第三十四話:悪夢の定義と、真実の瞳
「――さあ、始めましょうか、概念使いの坊や。貴方には、どんな素敵な悪夢を見せてあげようかしら?」
リリスの蠱惑的な声が、直接、俺の脳内に響き渡った、その瞬間。
俺の目の前の世界は、まるで水彩絵の具が水に溶けるように、その輪郭を失っていった。
闘技場の熱狂も、セレスティアたちの姿も、全てが消える。
そして、次に俺が立っていたのは、見覚えのある、薄暗いダンジョンの通路だった。
目の前には、かつて俺が所属していたパーティー「聖なる銀槍」の仲間たちが、冷たい目をして、俺を見下ろしている。
「ノア。なぜ、お前のような役立たずが、まだ生きている?」
その声の主は、勇者レギウス。
彼の言葉は、俺の心の一番柔らかい部分を、容赦なく抉ってくる。
隣では、賢者マグヌスが、嘲笑を浮かべていた。
「君のその根拠のない“感覚”は、我々を何度も窮地に陥れた。君は、疫病神だ」
神官のレナは、悲しそうな顔で、目を逸らすだけ。その沈黙が、何よりも雄弁に、俺を拒絶していた。
(…なるほど。これが、〝幻惑の妖狐〟の力か)
俺は、内心で冷静に分析する。
これは、ただの幻ではない。俺の記憶の深層にアクセスし、最も見たくない光景、最も聞きたくない言葉を、寸分違わぬ現実として、俺の五感に投影しているのだ。
精神的なダメージを与え、戦意を喪失させる、極めて悪質な攻撃。
「どうした、ノア。何も言い返せないのか?」
幻影のレギウスが、さらに、俺を追い詰める。
「お前は、いつだってそうだ。役立たずのくせに、文句だけは一人前で、いざとなれば、何もできない。お前は、俺たちのパーティーの、唯一の“汚点”だったんだ!」
その言葉に、俺の胸が、ちくり、と痛んだ。
追放されたあの日の、無力感と、屈辱が、鮮やかに蘇る。
リリスは、きっと、俺がこの精神攻撃に耐えきれず、心を折るのを待っているのだろう。
観客席から見れば、俺は、ただ、その場で立ち尽くし、苦悶の表情を浮かべているようにしか見えないはずだ。
隣の待合室では、シルヴァが「何をやっている、あいつは!動け!」と、苛立たしげに叫んでいるかもしれない。
セレスティアは、「彼を信じるしかない」と、祈るように、俺を見つめているかもしれない。
俺は、ゆっくりと、目を閉じた。
そして、自分の心に、問いかける。
俺は、本当に、この言葉に、まだ傷ついているのか?
(…違うな)
俺は、確信と共に、その答えに辿り着く。
痛いのは、事実だ。だが、それは、古い傷跡をなぞられたような、感傷的な痛みに過ぎない。
今の俺は、もう、彼らに「役立たず」と蔑まれた、あの頃の俺じゃない。
俺は、リリスの創り出した、この悪夢の世界で、静かに宣言した。
「――あんたは、一つ、大きな間違いを犯したな、リリス」
俺のその言葉に、幻影のレギウスたちの表情が、一瞬、揺らいだ。
「お前たちがいるのは、俺の“過去”だ。そして、その過去は、俺が、俺自身の力で、すでに乗り越えたものだ。お前たちは、もう、俺の世界の住人じゃない」
「俺の“今”には、何の影響も与えられない、ただの**【思い出】**に過ぎない」
俺は、閉じていた目を、ゆっくりと開く。
そして、俺は、俺自身の「認識」に、絶対的な定義を与えた。
「――我が瞳に、“偽り”は映らない。俺が視るは、ただ、世界の“真実”のみ」
その瞬間、世界が、砕け散った。
レギウスたちの姿が、まるでガラスのように、甲高い音を立てて砕け、光の粒子となって消えていく。ダンジョンの光景も、同じように霧散していく。
そして、俺の目の前に、再び、王国大闘技場の、広大な光景が戻ってきた。
だが、その光景は、先ほどとは、全く違って見えていた。
観客たちの熱狂も、建物の構造も、その全てが、無数の、色とりどりの「概念の糸」が編み上げられてできた、巨大なタペストリーのように視える。
そして、その中で、一本だけ、ひときわ異質で、禍々しい糸が、俺に向かって伸びていた。幻術の糸だ。
その糸の先、闘技場の隅の影。そこに、リリスの「本当の」姿があった。彼女は、俺が幻術を破ったことに気づき、驚愕の表情を浮かべている。
「馬鹿な!?私の『深層心理幻術』を、自力で破っただと!?」
俺は、そんな彼女に向かって、静かに【万象の剣】を構えた。
もう、彼女がどこに隠れようと、意味はない。俺の「真実の瞳」からは、決して逃れられない。
俺は、彼女がいるはずの、何もない空間に向かって、剣の切っ先を突きつける。
そして、俺の「攻撃」そのものを、定義した。
【この一撃は、“対象の回避を許さず、その心臓に、必ず届く”】
俺は、ただ、静かに、目の前の空間を、軽く突いただけだった。
しかし、それと全く同じタイミングで、闘技場の端で息を潜めていたリリスの、その喉元、一ミリ手前の空間が、まるで水面のように揺らめき、そこから、俺の剣の切っ先と、全く同じものが、ぬらり、と現れたのだ。
「――っ!?」
リリスは、金切り声さえ上げられなかった。
その喉元に突きつけられた、ありえない切っ先から伝わってくる、絶対的な【敗北】の概念に、彼女の体は、完全に、金縛りにあったように硬直していた。
俺は、剣をゆっくりと下ろす。幻の切っさきも、それに合わせて消えた。
闘技場に響き渡る、俺の、静かな声。
「俺の勝ちだ。降参しろ」
リリスは、その場に、へなへなと座り込むと、震える声で、答えた。
「…こ、降参…します…」
審判長が、一拍遅れて、我に返り、宣言する。
「しょ、勝者、ノアーーーッ!!」
一回戦の時とは、また質の違う、畏怖と、混乱と、そして、熱狂の入り混じった、凄まじい歓声が、闘技場を揺るがした。
俺は、ただ、静かに、その歓声を聞いていた。
過去という名の亡霊を、俺は、今、この舞台で、完全に葬り去ったのだ。




