第十五話:寂れた村と、失われた概念
ダンジョンから生還した俺たちは、王都セントラリアを目指し、緑豊かな森の中の街道を歩んでいた。
数日ぶりに浴びる太陽の光は、俺の体にじんわりと温かい【生命力】の概念を注ぎ込んでくれるようだった。土の匂い、風が木々の葉を揺らす音、鳥のさえずり。その全てが、当たり前ではなかったのだと、今更ながらに実感する。
俺の隣を歩くセレスティアは、時折、俺に視線を送り、何かを問いかけたそうにしている。彼女の知的好奇心が、俺という未知の存在の探求を欲しているのが、ひしひしと伝わってきた。
彼女の部下の騎士たちも、ダンジョン脱出の時とは違い、少しだけ緊張が解けている。彼らが俺に向ける視線は、もはや「得体の知れない少年」に対するものではなく、「若き英雄」に対する、尊敬と親しみの入り混じったものに変わっていた。
追放されたあの日とは、何もかもが違う。
これが、俺が俺自身の力で勝ち取った、新しい世界の始まりなのだ。
二日ほど街道を進んだ頃、俺たちは前方に、一つの村が見えてきた。
「団長、日が暮れる前に、あの村で宿を取りましょう。皆、かなり疲労が溜まっています」
部下の騎士の一人がそう進言し、セレスティアも頷いた。
「そうだな。補給もしておきたい。よし、今夜はあの村で休む」
遠目には、のどかな田園風景が広がる、ごく普通の村に見えた。
だが、近づくにつれて、俺は、その場所に漂う、奇妙な違和感に気づき始めた。
(…なんだ?この感覚は…)
俺の目には、概念が視える。
森の木々からは、力強い【成長】の概念が放たれ、道端の草花からは、健気な【生命】の概念が立ち上っている。
しかし、あの村を中心とした一帯だけ、それらの概念が、まるで色褪せた絵画のように、ひどく希薄なのだ。
特に、村の周りに広がる畑。収穫期が近いのか、作物が植えられているはずのその土から感じられるのは、【豊穣】や【育成】といった概念ではなく、虚無的な【停滞】と【拒絶】の概念だった。
村に入ると、その違和感は、よりはっきりとした光景となって俺たちの前に現れた。
道端には、雑草さえもまばらにしか生えていない。畑の作物は、どれも黄色く枯れかかっており、とても収穫できる状態には見えなかった。すれ違う村人たちの顔には生気がなく、その足取りは重い。村全体が、まるで緩やかな死に向かっているかのような、重い沈黙に支配されていた。
俺たちは、村で一番大きな宿屋を訪ね、代表してセレスティアが、主人の老人と言葉を交わした。
「我々は、王都へ向かう旅の者だ。今夜、一晩の宿と食事を頼みたいのだが」
「…騎士様御一行ですか。ようこそおいでくださいました。ですが、生憎と、まともな食事をお出しできるかどうか…」
主人は、申し訳なさそうに、深く皺の刻まれた顔で言った。
セレスティアが、村の様子が気になったのだろう、尋ねた。
「何か、村で問題でも起きているのか?畑の作物が、酷い有様だったが」
その言葉に、主人は、まるで堰を切ったように、溜め込んでいた嘆きを吐き出した。
「ええ…ええ…。実は、もう一年近く、この村では作物がまともに育たないのです。まるで、大地そのものが、命を育むことを忘れてしまったかのように…。泉の水も、以前より力がなくなり、家畜たちも、次々と病に倒れております」
「教会のお偉い様にも、高名な魔法使いの先生にも見ていただきましたが、呪いの類ではない、と。原因は、さっぱり…」
その話を聞いて、俺は確信した。
この村を蝕んでいるのは、病でも、呪いでもない。
ダンジョンで感じた、あの「混沌」の、別種の現れだ。
世界の定義そのものを揺るがし、歪める、静かなる侵略。
俺は、セレスティアたちの会話からそっと離れ、宿屋の裏手にある、枯れた畑へと向かった。
乾いて、ひび割れた土を、一掴み、手に取る。
そして、目を閉じ、その概念を、より深く読み解いていく。
やはり、そうだ。
この土からは、生命を育む上で最も重要な概念――【豊穣】と【育成】の力が、まるでスポンジから水が絞り出された後のように、綺麗に抜け落ちてしまっていた。
これでは、いくら種を蒔き、水をやっても、芽吹くはずがない。
「ノア君。何か、分かったのか?」
いつの間にか、俺の背後に、セレスティアが立っていた。彼女の碧眼が、真剣な光を宿して、俺を見つめている。
俺は、手のひらの、死んだ土を握りしめた。
俺を追放した、あのパーティーにいれば、きっとこう言っただろう。
「土がどうしたというのだ。そんなことより、先に進むぞ」と。
だが、目の前の彼女は違う。
彼女は、俺が視ている、この世界の本当の姿を、理解しようとしてくれている。
俺は、枯れた大地と、生気のない村人たちの顔を思い浮かべながら、セレスティアに向かって、静かに、しかし、力強く頷いた。
「…ああ。少しだけ、やるべきことが、見えた気がする」