第十二話:ひとかけらの慈悲と、対等な契約
静寂。
魔物の骸さえ残らない、清浄すぎるほどの静寂が、巨大な空洞を支配していた。
生き残った騎士たちは、ただ呆然と、戦場の中心に立つ俺の姿を見つめている。その視線に宿るのは、もはや恐怖ではない。自らのちっぽけな常識では到底測り知ることのできない、絶対的な存在を前にした時の、純粋な「畏敬」だった。
カラン、という軽い金属音で、俺は我に返った。
見れば、騎士団の長であるセレスティアが、その手に持っていた美しい魔法剣を、思わず取り落としていた。
彼女は、はっとしたように自分の手元を見ると、ゆっくりと顔を上げた。そして、俺に向かって、一歩、また一歩と、覚束ない足取りで近づいてくる。
彼女は、俺の数歩手前で立ち止まり、深く、深く、頭を下げた。それは、王に仕える騎士団長が、決して身分の分からぬ少年に見せるべきではない、最大級の敬意の形だった。
「…名も知らぬ少年。いや、我々の命の恩人よ。君がいなければ、我々はここで、誇りも、命も、全てを失っていただろう。この恩は、言葉では返しきれない」
その声は、震えていた。感謝と、そして、未だ目の前の現実を信じられないという、驚愕の念によって。
彼女のその行動に、他の騎士たちも、はっと我に返り、次々とその場に膝をつき、俺に対して騎士の礼を取った。
「感謝する、恩人殿!」
「あなたは、我々の救い主だ…!」
俺は、その光景に、ただ戸惑うしかなかった。
追放されるまで、誰からも感謝などされたことのなかった俺にとって、その真っ直ぐな敬意は、どう受け止めていいのか分からなかった。
「…気にするな。俺は、俺がやりたいようにやっただけだ」
俺は、ぶっきらぼうにそう答えると、 immobilized(動けなくした)混沌の呪術師の方を顎でしゃくった。
「それより、あれをどうにかした方がいい。俺は、そいつの概念を【この場に固定】しただけだ。いつまで持つか分からない」
俺の言葉で、セレスティアは即座に騎士団長の顔に戻った。
「了解した。二人、呪術抵抗の高い魔封じの鎖で、そいつを拘束しろ!生け捕りにする。貴重な情報源となるはずだ」
彼女の的確な指示で、騎士たちはすぐさま行動を開始する。
その時だった。
「団長!アルノの容態が…!」
メディック役の騎士が、悲痛な声を上げた。
見れば、先ほどセレスティアが庇った若い騎士、アルノの傷が、再び黒く変色し始めていたのだ。
「回復魔法が効きません!聖水も…!」
「混沌の呪いが、彼の生命力を内側から喰らっています!」
俺は、その光景を見て、以前のパーティーでの出来事を思い出していた。
聖職者だったレナも、同じように、原因不明の呪いに苦しんでいた。もし、あの時、俺がこの力の使い方を知っていれば。いや、そもそも、俺の言葉に、誰かが耳を傾けてくれていれば。
(…もう、終わったことだ)
俺は、感傷を振り払うように、アルノの元へと歩み寄った。
「ノア殿…?」
騎士たちが、訝しげに俺を見る。
俺は、アルノの腕に広がっていく、黒い痣のような壊死に、静かに手をかざした。俺の目には、彼の生命力に絡みつく、【腐敗】と【侵食】の概念が、まるで黒い茨のように視えていた。
俺は、その茨を、より強力で、そして優しい概念で、そっと包み込むように、上書きする。
「――この肉体を蝕む全ての不浄よ、“清らかなる癒しの光”に還れ」
俺の手のひらから、淡く、温かい光が溢れ出す。
その光に照らされた瞬間、アルノの腕を覆っていた黒い壊死が、まるで雪が溶けるように、スッと消えていった。傷口は見る見るうちに塞がり、彼の苦しげだった呼吸は、穏やかな寝息へと変わる。
それは、先ほどの戦闘で見せた、圧倒的な「破壊」の力とは真逆の、慈悲に満ちた「創造」と「再生」の奇跡だった。
騎士たちは、今度こそ、本当に言葉を失っていた。
この少年は、魔王の如き力で敵を蹂躙したかと思えば、次の瞬間には、聖者の如き力で命を救ってみせる。
破壊と創造。絶望と希望。あまりにも矛盾した力が、この名も知れぬ一人の少年のうちに、同居していた。
セレスティアは、アルノが完全に回復したのを確認すると、静かに立ち上がり、再び俺の前に立った。
彼女は、正式な騎士の礼法に則り、自らの素性を明かした。
「改めて、自己紹介を。私は、アークライト王国魔導騎士団が団長、セレスティア・フォン・ヴァレンシュタイン」
そして、彼女は、俺の人生を、そして世界の運命を、大きく変えることになる言葉を口にした。
「ノア君。君のその力は、計り知れない。そして、世界は今、その力を必要としている。私と共に、王都へ来てほしい。君の力があれば、この世界の異変の謎を、きっと解き明かせるはずだ」
「君の身分は、この私が保証する。君が望むなら、あらゆる協力と、対等な立場を、約束しよう」
彼女の碧眼は、どこまでも真剣だった。
俺を、得体の知れない怪物としてではなく、世界を救う鍵を握る、唯一無二の存在として、見ていた。
生まれて初めて向けられた、曇りのない信頼。
俺は、その真っ直ぐな瞳を見つめ返しながら、静かに、自らの答えを探していた。