第三十一話:剛力と、万象の初陣
「――始めッ!」
審判長の、朗々とした声が、王国大闘技場に響き渡る。
それと同時に、俺の目の前に立つ、熊のような巨漢――サー・ゲルハルトが、その口を、下卑た笑みに歪ませた。
「小僧、母親の乳が恋しくなる前に、降参するなら今のうちだぞ!俺様の戦斧の、錆にしてくれるわ!」
ウォーッ!と、観客席の一部、おそらくはバルト副長の派閥の者たちから、野太い声援が上がる。
ゲルハルトは、その声援に、筋肉の塊のような腕を突き上げて応えると、その巨体に似合わぬ、凄まじい速度で、俺に向かって突進してきた。
彼が持つ、人の背丈ほどもある巨大な戦斧が、風を切り裂き、唸りを上げる。
俺の目には、その戦斧に宿る、あまりにも単純で、そして、純粋な概念が視えていた。
【重い】【硬い】【叩き潰す】
ただ、それだけ。だが、その一つ一つの概念が、彼の異常なまでの腕力によって、極限まで高められている。小細工など、一切ない。ただ、圧倒的な質量と破壊力で、全てを粉砕する。それが、彼の戦い方だった。
(…なるほどな。確かに、まともに打ち合えば、一撃で終わりだ)
俺は、振り下ろされる戦斧の、凄まじい風圧を肌で感じながら、ひらり、と、その攻撃範囲から飛び退いた。
ドゴォォン!という轟音と共に、俺が先ほどまで立っていた石の舞台が、まるで爆撃でも受けたかのように、粉々に砕け散る。
観客席から、どよめきと、そして、嘲笑が起きた。
「なんだ、逃げることしかできんのか!」
「当たり前だ!あんなガキが、ゲルハルト様の剛斧を受けられるわけがなかろう!」
ゲルハルトは、その声援に、さらに気を良くしたように、何度も、何度も、その破壊の化身のような戦斧を、俺めがけて振り下ろしてくる。
俺は、ただ、その猛攻を、紙一重で避け続ける。
傍から見れば、それは、巨大な熊に追い回され、ただ必死に逃げ惑う、哀れな小動物にしか見えなかっただろう。
「どうした小僧ォ!それだけか!自慢の奇術とやらは、どうしたんだ!」
ゲルハルトが、勝利を確信したかのように、嘲笑を浮かべる。
セレスティアがいるであろう、貴賓席の方をちらりと見ると、彼女は、静かに、しかし、固唾をのんで、戦況を見守っていた。シルヴァは、きっと、待合室で、歯がゆい思いをしていることだろう。
(…もう、いいか)
俺は、避けるのをやめた。
これ以上、逃げ回っていても、何も始まらない。
俺は、自らの新しい相棒――【万象の剣】に、その真価を発揮させる時が来たと、判断した。
再び、俺に向かって突進してくるゲルハルト。
今度は、俺は、退かなかった。それどころか、自ら、その破壊の斧へと、歩み寄っていく。
「死にたいか、小僧!」
脳天めがけて振り下ろされる、必殺の一撃。
俺は、その一撃を、鞘から抜いたばかりの、何の変哲もない「名もなき剣」で、正面から、受け止めた。
観客席の誰もが、俺の剣が、いや、俺の腕ごと、木っ端みじんに砕け散る光景を、予想しただろう。
だが、闘技場に響き渡ったのは、想像されていた轟音ではなかった。
――キィン、と。
まるで、澄んだ音叉を叩いたかのような、静かで、そして、美しい金属音。
次の瞬間、信じられない光景が、全ての観客の目の前で、繰り広げられた。
俺の剣は、折れていなかった。
それどころか、俺の体は、一歩たりとも、後ろに下がっていない。
ゲルハルトが放った、城門さえも砕くはずの一撃。その凄まじい運動エネルギーの全てが、まるで、俺の持つ、その細い剣身の中に、すぅっと、吸い込まれて消えてしまったのだ。
「…な…に…?」
ゲルハルトが、その生涯で、初めて、理解不能な現象に遭遇し、呆然と、その動きを止める。
自らの渾身の一撃が、何の抵抗もなく、虚空に消えた。その事実に、彼の脳の処理が、完全に追いついていない。
その、巨大な隙。
俺は、その無防備な巨漢を見据え、剣に吸収した、莫大なエネルギーの概念を、そのまま、彼へと送り返す。
俺は、ただ、一つの概念を定義した。
【――“返還”する】
俺の剣が、眩い光を放つ。
そして、先ほどゲルハルトが放ったものと、全く同じ威力、同じ質量の衝撃波が、今度は、俺の剣から、ゲルハルトめがけて、放たれたのだ!
「ぐぉっ!?」
あまりにも至近距離で、自らの全力の一撃をカウンターとして叩きつけられたゲルハルトは、なすすべもなく、その巨体を、まるで木の葉のように、宙に舞い上がらせた。そして、闘技場の端の壁に激突し、凄まじい音を立てて、ようやくその動きを止めた。
手から滑り落ちた戦斧が、ガラン、と、虚しい音を立てる。
闘技場は、水を打ったように、静まり返っていた。
何が起きたのか、誰も理解できていない。
俺は、煙を上げる剣の切っ先を、ゆっくりと、倒れているゲルハルトの喉元へと突きつけた。
「…降参、するか?」
その言葉を合図にするかのように、審判長が、我に返って、震える声で叫んだ。
「しょ、勝者、ノアーーーッ!!」
瞬間、一拍の静寂の後、闘技場は、これまでの嘲笑が嘘のような、地鳴りのような、大歓声に包まれた。
貴賓席で、セレスティアが、満足げに、そして、優雅に、微笑んでいるのが、遠目にも見えた。
俺の、王都での初陣は、こうして、最高の形で、幕を開けた。




