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第三十五話:残響と、新たな一手

「――勝者、ノアーーーッ!!」


審判長の声が、一拍の静寂の後、爆発的な大歓声によってかき消された。

一回戦の時とは、明らかに違う。観客たちの声援に混じっているのは、熱狂だけではない。人間の理解を超えた現象を目の当たりにしたことによる、畏怖と、そして、ほんの少しの恐怖だった。

一人の少年が、幻術の女王の「心」を、完全に支配してみせたのだ。その事実は、剛腕の騎士を打ち破るよりも、よほど衝撃的だった。


俺は、その場にへたり込んでいるリリスに一瞥もくれることなく、静かに闘技場の舞台を後にした。

彼女が放った悪夢トラウマは、もう、俺の心に何の傷も残してはいない。ただ、過去は過去として、そこにあるだけだ。俺は、もう、その過去に囚われることはない。


選手待合室に戻ると、そこは、水を打ったような静けさに包まれていた。

先ほどまで、俺を嘲笑し、遠巻きに眺めていた騎士や冒険者たちが、今度は、まるで石化したかのように、俺が通る道を開けていく。その視線は、もはや、俺を人間として見てはいなかった。


俺が、壁際に立つシルヴァの元へ戻ると、彼女は、これまで見せたことのない、複雑な表情で俺を見ていた。


「…おい、ノア」

彼女の声は、わずかに、震えていた。

「今のは、一体、何をしたんだ…?お前、本当に…人間か?」

その問いは、彼女が抱いた、偽らざる感想なのだろう。

俺は、そんな彼女に、ただ、静かに首を横に振った。


「…さあな。俺にも、よく分からないんだ」


その言葉に、嘘はなかった。俺は、ただ、自分にできることを、やっただけだ。この力が、神のものか、悪魔のものか、あるいは、全く別の何かなのか。その答えは、まだ、俺自身も見つけられていない。

俺のその答えを聞いたシルヴァは、何かを諦めたように、ふっと、息を吐いた。


***


その日の全ての試合が終わり、俺たちは、セレスティアが待つ、騎士団本部の執務室へと戻っていた。

部屋に入るなり、セレスティアは、満面の笑みで俺たちを出迎えた。


「見事だったぞ、ノア君!シルヴァ!君たちの活躍のおかげで、私の計画は、第一段階を、完璧な形で終えることができた!」

彼女は、興奮した様子で、一枚の報告書を机の上に広げた。

「リリスが敗北した直後から、彼女の後ろ盾であった貴族派閥に、不穏な動きが見られる。そして、面白いことに、一回戦でゲルハルトが負けた後、彼を推していた武官派閥もまた、同じように慌ただしく動き出している」


セレスティアの瞳が、策士のそれへと変わる。

「そして、我々の諜報部が掴んだ情報だ。両派閥の金の流れを追ったところ、ある一人の人物にたどり着いた。…王国の宰相、オルダス卿だ」

「やはり、あの男が黒幕か…」

シルヴァが、苦々しげにつぶやく。


「だが、問題はそこからだ」

セレスティアは、さらに、深刻な顔で続けた。

「リリスが使った幻術の魔力残滓と、先日我々を襲った暗殺者たちの剣に付着していた【混沌】の概念。その二つを解析した結果、ごく微弱ながら、完全に一致する『概念の周波数』が検出された」


その言葉に、俺とシルヴァは、息を呑んだ。

「…どういうことですか、団長?」

「つまり、こういうことだ」


セレスティアは、俺たちの顔を、順番に見据える。


「王都の腐敗した貴族たちによる、単なる政治的な陰謀。そして、世界そのものを蝕む、正体不明の『名もなき混沌』。我々が追っていたこの二つの事件は、全くの別物ではなかった」

「――それは、同じ一つの敵が持つ、二つの顔だったのだ」


その事実は、俺たちが対峙している問題が、想像を遥かに超えるほど、根深く、そして、巨大であることを、示していた。

政治の腐敗と、世界の危機。その両方を、俺たちは、同時に相手にしなくてはならない。


セレスてぃアは、重い沈黙を破るように、壁に掛けられた、トーナメントの対戦表を指さした。

俺の名前は、準々決勝の枠へと進んでいる。

そして、その隣には、次の対戦相手の名前が、記されていた。


“不動”のガウェイン。

北の護国騎士団長にして、王国最強の物理防御を誇る、生ける要塞。


セレスティアが、俺に向かって言った。

「ノア君。リリスは、『心』を試す相手だった。だが、次のガウェイン卿は、違う」

「彼は、小細工が一切通じない。その存在そのものが、【動かざること、山の如し】という、絶対的な概念の塊だ。君の、あのゲルハルト戦で見せたような、力の吸収や、いなしといった技は、おそらく、彼には通用しないだろう」


幻術を破り、心を支配した俺の力。

だが、その力は、ただ、そこに「在る」という、あまりにも純粋で、絶対的な概念を前にして、果たして、通用するのだろうか。


俺は、トーナメント表に描かれた、山のような巨漢の似顔絵を、静かに見つめていた。

次の戦いは、これまでで、最も、困難なものになる。

俺の心臓が、強い相手と戦う前の、心地よい緊張感で、高鳴り始めていた。

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