第十六話:死んだ大地と、生命の定義
「…ああ。少しだけ、やるべきことが、見えた気がする」
俺のその言葉に、セレスティアは何も問わず、ただ静かに頷いた。彼女の後ろでは、村の長である老人が、藁にもすがるような、必死の眼差しを俺に向けている。
彼らにとって、セレスティア率いる王国騎士団は、雲の上の存在だ。その団長が全幅の信頼を寄せる、俺という存在に、村の最後の望みを託そうとしているのが、痛いほど伝わってきた。
「村長さん」
俺は、向き直って言った。
「この土地は、病気でも、呪いでもない。ただ、あまりにも長い間、働き続けて、少し疲れて、眠っているだけなんだ。俺が、少しだけ、起こしてやる」
その比喩的な表現を、村長はすぐには理解できなかったようだ。だが、隣に立つセレスティアが、「彼に、任せてみてください」と力強く言ったことで、老人は何度も頷き、俺たちを村で一番大きく、そして、最も荒廃が進んでいる畑へと案内した。
そこは、もはや畑と呼べるような場所ではなかった。
地面は固く、ひび割れ、生命の気配が全くしない。まるで、何十年も放置された、死んだ土地のようだった。
集まった村人たちが、遠巻きに、固唾をのんで俺たちを見守っている。その視線には、期待と、そして「どうせ、この若者に何ができる」という諦めが入り混じっていた。
セレスティアの騎士たちが、万が一に備えて周囲を警護する中、俺は一人、その荒れ果てた畑の中心へと、ゆっくりと歩を進めた。
(…ひどいな)
俺の目には、この土地が放つ、悲痛な概念が視えていた。
【枯渇】【停滞】【虚無】
かつてここにあったはずの、【豊穣】や【育成】といった、暖かく力強い概念は、完全に抜け落ちてしまっている。これでは、どんなに優れた農夫が、どれだけ努力をしても、一粒の麦さえ育てることはできないだろう。
俺は、畑の中心で、ゆっくりと膝をついた。
そして、乾ききった大地に、そっと右の手のひらを置く。
目を閉じ、意識を集中させ、俺の概念知覚を、この畑全体へと、じわじと広げていく。
それは、自らの神経を、この広大な大地に張り巡らせていくような、途方もない作業だった。
(…見つけた)
意識の奥深く。この死んだ大地の、さらに奥底に、ほんのわずかに残された、かつての記憶。
【緑豊かだった頃の思い出】という、小さな、小さな、概念の残滓。
これを、種にする。
俺は、懐から、森で拾った一枚の、青々とした樫の葉を取り出した。
そして、それを左手に握りしめ、その葉が持つ、力強い【生命】の概念を、増幅器として利用する。
俺は、自らの魔力を、大地に置いた右手から、ゆっくりと、しかし、絶え間なく注ぎ込み始めた。
そして、この死んだ土地に、新たな“名前”を与えるべく、静かに、しかし、世界に響かせるように、言葉を紡いだ。
「――定義を開始する」
「この枯れた土に、忘れられた記憶に、新たな“名前”を与える。お前の名は――“万物を育み、恵みをもたらす、生命の揺り籠”だ」
俺がそう宣言した、瞬間だった。
俺の右手を中心に、まるで呼吸を再開した心臓のように、淡い、若草色の光の波紋が、地面を伝って広がっていく!
パキパキ、と音を立てて、乾いた大地に潤いが戻り、その亀裂がみるみるうちに塞がっていく。土の色が、生気のない灰色から、生命力に満ちた、豊かな黒色へと変わっていく。
「お、おい…見ろ…!」
「土の色が…!」
村人たちから、驚愕の声が上がる。
それは、始まりに過ぎなかった。
畑の隅で、枯れて茶色くなっていた雑草が、その茎を、まるで背伸びをするかのように、しゃんと伸ばした。そして、その葉先に、ほんのりと、緑色が戻っていく。
どこからか、優しい風が吹き抜け、戦場とは違う、土の匂い、草の匂い、そして、新しい生命の匂いが、俺たちの鼻をくすぐった。
俺は、全ての魔力を使い果たし、くらり、とその場に倒れ込みそうになる。
それを、駆け寄ってきたセレスティアが、力強く支えてくれた。
「…すごい。本当に、やり遂げたのか」
彼女の声は、驚きと、感動に震えていた。
畑の周りで見ていた村人たちが、わっ、と歓声を上げながら、俺たちの元へと駆け寄ってくる。
最初に俺に話しかけてきた村長が、その場に崩れるように膝をつき、新しく生まれ変わった土を、震える両手ですくい上げた。
「…おお…おおお…!生きている…!この土は、生きているぞぉ…!」
老人は、子供のように、声を上げて泣きじゃくっていた。
その姿に、他の村人たちも、次々と涙を流し始める。それは、長い絶望の果てに、ようやく訪れた、歓喜の涙だった。
彼らは、俺を取り囲み、「聖者様だ!」「救世主様だ!」と、口々に感謝の言葉を叫ぶ。
生まれて初めて向けられる、これほどまでの、純粋で、温かい感謝の奔流。
俺は、どう反応していいか分からず、ただ、呆然と、その光景を見つめていた。
そんな俺の戸惑いに気づいたセレスティアが、俺の耳元で、悪戯っぽく、そして、どこか誇らしげに、囁いた。
「英雄になる、というのも、存外、悪くないだろう?」