教育係さん
ぺらり、ぺらりと本に綴られた紙を捲る音が部屋に響く。
その音は一定のリズムという事もなく、時に長くその音が聞こえない事もある。
そういう時は、替わりに木を鋭利な物でこすった様なかりかりという音が静かな部屋を満たす。
そこに、新たな音が追加された。
控えめに扉を叩くコンコンという音と、扉越しなのだろう、ややくぐもって聞こえる「リアン坊ちゃん、お食事の時間です」という女の声だ。
その声に、リアンと呼ばれた少年は「わかりました、すぐにいきます」と答えて読んでいた本を閉じた。
擦った音の正体、ペンの先を水の入った木のコップで洗う。
転生前の世界のように、本体にインクを蓄えていたりだとか、ペン先にボールが入っているなどという事はない。
この世界で一般的なペンとは、つけペンと呼ばれるものである。木で出来た柄の先に金属製のペン先が取り付けられており、インク入れにペン先を直接つけて使用するのである。
ともあれ、食事の後も使う予定であるから、片付けもほどほどに部屋を出る事にした。
部屋を出ると、すれ違うメイドや使用人から「ごきげんよう、坊ちゃん」とあいさつされるので、こちらも「ごきげんよう」と返す。
メイドや使用人の殆どは年嵩のいった人物であるから、12歳であるリアンに対して、まるで孫を見る様な優しい目で接してくれるのだ。
因みに、メイドや使用人の年齢が高いのは、クラウディウス家だけの話ではない。
この世界は地球でいうと産業革命前のような状況であるから、どうしても生産にかける労働力が不足しているのである。
州によっては奴隷制度を採用しているところもあり、そういった州は比較的に若い人材が生産職以外を選択することもあるのだが、それでも田舎の方に行くと若者は畑仕事などに従事している事が多い。
また、労働力が足りないのに都市では一次生産職以外の仕事をする若者が多いので、世界全体で物資、特に食料が不足しているのである。
だから、メイドや使用人などという仕事をするのは原則労働が厳しくなってからという場合が多かった。
特に貴族が雇う場合、若者を雇用してしまうと労働力を取られたとして民衆の反発を招いてしまうので、必然的にこの世界でのメイド、使用人の高齢化は避けられないのである。
だが、例外もある。
「ご、ごきげんよう、リアン様」
「ごきげんよう、エラ」
エラ、と呼ばれた人物は、波打つような栗毛を肩まで伸ばしたリアンと同じ歳位の女であった。
エラもまたメイドなのだが、少し意味合いが異なるメイドである。
貧しい村では「口減らし」という行為が存在している。
毎年豊作で、人口も一定なのであれば必要ないのかもしれないが、やはり凶作の年が続くと食い扶持を減らす必要がある。
そういう時、口減らしに選ばれるのは2種類だ。奴隷制度のある州では男を奴隷として売る事もあるが、大体は労働力として期待値が薄い女児を口減らしとして追放するのである。
その際、まずは領主に『雇い口がないか』と相談するのが通例なのであった。
つまり、領主の所で養って欲しいという事に他ならない。一種孤児院のような役割である。
クラウディウス家を含む、殆どの貴族で若いメイドや使用人はつまり、貧しい家庭から引き取った子供である事がほとんどだ。それは雇用というより福祉という意味合いが強かった。
だからクラウディウス家では、そういった子供達は、もちろん給仕などの仕事も行うのだが、それ以上に将来に向けて学ぶ事があれば学ばせ、優秀ならば行政の補佐、または騎士としての雇用なども行えるように教育していく方針をとっている。
ともあれ、そんな考え事をしていると目的地である食堂に到着した。
大きなテーブルに白いクロスが敷かれており、少なくとも10人程度は一緒に食事が出来そうな具合である。
寂しくも、そこに一人分の食事が並べられていて、一人のメイドがにこにことしながら椅子を引いてこちらを待っていた。
「ごきげんよう、アンナ」
「ごきげんよう、リアン坊ちゃん」
お互い挨拶で元気を分け合って、引いてくれた椅子に行儀よく座ると、まずは用意されているナプキンを首元に押し付ける様にして首にかける。
転生前の世界だとナプキンは膝の上と習うが、どうやら元の世界でも昔の貴族は首にかけていたらしい。
しかし、アクセサリーや、男性なら記章などを食事中でも誇示したいという人が増え、次第に膝の上に置くようになっていったのだという説がある。
