第四十話:矛盾の化身と、二人の絶望
宰相オルダスが指を鳴らした瞬間、俺とガウェイン卿の目の前の空間が、まるで黒いインクを水に落としたかのように、どろり、と歪んだ。
その歪みの中心から、ゆっくりと、しかし、確実に、「何か」が染み出してくる。
それは、これまでの「名もなき混沌」とは、明らかに次元が違った。
定まった形がない。ある瞬間には、闇よりも暗い、漆黒の巨人のように見えたかと思えば、次の瞬間には、無数の、嘆き叫ぶ顔が浮かび上がる、不定形の塊へと姿を変える。
その存在から放たれる概念は、あまりにも、矛盾に満ちていた。
【音のない絶叫】【熱のない炎】【重さのない質量】
ありとあらゆる、相反する定義が、その身一つの中で、不気味にせめぎ合っている。
こいつは、ただの魔物ではない。混沌そのものが、この世に現れたかのような、**《矛盾の化身》**だった。
「ハッハッハ!どうだね、ノア君、ガウェイン卿!それこそが、我が主『第一の虚無』様の、偉大なる力の一端だ!さあ、新たなる世界の洗礼を受けるがいい!」
オルダスが、貴賓席から、狂ったように高笑いしている。
「…小僧、来るぞ!」
ガウェイン卿が、その巨体を俺の前に出すようにして、戦斧を構える。
矛盾の化身は、その不定形の体から、一本の、黒い槍のようなものを伸ばし、凄まじい速度で、ガウェイン卿へと突き出してきた。
ガウェイン卿は、その一撃を、自慢の戦斧で、正面から受け止める。
だが、響き渡ったのは、金属音ではなかった。
――ジュッ、という、まるで、焼けた鉄を水に浸したかのような、嫌な音だった。
「なっ…!?」
ガウェイン卿が、驚愕の声を上げる。
彼が持つ、伝説の金属で作られたはずの戦斧。その刃が、矛盾の化身の一撃に触れた部分から、まるで、強酸にでも侵されたかのように、ドロドロに溶けていたのだ!
「我の斧の、【不壊】の概念が、消された…だと…!?」
「ただの物理攻撃ではない!気をつけろ、小僧!」
ガウェイン卿が叫ぶのと、矛盾の化身が、次の攻撃を俺に向けてくるのは、ほぼ同時だった。
俺は、即座に、自らの剣に定義を与える。
【この刃に触れた混沌は、その存在定義を“消去”される】
ダンジョンで、混沌の魔物を一掃した、必勝の定義。
俺は、その剣で、迫りくる黒い触手のようなものを、迎え撃った。
しかし。
俺の【万象の剣】が、黒い触手に触れた瞬間、刃に宿らせたはずの【消去】の概念が、まるで、砂が水を吸うように、スッと、敵の体に吸い込まれ、消えてしまったのだ。
「俺の…定義を、喰った…!?」
初めての現象だった。俺の絶対であるはずの「定義」が、通用しない。
こいつは、俺たちが与える概念そのものを、自らの餌として、取り込んでしまうのだ。
防御の概念は【崩壊】させられ、攻撃の概念は【捕食】される。
あまりにも、相性が、悪すぎた。
矛盾の化身は、俺たちが動揺している隙を逃さない。
次々と、その黒い触手を伸ばし、俺とガウェイン卿を、まるで、弄ぶかのように、攻撃してくる。
俺たちは、その攻撃を、避けることしかできない。
ガウェイン卿の足元は、混沌の力で、常に、沼や、ガラスや、あるいは虚無へと、その定義を書き換えられ続け、彼の【不動】の力は、もはや、自分の体を支えるだけで、精一杯だった。
「くそっ…!これでは、ジリ貧だ…!」
ガウェイン卿が、悔しそうに呻く。
俺も、歯を食いしばる。このままでは、俺たちの魔力と体力が尽きるのが先だ。
どうすればいい。
攻撃は、喰われる。防御は、崩される。
俺の力も、ガウェイン卿の力も、この敵の前では、無意味。
じわじわと、しかし、確実に、俺たちの心に、【絶望】の概念が、染み込んできた。
(…いや、まだだ)
(まだ、手はあるはずだ)
俺は、必死に、思考を巡らせる。
こいつは、俺たちが「与えた」概念を喰らう。
なら、与えなければいい?いや、それでは、攻撃ができない。
(違う。発想を、変えろ)
(俺が、何かを「与える」んじゃない。俺が、相手の力を、「奪う」んだ)
(いや、違うな。「借りる」んだ)
一つの、あまりにも、突拍子もない、しかし、唯一の可能性。
俺は、巨大な触手を避けながら、俺の背後で、必死に大地を踏みしめている、巨漢の騎士に向かって、叫んだ。
「――ガウェイン卿!あんたの【不動】の力を、一瞬だけ、俺に貸せ!」
「なっ…!?小僧、何を言っておる!力を貸すとは、どういうことだ!?」
ガウェイン卿が、困惑の声を上げる。
俺は、そんな彼に向かって、不敵に、そして、懇願するように、叫び返した。
「いいから!俺を信じろ!」




