第十七話:聖者の戸惑いと、古の石碑
「聖者様!」「我々の村の救い主だ!」「どうか、このお礼を…!」
俺は、生まれて初めて、これほどまでの純粋な感謝の奔流に晒されていた。
畑を蘇らせた俺を、村人たちは口々に「聖者様」と呼び、涙ながらにその手を握ろうと、俺の周りに殺到する。その熱気に、俺はどうしていいか分からず、ただ、たじろぐことしかできなかった。
「皆の者、気持ちは分かるが、少し落ち着いてくれ!」
俺の戸惑いを察したセレスティアが、穏やかに、しかし、騎士団長としての威厳を込めた声で、その場を制した。
「ノア君は、大変な力を使った後だ。今は、彼を休ませてやってほしい」
その言葉に、村人たちは、はっと我に返り、申し訳なさそうに道を開ける。セレスティアは、そんな俺の腕をそっと取り、宿屋へと連れて行ってくれた。
その夜、村では、ささやかながらも、心のこもった宴が開かれた。
収穫物はなくとも、村人たちがなけなしの保存食や、森で採れた獲物を持ち寄り、俺たちをもてなしてくれたのだ。広場には、何年ぶりかという、明るい笑い声と歌声が響いていた。
俺は、宴の主役として上座に座らされたものの、その喧騒にどうにも馴染めず、一人、輪から少し離れた場所で、静かに火を眺めていた。
すると、一人の小さな女の子が、おずおずと俺の元へやってきて、一輪の、健気な野の花を差し出した。
「…あの、聖者さま。ありがとう」
俺は、その小さな花を、どう受け取っていいか分からず、戸惑いながらも、そっと受け取った。ありがとう、と返した声は、自分でも驚くほど、小さく、そして、かすれていた。
「…慣れないか?英雄、という役割には」
いつの間にか、隣にセレスティアが座っていた。彼女は、楽しげな宴の様子を、優しい目で見つめている。
「…ああ。俺は、誰かに感謝されるようなことをしてきた覚えはない」
「そうか?君は、私の、そして部下たちの命を救ってくれた。そして、この村を救った。それは、誰が何と言おうと、紛れもない事実だ」
彼女の言葉は、温かかった。
俺は、少しだけ、自分の過去を話した。追放されたこと。ずっと、役立たずだと言われ続けてきたこと。
セレスティアは、黙って、相槌を打ちながら、俺の話を聞いてくれた。
そして、全てを聞き終えた後、静かに言った。
「…君の過去を、私がどうこう言うことはできない。だが、一つだけ言えることがある。君の価値は、君を追放した者たちが決められるような、ちっぽけなものではない。君は、君が思っている以上に、この世界にとって、かけがえのない存在だ」
その言葉が、俺の心の、固く凍り付いていた部分を、少しだけ、溶かしてくれたような気がした。
翌朝。
俺たちが村を出発する準備をしていると、村長が、「ぜひ、お見せしたいものが…」と、俺たちを村外れの小さな丘へと案内した。
そこには、苔むした、小さな祠があった。そして、その中心に、高さ3メートルほどの、風化した石碑が、静かに佇んでいた。
「これは、我々の村のご先祖様が、遥か昔に、この土地の神様を祀るために建てたものだと、伝えられております。文字は、もう誰も読めませんが…」
セレスティアや騎士たちが、歴史的な遺物として、その石碑を興味深げに眺めている。
だが、俺は、その石碑から、別のものを感じ取っていた。
(この感覚…ダンジョンの奥にあった、あの遺跡と同じだ…)
石碑に刻まれた、もはや模様としか認識できない文様。そこから、微弱ながら、確かに【秩序】と【調律】の概念が、発せられているのだ。
俺は、まるで引き寄せられるように、石碑に近づき、その表面に、そっと指で触れた。
瞬間、俺の脳裏に、直接、断片的なイメージが流れ込んでくる。
《星々》《言葉》《創造》《崩壊》《約束》
意味は、分からない。だが、それは、俺の力の根源に繋がる、あまりにも重要な「何か」であることだけは、直感的に理解できた。
俺は、このことを誰にも告げず、ただ、自らの胸の内にだけ、静かに刻み込んだ。
やがて、出発の時が来た。
村人たちは、総出で街道まで俺たちを見送ってくれた。その顔には、昨日までの絶望はなく、未来への希望が満ちている。
村長が、お守りだと言って、手作りの木彫りの飾りを俺に渡してくれた。
「ノア君」
村を後にし、再び王都への道を歩き始めた俺たち。その道すがら、セレスティアが、俺に問いかけた。
「何を考えている?」
俺は、振り返って、活気を取り戻した村を一度だけ見つめた。そして、自分の手のひらを、じっと見下ろす。
「…追放された時、俺は、ようやく自由になったと思ったんだ」
俺は、自分の心を確かめるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「でも、もしかしたら、本当の自由っていうのは、一人きりでいることじゃないのかもしれない」
「誰かのために、この力を使う。その先にこそ、俺が本当に求めていたものが、あるような気がするんだ」
その言葉は、俺の中で生まれた、新しい「定義」だった。
英雄という、まだ慣れない、しかし、決して悪くはない響きを持つ、新しい自分の“名前”の定義だった。