ともあれ、この世界では首からかけて服を守る使い方が正解である。
後ろに控えたアンナが笑顔で頷いている。
テーブルの上にはサラダとバゲットが置かれており、ナイフとフォークが何種類か揃えられている。
リアンは、迷わず一番外側に置いているフォークを手に取り、サラダを食べ始めた。
アンナの頷きの気配を感じて、ホッと胸をなでおろす。
「しかし坊ちゃん、もう少し肘を下げましょう」
「う、やっぱり今日も100点にはならないか」
「いえいえ、確かに100点とはまいりませんが、そのお年でここまでマナーを身に着けられるのは素晴らしい事でございます。前世はきっと名のある貴族でございましょうね」
言われて、リアンは前世という言葉に人知れずぎくりとした。
リアン・クラウディウス。地方の領主であるクラウディウス家の長男として生まれた彼は、元々比嘉 煉という人間で、記憶を引き継いで転生した存在である。
転生の際に魔王を討伐せよという使命を受けたが、今の所何をすればいいのか皆目見当がつかないのである。
それどころか、この12年間の日常では魔王についての情報は得られなかった。敢えてこちらから「魔王はどこにいるのか?」と直接聞いたわけではないが、この世界にとって脅威であれば話題くらいはあるはずなのに、そんな事もない。
つまり、恐らく魔王という存在は居ないか封印されている。または存在しているが脅威とまでは言えない存在である。という事ではないかとリアンは推測していた。
とはいえ、何もしないのは悪手であろう。リアンは体の小さな内から、出来る事を模索したのだった。
体のバランスが悪く、立つ事が難しい年齢の時にはなるべく知識を得るようにしたし、その知識を得るために必要な言語の習得を早く行うため、親が言葉を発したら必ず真似をする事にした。
これはタレントスキルの影響なのだろうか。真似て言葉を発する時、その音を発する時にどんな感情だったか、どういう思いが内包されているか、そして口の形、喉の動きをどのようにしているのかを考察するのが、前世よりも楽だったように思う。
よって、生後2か月ごろにはある程度喋るのに適した体が出来てきた為、親の発言を真似し始めた。
普通は生後一年ごろから意味ある言葉、といっても稚拙な言葉をようやく話し始めるというものだが、「今年の税収は去年と横ばいか」が初めて喋った言葉である。
勿論当時のリアンに言葉の意味は分かっていない。父親が担当者と税について話していた言葉をトレースしただけである。
だが、その声音には、様々な方策をとっているのに税収が伸びていかない事への憂い、民が豊かになっていかない事への申し訳なさ、自分の不甲斐なさへの怒りが内包されているように聞こえて、その場に居た全員が息を忘れる程驚いたくらいである。
ともあれ、それから様々な知識を手に入れるように心がけたし、生後6か月になると、体のバランスこそ悪いものの筋肉も発達してきたので歩く訓練をはじめて、といった具合に普通の赤ん坊の辿る道を異常な速さで駆けあがった。
そんな事を思い出していたリアンに、アンナは怪訝な声をかける。
「リアン坊ちゃん?」
「ああ、ごめん、少し考え事を。それとアンナさん。前世『は』、ではなく前世『も』です。辺境の領主とはいえ、クラウディウス家はこれから歴史に名を遺す名家になりますから」
リアンの言葉に「ふふ」と笑ったアンナは、笑顔もそのままにピッと指を立てて指摘した。
「そうですね、失言失礼しました。でも減点です。アンナさん、ではなく、アンナ、です。貴族たるもの、身分に応じた敬称を使い分ける必要があります。時にそれはクラウディウス家との力関係を対外的に示唆するメッセージになりますから、大きな意味があると心得てくださいね」
「うぅ、でも、僕にとってアンナさ……アンナは目上な訳で……」
「私は教育係です。リアン坊ちゃんを指導をする立場ですが決して目上ではありません」
「……わかりました」
項垂れながら承諾するリアンに、再度「ふふ」と笑って、まるで我が子に向けているとでもいうような優しい目をしてアンナは口を開いた。
「でも、そうやって身分に関わらず敬意を払ってくださるリアン様のお心、大変お慕い申し上げますし、誇らしく思っております」
言われて、とても恥ずかしくなったリアンは照れ隠しで少し声が大きくなる。
