第三十八話:開かれた凶宴と、混沌の定義
ゴゴゴゴゴゴゴゴ…!
闘技場全体を覆う、不気味な紫色の結界。
完全に外部から隔離され、巨大な鳥籠と化した王国大闘技場で、数万人の観衆は、ただパニックに陥り、悲鳴を上げながら、出口のない壁へと殺到していた。
「開けろ!ここから出してくれ!」
「いやぁぁぁ!助けて!」
阿鼻叫喚の地獄絵図。
試合の熱狂など、一瞬で吹き飛んでいた。
俺と、対戦相手であったはずのガウェイン卿も、互いに剣を構えたまま、この異常事態を、ただ呆然と見つめるしかなかった。
その時だった。
貴賓席の最上段、国王陛下のすぐ近くにいた、一人の男が、ゆっくりと立ち上がった。
王国の宰相、オルダス。その穏やかだったはずの貌には、今は、恍惚とした、狂信者の笑みが浮かんでいた。
彼は、増幅の魔法を使い、その声を、闘技場の全ての者に、響き渡らせた。
「――静粛に。我が同胞、そして、新たなる世界の贄たちよ」
その声に、パニックに陥っていた人々も、一瞬だけ、動きを止める。
「驚くことはない。これは、必然だ。古く、淀みきった、偽りの秩序に支配されたこの世界を、本来あるべき、美しき【無】の姿へと還すための、これは、聖なる儀式なのだから」
貴賓席にいた、セレスティアが、怒りに震える声で叫ぶ。
「オルダス宰相!貴様、正気か!これは、王国に対する、明確な反逆行為であるぞ!」
「ハッハッハ!正気か、だと?セレスティア団長、君こそ、目を覚ますべきだ。定義され、名前を与えられ、役割に縛られることこそが、狂気なのだよ」
オルダスは、両腕を広げ、陶酔したように続けた。
「この御前試合は、その狂った世界を解放するための、壮大な儀式だったのだ!強者たちの闘志、観衆の熱狂、そして、今、この場で衝突した、二つの強大なる概念!その全てが、この闘技場の下に眠る、偉大なる『混沌の祭壇』を起動させるための、極上のエネルギーだったのだ!」
彼の言葉を裏付けるかのように、闘技場の石畳が、まるで生き物のように、その姿を変え始めた。
壁の一部が、ずるり、と液体のように溶け出し、床の石畳が、昆虫のような甲殻へと変質していく。
世界の「定義」そのものが、不安定になり、悲鳴を上げているのだ。
「さあ、始めよう!新たなる世界の創造を!」
オルダスの号令と共に、彼に同調したバルト副長をはじめとする、反乱軍の騎士たちが、一斉に、国王陛下と、セレスティアの部下たちへと、その刃を向けた。
そして、闘技場のあちこちで、空間そのものが裂け、そこから、異形なる「名もなき混沌」の魔物たちが、次々と溢れ出してくる。
もはや、ここは、栄光を競う闘技場ではない。
ただ、弱者から順に喰われていく、巨大な捕食空間へと、その定義を書き換えられてしまったのだ。
「くっ…!」
ガウェイン卿が、その巨体を揺らがせる。
彼の【不動】の概念の源である、大地そのものが、その定義を失いかけているのだ。彼の力も、万全には程遠い。
俺は、自分の周囲の世界を、改めて「視る」。
【恐怖】【絶望】【狂乱】【崩壊】
ありとあらゆる負の概念が、嵐のように吹き荒れている。
そして、その全てが、俺たちを飲み込もうとしていた。
シルヴァは、選手待合室で、他の選手たちをまとめ、一般の観客を守るための防衛線を、必死に築いているようだった。
セレスティアは、貴賓席で、数少ない味方の騎士たちを指揮し、王を護りながら、反乱軍と対峙している。
誰もが、絶望的な状況で、自らの役割を、必死に果たそうとしていた。
なら、俺の役割は?
この、世界の理が崩壊しかけている、地獄の中心で、俺にしかできないことは、なんだ?
答えは、一つしかない。
俺の隣で、ガウェイン卿が、その巨大な戦斧を構え直した。その瞳には、もはや俺への敵意はなく、共通の敵に対する、静かな怒りが燃えていた。
「…小僧。どうやら、我々の勝負は、しばらく、お預けのようだな」
俺は、彼の言葉に、静かに頷きを返す。
そして、【万象の剣】を、強く、握りしめた。
「ああ」
俺は、目の前で、無垢な観客に襲いかかろうとしている、「名もなき混沌」の群れを見据える。
「――ここからは、ただの“生存”を定義する時間だ」




