第十一話:絶対防衛線と、一人の軍隊
俺というイレギュラーな存在を無視し、魔物の軍勢が、後方のセレスティアたちへと殺到する。
その狙いは、あまりにも的確だった。
今の俺がどれほどの力を持っていようと、俺は一人だ。俺が一体の敵と対峙している間に、数の暴力で騎士たちを蹂躙されてしまえば、それで終わり。
戦場の指揮官である混沌の呪術師は、自軍の被害を最小限に抑え、最も確実な勝利を得るための、最善手を選択したのだ。
「全、全員、防御態勢!団長をお守りしろ!」
生き残った騎士の一人が、悲壮な覚悟で叫ぶ。
セレスティアも、砕けた肩の痛みをこらえながら、剣を構え直す。だが、その顔には、隠しようもない絶望の色が浮かんでいた。
もう、誰もが、自分たちの死を覚悟していた。
「――させるかよ」
俺は、地を蹴った。
狙うは、魔物の軍勢と、騎士団との、中間地点。
神速の概念を与えたわけではない。だが、今の俺の体は、追放された頃とは比べ物にならないほど、最適化されていた。
俺は、殺到する軍勢の先頭が、騎士団に到達するよりも、ほんのわずか早く、その間に滑り込むことに成功した。
そして、躊躇なく、手に持った鉄のショートソードを、足元の石の床に、深く突き立てる。
「な、何を…!?」
背後から、騎士の一人が驚きの声を上げた。
俺は、その声に答えるかわりに、この戦場における、新たな「ルール」を定義した。
【――この剣より、古の王が築きし“越えられぬ壁”を、現出させよ】
俺がそう宣言した瞬間、突き立てた剣を中心に、まるで黒い稲妻のように、亀裂が左右に走った!
次の瞬間、轟音と共に、その亀裂から、巨大な黒曜石の壁が、天を突くほどの勢いでせり上がってきたのだ!
それは、ただの土や石の壁ではない。
表面は鏡のように滑らかで、一切の継ぎ目がない、完璧な一枚岩の城壁。高さは数十メートルに及び、騎士団と魔物の軍勢とを、完全に分断していた。
突撃してきた魔物たちは、そのあまりにも突然出現した巨大な壁に、次々と激突し、頭蓋を砕いて絶命していく。
「壁…が…生まれた…?」
「土魔法…いや、違う!魔力の流れが、全く観測できない…!」
壁の向こう側から、魔物たちの混乱した咆哮と、壁を叩きつける鈍い音が響いてくる。だが、その壁は、びくともしなかった。
俺は、目の前にそびえ立つ、自らが創り出した絶対の防衛線を背に、壁のこちら側に取り残された十数体の魔物へと向き直る。
そして、セレスティアたちに聞こえるように、静かに言った。
「…あんたたちは、そこで休んでいてくれ。ここは、俺一人で片付ける」
その言葉は、傲慢でも、虚勢でもなかった。
ただ、揺るぎない事実を、淡々と告げているだけだった。
俺は、魔物たちに向かって、ゆっくりと歩を進める。
一体一体、斬り伏せるのは、骨が折れる。魔力の消耗も馬鹿にならない。
もっと、効率的で、根本的な解決方法があるはずだ。
(こいつらの共通点は、なんだ…?)
俺は、敵の概念を視る。
その全てに、あの混沌の呪術師から与えられた、【混沌】と【狂気】の概念が、まるで呪いのようにこびりついている。
あれこそが、こいつらを異形ならしめ、狂わせている力の源。
なら――
俺は、剣を構えるのをやめた。
ただ、開いた手のひらを、魔物の群れへと向ける。
【――この空間に存在する全ての“混沌”よ。お前たちは、自らの身を喰らう“猛毒”となれ】
俺がそう定義した瞬間、世界が、再び静寂に包まれた。
しかし、今度の静寂は、先ほどとは意味が違った。
異形の魔物たちが、一斉に、その動きを止めたのだ。
そして、一体の魔物の腕が、まるで意思を持ったかのように、自らの胴体を食い破った。
別の魔物は、その頭部を、自らの爪で引き裂き始めた。
彼らを突き動かしていた「混沌」そのものが、暴走し、自らの宿主を、内側から破壊し始めたのだ。
「ギ…ア…ガ…」
断末魔の叫びさえ、まともに上げられない。
魔物たちは、次々と、互いを喰らい、自らを喰らい、やがては黒い瘴気となって、その場に崩れ落ちていく。
それは、あまりにも異様で、そして、神の裁きのように、絶対的な光景だった。
数秒後、壁のこちら側にいた魔物は、一匹残らず消滅していた。
混沌の呪術師は、壁の向こう側で、自軍が自壊していく様を目の当たりにして、初めて、金切り声のような悲鳴を上げた。そして、脱兎のごとく、逃げ出そうとする。
俺は、そんな呪術師がいた方角を、ただ、じっと見つめる。
【お前の概念は、“ここ”だ】
それだけ、定義した。
呪術師は、見えない壁に阻まれたかのように、その場で必死にもがき続けるだけで、一歩も前へ進めなくなっていた。
戦いは、終わった。
俺は、創り出した黒曜石の壁の定義を解除する。巨大な壁は、まるで幻だったかのように、音もなく、元の石の床へと還っていった。
後には、静まり返った大空洞と、魔物たちの残骸である黒い塵、そして、言葉を失った騎士たちだけが残された。
俺は、ゆっくりと彼らの方へと振り返る。
その時、カラン、と。小さな金属音がした。
セレスティアが、その手から、大事な魔法剣を取り落とした音だった。
彼女は、ただ、呆然と、俺を見つめていた。その瞳に浮かんでいるのは、もはや、驚嘆や感謝ではなかった。
人が、自らの理解を遥かに超えた、神か、あるいは悪魔か、何か得体の知れない絶対的な存在を前にした時に浮かべる、純粋な「畏敬」の色だった。