「いや、アンナも女性なんだから、慕うって言葉を男の僕に使うのは良くないんじゃないかなあ!」
「さようでございますか? 私は心からお慕いしているので嘘はありません」
「……絶対遊んでるよね」
「とんでもない事でございます。リアン坊ちゃんの反応で遊ぶなど、そんな楽しい遊び私にはできませんから」
「楽しいってもう自白に近いのでは……」
むくれるリアンと、微笑むアンナ。
貴族であるリアンは、朝起きて夜眠るまでの一挙手一投足全てを教育される。
テーブルマナーは勿論、歩き方から喋り方の一つまでである。その教育を一手に任されているのが、このアンナと呼ばれる女であった。
クラウディウス家教育係兼メイド、アンナ・ドーキンス。艶やかな黒髪を腰まで伸ばし、街に出れば誰もが振り向くであろう妖艶な美貌を備えた外見は、控えめな化粧でもって更に際立っている。
歳の頃なら30代前半から半ばといった所だろうか。にこやかに笑っている時は20代といっても通用しそうでいて、時折見せる影のある表情は、悠久の時を生きた存在であるかのような深みがあった。
そんな一種不思議な様相の彼女は、元貴族令嬢である。
何故元貴族令嬢が教育係兼メイドをしているかというと、少し込み入った事情があった。
リアンもあまり踏み込んで聞いたわけではなかったが、軽い経緯くらいは聞いていた。
アンナは、元々中央、王都の伯爵令嬢だった。領土を持たない、いわゆる宮廷貴族の娘である。
類まれな容姿を持つ彼女は様々な貴族から注目の的であった。それだけではない、幼少期から天才的な頭脳を持っているとして注目されていたらしい。
僅か9歳で家庭教師とのディベートに勝利したり、大人でも難しい戦術の討論で圧倒的な最適解を導き出して大人を黙らせてしまうなどの逸話があった。
しかし、彼女の才能はそれだけにとどまらない。魔法の才能も飛び抜けてあったのだ。
そんな彼女は11歳の時、当時の侯爵だった男と結婚をする。
この世界では結婚も貴族の仕事の一つと考える事から、男女共に恋愛結婚という選択肢は存在しない。
大体はまだ世間を知らない10代の内に家族が結婚を決定するので、それ自体は珍しい話ではない。
対して結婚相手の侯爵は、30代半ばだった。前妻を病で亡くしたため、アンナはその後妻という形である。
年の離れた夫婦はお互いに距離を取り、それなりに幸せの毎日を過ごしていた。
だが、アンナが20代に差し掛かった時、運命は動き出す。
侯爵が内乱鎮圧の任務中に戦死してしまったのである。
若くして未亡人となったアンナ。いや、それ自体はこの時代によくある事だった。
その後内乱の鎮圧に一番功績を上げた地方に領土を持つ伯爵に嫁入りしたのだが、その伯爵の隣の領土が独立宣言をしたため、当の伯爵は対応に軍を整え討伐に向かった先で、やはり戦死してしまった。
それだけではない。その独立国家は伯爵が納めていた領土に攻め込み、これを支配する。
アンナは捕虜となるが、その美貌から独立国家の暫定国王の嫁として結婚させられてしまうのであった。
その後はその独立国家は王国の勢力によって地図から姿を消すことになったのだが。
けれど、アンナは事実上、独立国家の王妃という扱いとなるのであった。
そのため、王国としては処刑を決定するつもりで捕えたのだが、意を唱えたのはドーキンス伯爵家と、ドーキンス家と親交があったクラウディウス家だ。
結局、処刑を免れたとて王都に置いて置くわけにはいかないとして、クラウディウス家の領地に追放という形で落ち着いたのである。
そうして生まれたのが、生き馬の目を抜く貴族の世界を清濁併せ呑むように吸収し、十分な教育とは言えないが確かな魔法の才能を有し、頭脳は並みの軍師を凌ぐ、まさに完璧な教育係、アンナ・ドーキンスという存在であった。
そんなアンナに所作の一つ一つを凝視されながらも食事を続けていると、扉の開く音と共に、見慣れた父の顔が見えた。
「おお、リアン、ここに居たか」
「父上、僕をお探しでしたか?」
問われて彼の父、マディガンはどこか気恥ずかしそうな顔をして頬を掻く。
「いや、探すというほどでもないのだが、ほら、ちょっと時間が空いたから、その……なんだ」
「?」
「稽古でも一緒にどうだ?」
「はい! 食べ終わりましたらすぐに向かいます!」
「はは、急がなくていいから、ゆっくりな」
そう言って、この家の主、マディガン・クラウディウスは朗らかに去っていった。