面接③
──面接 当日──
伊井田とのデート翌日。
彼、煉は朝のバイトを終え、家のベッドで何をするでなく寝ころんでいた。
煉にしては珍しい光景である。普段なら台本を読むなり、役のイメージをするなりしているのだが、この日の煉は何かをする気になれなかった。
この後、劇団の借りているスタジオに行って次の舞台を最後に辞めると告げるつもりだからだ。
伊井田と付き合うと決めた時に、全ての踏ん切りがついたのである。
心のどこかで、自分は役者として成功できないのではないかといつも思っていた。一向に収入にならない事もずっと重荷だった。
生活は苦しく、そのせいで時間もない。朝早くからバイトして、深夜も夜勤をして、睡眠が満足も取れないまま暇さえあれば台本を読み込む。一秒たりとも無駄にはできない、そんな毎日だったのである。
この先の人生は、役者として大成するストーリーではなく、もっと人間らしい幸福を求めて生きる事にしたのだ。
やっと終わるのかという安心感と、もう終わるのかという寂しい気持ちがない交ぜになった感情に身を任せながら、のそのそと着替える為に動き出す。
クローゼットの中には、決して多くない衣類が並んでいた。
その中から白いパーカーと黒のカーゴパンツを選んで身に着けていく。
スタイルミラーの前に立った彼は、自分の顔に違和感を覚えた。
動きやすそうな恰好をした青年。その顔は、普段なら、まるで中に針金でも入っているように強張り、目の奥には肉食獣にも似た光が薄っすらと見えていたのだが。
今はどうか。
針金は抜かれてしまったのか、弛緩したように緩んだ、言い換えれば穏やかな表情となり、目を凝らしても目の奥には光は見えない。
悪く言えば腑抜けた、よく言えば爽やかで余裕のある表情をしているのだった。
それはある種憑き物が落ちたような、健やかさと生気に満ちた顔とも言える。
以前の自分と今の自分の心境の違いが如実に顔に現れている事に驚きながらも、やはり心境が変わったからか、普段なら抱かない感想が頭に過ぎる。
(もうちょっとおしゃれな服があってもいいかな)
少なくとも昨日までの煉では決して頭を掠めもしない考えであった。
舞台役者はかなり体を使った大きな演技が必要になってくる。
それこそテレビドラマなどだと表情で表すような心境を、体の動きで表現するのだ。
レッスンの際に変に洒落た服など邪魔でしかない。
彼にとっての衣服は、小綺麗に見えて動きやすい事以上に望む事など無かったのである。
それが、独りよがりな夢を孤独に追う人生を諦め、伊井田と共に、手を取り合って二人の幸せを求めて生きると決めてから、今まで抑圧していた今までの小さな欲が堰を切った溢れてくるのだ。
それはまるで、夢を追う事を諦めた寂しさを埋めるようでもあった。
しかしながら、まずはリクルートスーツを買うべきだと彼は考えていた。
将来を見据えて、安定した収入を得られる仕事に就く必要があると考えたからである。
求人サイトでいくつか候補を絞ったが、オンライン面接であろうと、服装自由な社風であろうと第一印象は大事だろう。それに、面接の時点で手を抜いて事に当たるなど以ての外だと思われた。
全力で、出来る事があるならやればいい。努力をして必ず得になるというものではないが、損もしないだろう。なら、出来る努力はするべきだ。
そんな事を考えている煉の耳に、インターホンの電子音が飛び込んでくる。
(なんだろう、宅配便かな)
些か妙だと煉の心に疑問符が浮かんだ。
別段、何かをオンラインショップで購入した記憶もない。
首を傾げながらも、それでも玄関の先では誰かが待っているのだ、出ない訳にはいかないだろう。
再び『ピンポーン』と間の抜けたようでいて、急かすような電子音に「はーい、ちょっとまってください」と答えながら玄関に向かい、扉を開けた。
扉を開けた先には、どこか見覚えのある男が立っていた。
私服なのだろう、よれよれのデニムの上下を着た、少し太った痩せぎすの男だった。
宅配員であれば何らかの制服を着ているであろうから、そうではないのだろう。
だとすれば誰だろう、そんな思いで相手を見つめる。
一重の目は腫れぼったく、その奥は黒目が大きい。不規則な生活をしているのか、若干血走っているようにも見える。
鼻は大きく、その下の唇も比例するように大きかった。その唇が半開きとなって、荒い息遣いが聞こえてくるような様子だ。
どこかで見た顔なのだが、それが思い出せない。
男が何も話さないので、煉は注意深くその男の顔を見つめながら、口を開いた。
「あの、どちら様──」
刹那、男が飛び込んできた。
それはまるで煉の胸目掛けて体当たりをするような形だった。
しかし、ドンという衝撃は胸でなく下腹部だった。
次いで、猛烈な吐き気と悪寒、耐えがたい激痛が衝撃を受けた場所から広がった。
「お前が! お前が雲母ちゃんを汚そうとするから!!」
煉の胸に顔を埋めながら喚く男。
だが、それどころではなかった。
頭はマドラーでかき混ぜられた様に混乱し、首筋は氷でもあてられているように寒く、腹はまるで熱せられた火かき棒を押し当てられたかの様に熱くなり、足は歩く事を忘れたように震えるだけで動けない。
(なにこれ? なんで? なんなんだよ!!)
