夜が呼ぶ、君が呼ぶ、私もいつかはきっと
世の中は、バレンタインが終わったばかりだというのに恋だの愛だのお返しだのホワイトデーだのといまだにチョコを売り続けている。
私には関係のない行事だ、なんて強がってはいるが、私の目の前にいる松川美優にとって、今年のバレンタインはとても大きな行事になったらしい。
彼女がビール片手に泣いている姿を、都会中の都会である新宿のチェーン居酒屋で私は相槌を打ちながら慰めている。
本当はこんなことをするのはめんどくさいと思うが、私にとって彼女は特別だ。なぜなら彼女は私の好きな人だからである。だからこそ、好きな人の失恋話は嬉しくもあり心を痛めるものでもあるのだ。
「春から大学4年だし、せっかくなら付き合って過ごしたいと思ってさ」
「そうだね」
「よく遊ぶしいけると思ったのになあ」
「彼は思わせぶりするからね、次があるよ」
「でも私は和也がいいの」
藤原和也、私の好きな松川美優の好きな人、同じ大学、同じ学部、私の恋敵。
思わせぶりなやつのどこがそんなにいいの?なんて、もちろん聞けるわけもない。
「バレンタイン張り切るなんて久々だよ」
「子供の頃くらいだもんね、頑張るの」
「こんな可愛い乙女が好きだよって言って振るの、ありえないから」
「ほんとにありえないよ」
「すずかあ」
彼女は私の名を呼び、また泣き出した。
私ならそんな思いさせないよ、と思い続けて言葉にできない私は意気地無しである。同じ土俵にすら立ってないと改めて気づかされる。
「どうして私じゃダメなの」
ダメじゃないよ
「こんなに好きなのに」
私もこんなに好きなのに
「どうしたらいいの」
もう泣かないでよ
「関係が崩れるなら言わなきゃよかった」
私もそう思う、だから言えない。だから今日も好きな人の失恋話を聞くために新宿にきた。これでいいのかな、このまま私は友達のままだろうか。
美優はすごいな、関係が崩れるかもしれないとわかって告白したんだ、私より勇気がある、かっこいい、そしてなにより、羨ましい。
私も勇気を出してみるべきだろうか、普通になってきたこの恋心は、まだ言葉にするのに勇気がいる。怖いのだ、皆は普通だよと言うのに、いざ直面すると皆は戸惑うのだ、だから冗談だよなんて言ったりして、結局おどけてみる。だけどもう、彼女の泣き顔は見たくないのだ。私にだって恋をする権利はあるのだから。
「じゃあさ、私と付き合ってみる?」
言った、ついに言葉にした。
だけど彼女は戸惑っている。「こんな時に冗談なんて」だと。
「本当だよ」
続けて言う。だけど彼女の顔は申し訳なさそうな表情へと変化していく。
「ごめん、鈴華をそんな目でみたことない」
知ってるよ。
「……知らなかった」
「言ったことあるんだよ」
「私を好きなこと?」
「同性が好きなこと」
そうだっけ、と美優は困った表情で目線を逸らして苦笑した。違うの、そんな表情をさせたかったわけじゃない。
「でも、流れで言ったようなもんだからさ」
なんて、結局私は逃げてしまう。
真剣に伝えても、聞いて貰えないこともあるって私は知ってる。
だからいいんだよ、そんな顔をさせる方が、私には辛いから。
「でもこのタイミングだと、傷心につけこむダサい人だよね」
なんて笑ってみるけど、美優はまた気まづそうにしている。
「もう遅いし、そろそろ出よっか」
と、私は慌ててまた話し出した。
お会計も済み、居酒屋を出た私たちの間には、微妙な空気が漂っている。こんなはずじゃなかったんだけどな、と思うけど、きっとこうなることも見えていたはずで、もしかしたら、とか、美優のために、なんて勝手に優しさのようなものを押しつけて、私のためにしか動いていなくて、結局失敗してしまった。
「じゃあ」
と、互いに手を振って別々の道へと歩き出す。
私はJRで、美優は地下鉄、だけど途中までなら一緒に歩ける、し、今までは少しでも長く話して居たいと2人してできるだけ同じ道を進み駅へ向かっていた。だが、今回はそうもいかず、美優は綺麗な金髪のロングヘアを靡かせて私に背を向けて歩いていく。私はそれをただ眺めることしかできなかった。
しばらくして、私も彼女に背を向けて歩き出す。夜の歓楽街への道のり、光と音と人が溢れ、私のスカスカになった心を嘲笑うかのようにすら思え、俯きながら歩き続ける。
