧…!また貴様か!我が仕掛けた『混沌の儀式』に、正面から干渉するとは…!だが、結界は破れておらん!お前たちに、逃げ場はない!」
オルダスの言う通りだった。最大の脅威は、まだ、残っている。
俺たちの頭上を覆う、あの巨大な、紫色の絶望のドーム。
あれを破壊しない限り、この凶宴は、終わらない。
俺は、天を覆う、その巨大な結界を見上げる。
その構造は、無数の【拒絶】と【隔離】の概念が、複雑に編み上げられてできた、巨大な檻だ。
俺の隣に、戦斧を担いだガウェイン卿が、並び立つ。
「ノア、と言ったか。…あの、忌々しい蓋は、破れるか?」
その問いに、俺は、静かに【万象の剣】を構え直した。
「…やってみるしかない」