意味もない叫びが胸中で繰り返される中、思い出した事がある。
この男は、伊井田にストーカー行為をしていた男だ。
よろける様に2、3歩後ずさった煉は、図らずもそれによって男との密着が解け自分の下腹部を見る事ができた。
冗談のような光景だった。腹から包丁の柄が生えているのである。
刺さっている場所からは、自分にこんなにも血液があったのかと思うほどに血が染み出ており、それはなおポタポタとパーカーの端から滴り落ちている。
(大丈夫、大丈夫だ。お腹は目立たない、腕や顔はまずいけど、お腹に傷があっても役の邪魔にはならない)
煉の脳内は、長年役者を目指して生きてきた癖なのだろう。この傷が役者として障害になるかどうかをまず考えていた。
次いで、現実的な解決策を思考する。
(警察! 警察を呼ばなきゃ!)
ベッドに置いたスマートフォンに向かう為に踵を返そうとした煉に、男は奇声をあげながら体当たりをしてくる。
「うあああああああああああああああ!!」
「やめろよ!! なんなんだよお前は!!」
男は煉を押し倒し、馬乗りになる。煉はなんとか逃れようと必死になって男の顔といわず腹といわずに拳を当てる。
けれど、喧嘩もしたことの無い煉の、それも不利な体勢から繰り出す拳にそれほどの力もなく、男は馬乗りになったままリュックを下ろし、中から何かを取り出した。
「雲母ちゃんを、返してもらうぞ」
男が取り出したのは、一本のハンマーだった。
それも釘を打つハンマーよりも大きな、石頭ハンマーと呼ばれる石材を砕くハンマーだった。
男がそれを振りかぶった時、狙っている場所がわかった。
必死に抵抗する煉の頭には、ひどく場違いな言葉が浮かんでいた。
(ああ、それで殴られたら傷跡残るよなあ。困るなあ、顔に傷がある役って限られちゃうよなあ。こんなことならもっと──)
脳内の言葉が終わる事を待たず、振り下ろされたハンマーの衝撃と共に煉の意識は暗闇に落ちたのだった。
〇〇〇
ドン、という大きな音が背後で聞こえた気がして振り返る。
視界に映ったのは、人間の手で開けられるものなのかと疑問に思うほどに大きな両開きの扉だった。
大きな音の正体は、その扉が閉まった音だろうか。そんな事が頭に浮かぶ。
しかし、それより妙だった。彼、煉はストーカー男に襲われて刺された後にハンマーで頭部を殴られた記憶から先がないのだ。
それがなぜ、突然大きな扉の前に立っているのだろうか。
はっと思い出したように下腹部を確認する。しかし、そこには何もささっておらず、服を捲り上げて確認しても傷すら存在しなかった。
次いで自分の顔や頭をぺたぺたと手で触ってみるが、どこか異常な部分や、傷、怪我などがある様に思えなかった。
不思議に思う煉だが、一旦状況を確認しようと周りに視線を配る。
天井は高く、広い空間である。天井からは今まで見た事もない大きなシャンデリアがかけられており、それはまるでホテルのパーティー会場などに設置するような大きさに見えた。
そこに灯る明かりは白々としており、火の光の様な温かみはないが、その分空間全体をはっきりと独自の印象を交えることなく正確に照らしている様だった。
壁や床は石造りだろうか。あまり建築に詳しくない煉だが、恐らく壁は石を積み重ねてそれを接着させたものだろうと思われた。
そして、大きな扉の足元から、幅広い赤のカーペットが伸びており、その先には──。
(!? 人がいた!)