「お姉さん、1人?」
無視をしよう、こんなことに相手する余裕が無いのだ。
「ねえねえ、無視しないでよ」
挫けない心が羨ましい
「まって、鈴華?」
私の名を呼んだ?と思い少しだけ顔を上げると私の悩みの種の悩みの種である目を見開いている藤原和也がいた。
「何してんの?」
「美優と飲んでた」
「じゃあ今帰りだ」
「そうだよ」
「このあと俺と1軒どう?」
私はこの男が苦手だ、馴れ馴れしい上に美優をとってきた。なのによく私を遊びやご飯へ誘う、一度も行ったことがないのは美優のためじゃなくて私のためだ。
「やめとこうかな」
「なんで?いいじゃん」
「うーん」
「もしかしてホテルとかの方が良かった?」
「は?」
理解できなかった、しようともしなかった。まだ話す仲ではあるが、そんな単語の話をしてきたことがなかった。性的な話題が苦手なので返事に戸惑ってしまう。
「鈴華って意外と早いんだ、直行か」
「なにいってるの」と笑い「そろそろ」と私はその場から逃げようと足を進めた。しかし彼は私の後をついてきた。
「俺のお気に入りのバーでも挟む?」
「挟まない」
「そのまま?」
「帰る」
「それはなしだよ、俺が鈴華のこと好きだってわかってるくせに」
驚いて立ち止まってしまった。
「え」と声を漏らす彼に恐る恐る視線を向けてみると彼も動揺していた。
「結構アプローチかけてたんだけど」
「うそ」
「ほんと」
私はどう言葉を紡げばいいかわからないまま頭を急いで回転させていた。
「俺は鈴華が好きだから遊びも飯も誘ったし、美優とも仲良くしてたんだよ、はじめから鈴華狙い」
「……それ、美優に言ってないよね」
「言ってないけど」
私はほっと胸をなでおろした。なぜだかわからないが、私が1番ひやしやしている。バレてはいけないと、そんな気がするのだ。
「言って欲しかった? 全然言うけど」
「絶対やめて」
この男は何を考えているんだ、と思ったが、私が美優を好きなことを彼は知らない。だから今回だけは情けをかけてあげようと思い、彼に向き合うと私の大好きな美優の声がした。
「和也? と、鈴華?」
こんな状況、あってはならない。私の一途な純愛を勘違いされてしまっては困るのだ、なので私は慌てて彼を突き飛ばし距離をとった。
「美優、帰ったと思ってた」
と、私が言うと、美優は私と和也を怪しむような目でみている。まずい、大変まずいと心臓が早鐘を打つ。私は失恋して会いたくもない和也に会い、衝撃的な告白をされ、勘違いされたくない私の失恋相手である好きな人に、好きな人の好きな人である和也と2人で会っているのを見られ怪しまれ、あげく私は焦っている。この危機的な状況から抜け出す方法があれば教えてほしい。できればチャラくなく、紳士的に抜け出す方法を知りたい。
「鈴華こそ、帰ったと思ってた」
「道中捕まって」
「俺が声掛けたらたまたま鈴華だったんだよね」
「そうなんだ、それで今の今まで2人で話してたんだ」
「その後ご飯とかホテルどう? って聞いても」
「は?」と、美優のいつもの可愛い声より少し低い声が響いた。この男は本当に空気が読めないと改めて学んだ。
「そうやって私を馬鹿にしてたんだ」
美優の言葉にぎょっとして、否定の言葉を並べようとしたができなかった。彼女はそんな隙すら与えてくれないほど多くの罵声を私に浴びせたからだ。
「私のことを好きだなんて嘘ついて楽しかったかよこのアバズレ!ただのビッチじゃん気持ち悪いな、二度と私に話しかけないで、汚らわしい」
私が覚えてるのはここまでしかない。辛さと悲しみと動揺で何も考えられず、何も発せず、ただ彼女の言葉を一身に受けていた。
「もうやめろよ美優」
という和也の言葉を最後に、私もどうかしてしまった。
「気持ち悪いのはどっちだよ」
だなんて言葉を吐いてしまったのだ。
「お前らだってずっとずっと気持ち悪いよ、同性好きなのを許容する振りしていざ目の前にしたら身近にいたなんてって軽蔑して、好き同士でもないのに性的関係持とうとしたり男女だからって親密だなんて勘違いしてさ」
うまく言葉にできないけど、思ってることが溢れて口からでていってしまった。止めなきゃいけないのに、こんなこと思ってもないのに
「まあ、同性愛者な私の方が気持ち悪いか」
なんて言ってしまった。
