第二十五話:生命の再定義
「俺が、この土地に、新しい“名前”を与える」
俺の静かな、しかし、絶対的な確信に満ちた言葉に、村長は、ただ、震える唇で何かを言おうとして、言葉にならない、といった様子だった。
隣に立つシルヴァは、その緋色の瞳を疑念と好奇心で細め、俺に問いかける。
「…正気か、ノア。お前、自分が何を言っているか分かっているのか?この広大な畑、いや、村全体の土地を、まるごとどうにかするつもりか?そんなこと、神でもなければ不可能だ」
「可能か不可能かじゃない。やるんだ」
俺は、それだけ言うと、彼女に背を向け、再び、荒れ果てた畑の中心へと歩き出した。
村人たちが、遠巻きに、固唾をのんで俺を見守っている。その視線には、もう諦めだけではなく、ほんのわずかな、ありえない奇跡を願う、祈りのようなものが混じり始めていた。
俺は、畑の中心で、静かに膝をついた。
そして、乾いてひび割れた大地に、そっと右の手のひらを置く。
目を閉じ、意識を集中させる。俺の感覚は、大地と一体化し、この土地を蝕む【混沌】の核と、【拒絶】の概念の広がりを、正確に把握した。
(…まずは、癌を取り除く)
俺は、自らの魔力を、浄化の槌として、大地深くに存在する【混沌】の核めがけて、叩きつけた。
「――定義を開始する。この地に根付く全ての【混沌】と【拒絶】よ――消え去れ!」
俺の手のひらから、目には見えない、しかし、強力な浄化の概念が放たれる。
大地が、一瞬、びくり、と痙攣したかのように震えた。村長たちが、「ひっ」と小さな悲鳴を上げる。
土地の奥深くに根を張っていた、あの不快な「ノイズ」が、綺麗さっぱりと消え去っていくのを感じた。大地は、今、まっさらな、無垢なキャンバスとなった。
(…そして、ここからが本番だ)
俺は、懐から、森で拾った一枚の、青々とした樫の葉を取り出し、左手で強く握りしめる。
この葉が持つ、純粋な【生命力】の概念を、これから俺が描く、新しい世界の「絵の具」にするのだ。
俺は、自らの魔力の、そのほとんどを注ぎ込む覚悟で、ありったけの意識を、大地に置いた右手に集中させた。
そして、俺は、高らかに、宣言する。
この死んだ大地に、新しい世界の理を、祝福を、与えるために。
「――この無垢なる大地に、新たな“名前”を与える。お前の名は――“芽吹き、育み、恵みをもたらす、生命の揺り籠”だ!」
瞬間、俺の右手を中心に、世界の色が変わった。
淡い、若草色の光の波紋が、大地を伝って、どこまでも、どこまでも、広がっていく!
パキパキ、と音を立てて、乾いた大地に潤いが戻り、その亀裂がみるみるうちに塞がっていく。土の色が、生気のない灰色から、豊かな恵みを感じさせる、深い黒色へと変わっていく。
「お…おお…!」
「なんだ…なんだこれは…!?」
村人たちの、信じられない、といった声。
だが、奇跡は、まだ終わらない。
死んでいたはずの大地から、ふわり、と、陽炎のように、薄緑の靄が立ち上り始めた。それは、生命そのものの息吹だった。
そして、茶色く枯れていた雑草の根元から、小さな、小さな、新しい緑の芽が、まるで「生まれていいんだ」と許可されたかのように、次々と顔を出し始めたのだ。
乾いた風は、いつの間にか、土の匂いと、若草の匂いを運ぶ、優しい風に変わっていた。
死んでいた大地が、今、この瞬間、確かに、息を吹き返したのだ。
「…これが…彼の力…」
シルヴァが、呆然とつぶやく。
彼女の絶対の自信の拠り所である、神速の剣。それは、目の前で起きた奇跡の前では、何の役にも立たない。
破壊ではなく、創造。
死ではなく、生命。
彼女は、自分が知る「強さ」とは、全く次元の違う、あまりにも根源的で、そして、圧倒的な力の奔流を、目の当たりにしていた。
「ぐ…っ…」
俺は、大規模な定義によって、ほとんどの魔力を使い果たし、くらり、と視界が揺らぐのを感じた。体が、前に倒れそうになる。
「――おい、ノア!大丈夫か!」
その体を、力強く、しかし、どこかぎこちない動きで支えたのは、今まで呆然と立ち尽くしていた、シルヴァだった。
彼女は、俺の腕を掴み、その肩を貸しながら、驚きと、混乱と、そして、生まれて初めて抱いたであろう「畏敬」の感情が入り混じった、複雑な表情で、俺の顔を覗き込んでいた。
畑の周りでは、村人たちの、泣き声交じりの、割れんばかりの歓声が上がっている。
その中で、俺は、天才女剣士の肩に体を預けながら、この世界で、また一つ、自分の「役割」を見つけたような気がしていた。