見やると、カーペットの伸びた先に豪奢な玉座があり、その存在とこの部屋の雰囲気を合わせると、まるで王制国家の謁見の間といったところだろうか。
その玉座に一人の人間が座していた。
まるで作り物のように綺麗な肌で、少し露出の高い真っ赤なドレスに身を包んだ女性。
そんな女性が足を組み、泰然と玉座に座っている。
その姿はさながら威厳ある王女といった体であった。
不思議な事に、注視すれば圧倒的な雰囲気を感じるというのに、存在感が希薄なようにも感じるという一見矛盾した居住まいであるように感じるのである。
その顔は美しいの一言に尽きる。しかし、同時に美しさを追及していくと生物の暖かさが無くなり、より物質的な冷たい印象を与えるものなのだと窺い知れた。
不自然なほどの美しさ、不自然な程に徹底した王女然とした居住まい、それらが合わさってまるで作り物のように見えるのである。
その有様が、まるでマネキンが置かれているような印象でもあり、生物が存在していると感じさせない原因なのだろうか。
ふと、まじまじと様子を見ていた煉に、その完璧に見える女性が声をかける。
「よく来た。人生を戦い抜いた戦士よ。私の名前はフレイヤ。ここは君の魂の拠り所、ヴァルハラという。まずは君の名前を聞こう」
その声は、まさに威厳のある美人ならこういう声だろうという、想像通りの声だった。
煉は答える。
「比嘉 煉です」
言いながら、微妙な違和感を目の前の女性から感じていた。
煉は役者を目指していたのだが、中でも相手に合わせる演技が得意だった。
演技とは台本に書かれた動きを、感情を体現するものである。
誰かと共演するときに煉は、まずその表現される演技の客観的な部分を見る。表面的な部分と言ってもいい。
そしてその後、その演技プランに内包される、役者の想いを汲み取るのだ。
どういう解釈で、どういう風に進めたいのか。それを汲み、予測し、相手に沿うように演技する。
それは同業には評価されるが、観客には伝わらない気づかいである。むしろ、共演する相手を立てるという事は、自分が一歩下がる行為でもある。
損をする演技、だけれど、煉はそんな演技を続けていた。
だからこそ、目の前の女性の、作ったような所作、口調から様々な事を感じていた。
(話す時に一回口を開いてから間があった。その瞬間にプランを組み立てた事は確実だろう。そしてそのプランで表現したのは、上から目線で冷徹な存在。けれど、その内にあるのは、一瞬下に逸らした目線、下がりかけた眉の動きから察するに……謝意? 哀れみ?)
情報が少ない為に完全ではないプロファイリングを続ける煉に構わず、女は続けた。
「そうか。煉よ、君は死んだ」
「そう……ですか」
「確認だ。正しく受け入れる事ができているか。後悔が邪魔して認められないという事は?」
「後悔はあります。けど、不思議な事に、ああ、死んだんだなあって思うくらいで、むしろすっきりしてるくらいです」
「そうか。稀有な事だな。普通はもっと困惑するものだがな」
このやりとりで気付いた事を、煉は声に出してみる。
「優しいんですね」
「……」
一瞬、女の顔に動揺の色が見えた。
しかしそれは一秒にも満たない、普通なら見逃すほどの正に一瞬の反応だったのだが、煉は見逃さなかった。
だが、女は高圧的な顔を崩す事もなく言葉を発する。
「これはあくまで、君の状態を確認する質問だ。他意はない」
「そうですか、変な事を言ってすみません」
「構わない。それでは本題に入ろう。死した君は、今何を望む」
それは突然の問いの様に感じた。真意が見えないのだが、本題と断りがあったからには重要な事だろう。煉はしばし考えてから口を開く。
「えっと、生き返らせて欲しい、とかそういう事ですかね」
「あくまで、望みを聞いているに過ぎない。特段その望み叶えるとは言っていない。ただ、君が何を望む心の持ち主なのかを確認したいのだ。自由に答えるとよい」
「なるほど」
難しい質問だった。しかし、『死した君は』と前置きされているのだから、つまりは生き返りたいかどうしたいかという事ではないかと思う。
思えば、新たな価値観で生きていこうとしたまさにその時だったように思う。
この先の未来を思い描いてくれているであろう伊井田に悪い事をしたと感じるし、友人や、よくしてくれたバイト先の人間達にも申し訳ない気持ちが強くある。
けれど、どこかホッとしてる自分がいるのも事実なのであった。
これで比嘉 煉の物語は終わったのだ、そう思うとどこか清々しい気持ちにすらなってしまう。
残された人間達にすればそれは人情に欠ける感情なのだろう。そんな感情でいる自分に、嫌悪感すら覚える。
けれど、だからこそ。
比嘉 煉が人生で望んだ事。それをもって回答としてみようと思った。
「俺は、別の人生を歩みたい。比嘉 煉ではない他の誰か。境遇も何もかもが全く異なる人生を歩んでみたい。それが俺の望みです」
煉がそう言った後、フレイヤと名乗った女は一時目を瞑った。
その瞼の裏ではどの様な感情が渦巻いているのだろうか。煉の観察眼を以てしても分からなかった。
ただ、そこに何かがある。それだけは感じる間だった。
そして、再び目を開いたフレイヤは、一つ頷くと威厳ある声を発する。
「いいだろう。比嘉 煉を我がヴァルハラの戦士として認めよう」