「俺ら目立ってるから声抑えて」なんて言う和也に美優を押し付けた。
「そんなこというならお前が美優の面倒みろよ」
と、吐き捨てては私たちを傍観していた人間の間をくぐり抜けて早歩きをした。正直足がどこに向かっているかなんてわからなかったが、ここから離れられるならどうでもいいとさえ思いながら足を動かした。
そんな私にふっと現れた男が声をかけてきた。
「お姉さん」
さっきと同じじゃないか、とデジャブを感じながら無視をしようとしたが、怒りのあまり八つ当たりをするかのように文句を投げつけようと顔を上げると、白のニットに黒のズボンで明らかにホストだというような男が腰を折り、私の顔を覗いていたのだ。
さすがに新宿が住処のような人間には無理だと思い軽く会釈して歩き始めた。
しかし彼はめげることなく私についてくる。
「1軒だけ付き合ってくれない?」
「帰るから」
「電車こっちなの?」
「……そう」
「奇遇だね、俺も同じ」
そう彼が指す電車は、普段あまり使わない電車だ。早く切り上げたいばかりに嘘をついたが、まさか彼がその路線ユーザーだとは思っていなかった。
さすがにこのままその電車に乗る訳にはいかないと私から口を開いた。
「本当は反対の駅」
「嘘つかれてたのかあ」
「あなたに教える必要ないと思ったので」
「冷たいな」
「私に声をかけるなんて暇ですね」
「興味があるだけだよ」
どうせホストの勧誘かホテルへの誘いだろうと辟易する。こんなにも興味が無いように歩いているのに、そんな人間に話しかけるなんて不思議なものだ。無駄な体力や精神力を使うだけじゃないか、と、私も無駄なことを考えてしまう。
「なんで興味があるか聞かないの?」
「気にならないので」
「俺が聞いて欲しいって言ったら?」
「聞かないです」
「勝手に話していい?」
「勝手にどうぞ」
「街中ででっかい声で同性愛者だって言ってたからだよ」
ああそうか、こいつは私にホストやホテルにいってほしいのではなく、言葉のサンドバッグになってほしいのか、と理解した瞬間、胃から込み上げる何かがあった。
「あなたも罵倒しにきたんですね」
まったく、どいつもこいつも腹が立つ。気持ち悪い。
そう思って冷たく返事をしたのにこの男はへこたれない。
「違うよ、違う」
とヘラヘラしている。
そんな彼を見ていると、怒ることすら疲れてきてしまった。どうでもいい、その感情だけだった。そんな私に彼はまた声をかけた。
「1軒だけ、付き合ってくれない?」
× × ×
数時間だけで目まぐるしい出来事が起き、そのまま帰る気力もなくなった私は、彼の誘いに乗り、彼が世話になっているというバーに連れていかれた。道中、彼は私に触れることなく、騒ぎ立てることもなく、スマートなエスコートをしてくれた。そんな行動か怪しいとも思ったが、一度も彼とは目が合っていないような気がして、少し不思議にすら感じた。本当に謎な人、という印象でしかなかったのだ。
バーについて私たちはカクテルを注文し、お互いに自己紹介をした。偽名を使おうかとも思ったが、目の前の彼はどうも嘘をついてなさそうだったので私も本当のことを話した。
「内田北斗、大学3年、ホストは未経験だよ」
「え?」
「疑ってそうだったから、お姉さんは?」
「佐藤鈴華、同じく大学3年生、です」
「なんだ同い年じゃん、気兼ねなくタメで話せるわ」
この男はさっきからタメ口だったではないか、と思ったが口には出さなかった。
「鈴華もタメで話してね、俺のことは北斗でいいよ」
と、彼なりに私と距離を縮めようとしてくれていたのだとわかったからだ。
「鈴華ってフリーなんだよね?」
「だったら何」
「俺と付き合ってみる?」
本当に世の中はどうなっているんだ、やっぱり遊ばれてたのかと腹を立てた私は席を立った。しかし動けなかった。北斗に腕を掴まれてたからだ。
「離して」
「ごめん冗談、離すから座って」
「私、女の子が好きなの」
「だったら何?」
「え?」
私にとって初めてされる反応で戸惑ってしまった。もう何も言葉を発せずただ座り直してしまった。そんな私に北斗は顔を近づけてきた。
「キスでもしてみる?」
と。
私は驚いて動けなかったが、目をつぶったまま近づく北斗の顔は、鼻先が触れそうな距離で止まった。
すっかりと北斗のペースに飲まれた私も少しばかり閉じかけた目を慌てて開いた。
