第二話:代償と、理不尽の指先
右の道へと足を踏み入れた瞬間から、空気は鉛のように重くなった。
松明の炎が、まるで風もないのに、頼りなげに揺らめいている。パーティーの誰もが口には出さないが、その表情には、得体の知れない緊張が浮かんでいた。
(まずい…!【歪み】の概念が、どんどん濃くなっている…!)
俺、ノアの目には、俺たちを取り巻く空間が、まるで水中にインクを垂らしたかのように、黒い靄のようなもので満たされていくのが視えていた。それは、俺たちの存在そのものに、まとわりつき、絡みついてくる。
今からでも引き返すべきだ。そう叫びたかったが、俺の喉は、まるで声の出し方さえ忘れてしまったかのように、ただ乾いていた。
俺の言葉が、このパーティーのリーダーである勇者レギウスに届かないことは、もう分かっている。
「なんだ、この不気味な静けさは…」
神官のレナが、不安げにつぶやいた。
それまで、通路のあちこちで遭遇していた低級な魔物の気配が、ぱったりと消えていたのだ。
賢者のマグヌスが杖を構え、周囲を警戒する。
「何らかの強力な個体が、この領域を縄張りにしている可能性が…」
マグヌスの言葉が終わる前に、それは起きた。
足元が、世界が、突如として紫色の光に塗りつぶされた。
通路の床、壁、天井の全てに、見たこともないほど複雑で、禍々しい紋様の魔法陣が、一斉に浮かび上がったのだ。
「なっ…!?」
「魔法陣だと!?馬鹿な、感知系の魔法には何も反応が…!」
マグヌスの絶叫が響く。
だが、もう遅い。抗いがたい力が、俺たちの体を、魂ごと鷲掴みにする。視界は回転し、平衡感覚は失われ、まるで無限の深淵に叩き落されるかのような、凄まじい圧力が全身を襲った。
どれほどの時間だったのか。
数秒か、あるいは永遠か。
やがて、その感覚がふっと消え、俺たちは、まるで投げ出された荷物のように、硬い石の床に叩きつけられていた。
「ぐっ…!全員、無事か!?」
最初に身を起こしたのは、やはりレギウスだった。だが、彼の声には、いつものような自信はなく、焦りの色が濃くにじんでいる。
俺も、朦朧とする意識の中で、ゆっくりと顔を上げた。そして、周囲の光景に絶句した。
先ほどまでいた、人の手で組まれた石の回廊ではない。
ここは、まるで巨大な生物の体内のような、脈打つ鉱脈が壁を走り、天井からは鍾乳洞のように鋭利な結晶が突き出す、異様な空間だった。
空気が違う。湿り気と共に、肌を刺すような濃密な瘴気が満ちている。
「信じられん…この魔力濃度は、ダンジョンの最下層区画に匹敵する…」
マグヌスが、震える声で言った。
「我々は、ダンジョンを飛び越えて、最悪の場所に転移させられたというのか…!」
その言葉を裏付けるように、闇の奥から、一体の魔物がぬらりと姿を現した。
影を編んで作ったかのような漆黒の体に、骨のような白い仮面をつけた、人型の魔物。その手には、闇そのものを固めて作ったかのような、歪な大剣が握られている。
《深淵の骸騎士》。パーティーが万全の状態であっても、苦戦は免れないAランクの魔物だ。
「総員、戦闘態勢!一瞬でも気を抜けば死ぬぞ!」
レギウスの檄が飛ぶ。
だが、不意の転移で陣形は乱れ、仲間たちの動きは明らかに鈍い。骸騎士の振るう闇の大剣を、レギウスは聖剣で辛うじて受け止めるが、その衝撃に大きく後退させられていた。
「くっ…なんて重い一撃だ…!」
「勇者殿!魔法の援護を…“火炎球”!」
マグヌスの放った火球が骸騎士に直撃するが、その影の体は炎を吸収するかのように揺らめいただけだった。
その隙を突かれ、骸騎士はレギウスの体勢を崩し、追撃の刃をレナに向ける。
「きゃあ!」
「レナ!」
誰もが間に合わない、と覚悟した、その瞬間。
俺は、骸騎士の足元の影に向かって、ショートソードを投げつけていた。剣そのものではない。俺が定義したのは、剣が落とす、ほんの僅かな**「影」**だった。
【その影は、“沼”である】
骸騎士の足が、まるで底なし沼に囚われたかのように、自らの影にズブリと沈み込む。ほんの一瞬だけ生まれた、その硬直。
その機を逃さず、レギウスの聖剣が、今度こそ骸騎士の胴体を光と共に両断した。
「はぁ、はぁ…助かったぞ、レナ…」
「ありがとうございます、勇者様…!」
なんとか一体を倒し、安堵の息をつく仲間たち。
誰も、俺の行動には気づいていない。ただ、魔物の動きが幸運にも一瞬だけ止まった、としか思っていないだろう。
束の間の静寂。
だが、それは、最悪の言葉によって破られた。
「…これは、貴様のせいだぞ、ノア」
怒りに満ちた声で、レギウスが俺を指さしていた。
「俺の…?」
「そうだ!貴様があの時、分かれ道でぐずぐずと時間を浪費させた!我々がもっと早くあの通路を抜けていれば、転移魔法の発動に巻き込まれることもなかったはずだ!」
それは、あまりにも理不尽な言い分だった。
だが、極限状態に陥り、リーダーとしての判断ミスを認めたくないレギウスにとって、責任を押し付ける格好の的が、俺だったのだ。
マグヌスまでもが、その無茶苦茶な論理に同調する。
「勇者殿の言う通りかもしれん…。君というイレギュラーな存在が、古代の魔法陣に何らかの悪影響を与えた可能性も、否定はできん…」
違う。俺は、警告したはずだ。
だが、その声は、もう誰にも届かない。
俺は、ただ唇を噛みしめることしかできなかった。パーティーの崩壊は、最悪の形で、もう始まっていた。