北斗は困ったように微笑んで私から距離をとった。
「ごめん、やっぱり違うね」
私より悲しそうな顔をする北斗に私は何も言えなかった。私が被害者になるはずなのに、傍から見ればこれじゃ私が加害者じゃないか、と、声を上げようとしたが北斗が乾いた笑いをするものだから、やっぱり何も言えなかった。
「これは俺らにとって、俺にとって、一夜の過ちで、一夜の正解なんだよ」
北斗の言葉の意味がわからなかった。
「夜の魔法が、俺らにかかったんだ」
北斗は見かけによらずファンタジー小説みたいなことを口にするのだな、と思いながら私は2杯目のカクテルを頼んだ。
北斗は急に黙りこくり、グラスをみつめている。何かを考え込んでいるようで声をかけずらく、私も黙ってカクテルを流していく。
ナッツはもう底をつきそうになり、3杯目のカクテルを頼んだ私は、北斗に話しかける。
「酔った?」
「全然」
「急に話さなくなるから」
また黙る北斗をみてやらかしたと思った。どうしたものかと悩んでいると、今度は北斗から話しかけてきた。恐る恐る、先程の威勢がなくなってしまって、今にも消えそうな声で。
「まだ、時間はある?」
こんなに弱りきった人間に、もう時間は無いから帰る、なんて嘘をつくのもどうかと思ったので、まだ大丈夫だと話した。すると、北斗はまた、恐る恐る話を続けた。
「俺にも好きな人がいたんだ」
「そうなんだ」
「男」
「え?」
「俺も、同性が好きだった」
そうは見えないから驚いた。驚いてしまった。私がされたくないことを、同性が好きと告白したら驚かれたりするのが嫌なのに、同じことをしてしまった。
だけど、そんな私の態度など気にもとめず、北斗は話を続けた。
「そいつはノンケでさ、俺を気持ち悪いって突き飛ばして、歩道に飛び出してったんだ」
「そうなんだ」
「赤信号で飛び出して、そのまま居なくなったんだ」
衝撃だった、なにもかも。そんな経験をしたことを微塵も感じさせない彼の態度に、彼の口から話される出来事に、私は何も言えなかった。
「俺があいつに告白しなければ、好きにならなければ、出会わなければ、あいつは生きてたのかな」
わからない、わからないよ。
「俺はどうしたらよかったのかな、これからどうしたらいいのかなって、君に聞いてもわかんないよね」
北斗はそう呟くと、カクテルに視線を落とした。
「死にたくても死ぬのが怖くなって死ねなくて、そんな苦痛な毎日に突然君が飛び込んできて」
北斗は、そう呟くと、私に目を合わせた。
「生きてたら面白いこともあるんだなって思った」
「面白いこと?」
「そう」
「私と出会ったことが?」
私の問いに北斗は笑って頷いた。私と出会ったことが、彼にはそんなに面白かったのだろうかと不思議に感じていたら、北斗はまたぽつりぽつりと話し始めた。
「今日はさ、あいつに告白した日と同じ日なんだ」
「そう……」
「あの日も今日みたいに寒い日で、鈴華に出会ったあの道の先、鈴華が騒いでたあの場所で俺たちは話し込んでたんだ」
北斗が私が美優と和也に酷い言葉をなげつけている場面を見ているとは思っていなかった。しかも、あの場所が北斗にとって何かがあった場所とも想像しなかった。
「鈴華はさ、あいつの生まれ変わりかとさえ思うくらい、叫んだ声の芯の強さと、意思が、好きだったあいつに似てたんだよ」
私は私らしく生きてるだけ、生きたいだけだから、誰かに重ねて見られていることが初めてだった。だからどんな言葉をかけていいか、どんな顔をしてその話を聞いていればいいか、これっぽっちもわからなかった。
「でも鈴華は、あいつと違って女だし、ちょっとちょろいし、酒1杯では酔わないし。それに、こんなつまらない俺の話を笑わずに最後まで聞いてくれて、俺の好きを軽蔑しなかった」
ようやくわかった、彼と目が合わなかった理由、目が合った理由。なにか大事な人に重ね合わせて見ていたから、私とは目が合わなかったんだ。私の先にいる“誰か”をみていたから。別に責める気はないし、悲しくもない。だけど、こんなこと、経験したことがないからやっぱりどうしたらいいかわからない。
× × ×
さらに夜が更け、賑わいを増していく街中を私は北斗と並んで歩いている。先ほどの目が合わない北斗はおらず、私をまっすぐと見据えて会話しながら私を駅へと送ってくれている。
「鈴華と会えていい夜だった」
「……会えなくても、いい夜だったと思うよ」
私たちの間に微妙な空気が流れていた。
「夜に呼ばれたのかな」
「なにそれ、変なの」
北斗と過ごしたこの数時間が、なんだかあっという間で、知らない人だったのにそれを感じさせないこの距離感が心地よかった。
そんな時、愛おしい声に私は呼ばれ、振り返った。
「鈴華」
美優が1人で立っていたのだ。
「和也は?」
私の疑問に、美優はふっと笑った。だけど、私の好きな笑顔ではなかった。
「鈴華はいいね」
「何?」
「鈴華は和也に好きになってもらえて、ホテルにも誘って貰えて、ちゃんと女として見てもらえて」
「どういうこと?」
「私はホテルにすら誘われなかったよ、私から言っても気まづくなるから知らない女とのワンナイの方がマシなんだって」
「そんな最低なやつ」
「黙ってよ! 和也の何を知ってるの? 私を馬鹿にしてたくせに」
「知らないよ、知らないけど私は美優を」
「私のために何ができたの? 気持ち悪いな! 私を好きなんて嘘までついて、お前がいなければ私は和也と付き合えたかもしれないのに!気持ち悪いんだよ! このバケモノ!」
そこからはスローモーションのように見えた。
美優はそっと包丁を出し、私の方へ駆けてきた。
「死ねよ! このバケモノ!」
私へめがけて一直線に走ってくる美優は、愛おしくもあり、さながらバケモノのような顔をしていた。
人間というものは不思議で、危険に直面しているのに体は動かなかった。死にたいと思ったことがない訳では無い。生きていたら死にたいと思うことはある。けど、生きている、生きてしまったからこれからも生きていく予定なのだが、あと数秒でそれが終わるかもしれない、なのに、体が動かない。私はただ、見つめることしかできない。
あと少し、あと少し、近づいてくる彼女との間に、何かが飛び込んできた。
すぐには理解できなかったが、北斗が私を庇ってくれた。私を庇ってしまった北斗の白ニットには、赤色が滲みはじめていた。
崩れていく北斗、それをみて絶叫しながら後ずさっていく美優。
私は何が起きたのか理解できなかった。
崩れ落ちる北斗を支え、ただ一言、問いかけた。
「なんで」
北斗は、苦痛に耐えながら笑顔を浮かべると、私の髪を撫で、頬に手を添えた。
「わからないけど、もしかしたら一夜の過ちで鈴華に恋しちゃったのかも」
「私は」
「女の子が好きだもんね、でも、俺も男の子が好きだと思ってた」
「北斗、もう黙って、血が止まらないよ」
「男が好きでダメな俺の人生という呪縛からの解放かもしれない、ただのバイだったかも」
「北斗、お願いだから」
「関係ないか、鈴華って人に恋したのかも」
私の頬には水の粒が流れ続けていた。
「鈴華、ありがとう」
目を閉じる北斗を見た私は大声で彼の名を叫びながら涙を流し続けていた。
誰かが通報してくれたのだろう。しばらくするとサイレンがけたたましくなり響き、北斗は運ばれていった。
その光景を、私はただぽつんと眺めていた。
絶叫する美優の声や、スマホを構えた野次馬の声も、私の耳には残らなかった。
× × ×
あれからどれほどの日々が過ぎたのだろう。
私は未だに実感も湧かず、あまり覚えてもいない。
そんな私を保護してくれた警察に久々に話を聞くことになった。警察の口から出た言葉は『彼は亡くなった』という言葉だった。
私は頭が真っ白になりながら、ふらついた足取りで家へと帰った。
北斗は私と同じようになんでもない毎日の中で生きていて、北斗は自分のしがらみを取り払って、恋をしたんだ。私に恋をしてくれたのだ。同じようにみえる毎日の中で、彼は進んで変化を起こしたのだ。
私にも、また進んで変化を起こすことは、世界は、神様は許してくれるのだろうか。
私のこんな思いは、誰かに届くことはあるのだろうか。
そんな思いを抱え、私はあの場所へと日々通っている。
夜が呼ぶ、君が呼ぶ、あの場所へ。
夜が呼ぶ、君が呼ぶ、わたしもいつかはきっと誰かを。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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