面接
──面接 三日前──
そう広くない部屋。簡素な調度品に質素なベッド。
そのベッドに寝転がりながら、彼は一枚のカードを眺めていた。
それは運転免許証であり、二つの事が分かる。
一つは、その運転免許証を持つ人物の情報だ。
免許証からその男の名前は『比嘉 煉』で、26歳、都内に住んでいる事がわかる。
写真に写るその顔は、とりたてて美男子というわけでもなく特徴の薄い顔であった。
そしてもう一つ分かる情報が──。
「免許、更新期間が迫ってるなぁ……」
彼にとってそれは、差し迫った問題である。
都内は車がなくてもさして困らない、といってあって困るものでもない。
上京する時に親から貰った軽自動車は、はっきり言って駐車場代やメンテナンス費用、税金などを考えると売ってしまった方がいいとは思う。
けれど、折角親が無理して購入してくれたのだから、売ってしまうのも忍びないと思い、維持だけはしてきた。
「それに、高い家を買ってから売れた人もいるんだ。維持費のかかるものを持つことで、お尻に火がついて頑張れるってもんだよな」
誰にともなく呟いた彼は、「よし」と呟くとスマートフォンを手に取り、ディスプレイを見やる。
『AM 4:00』と書かれたそれを確認し、洗面台へと向かった。
洗面台に映るのは、中肉中背の男である。見るべきところも無い男だが、よく見ると、その目はキラキラと輝いているように見える。
それはまるでどこか自分の目標を見据えているような、そんな輝きだ。
けれど、その輝きは彼をじっと見ないとわからない程度のものであり、目に力があるという程に目を引くかというと、そんな事もないのである。
自分自身の顔を見つめる事数秒。彼は手早く洗顔をし、タオルで顔を拭いたかと思うと、手早く外出する準備を整えた。
パーカーにチノパンという動きやすい恰好で、トートバッグに財布など必要なものを詰めて玄関に立った彼は、白いスニーカーを履き、扉を開けたところで振り返って言った。
「いってきます」
〇〇〇
「比嘉くーん、今日はもういいから、少し休んだら?」
「え、いえ、俺は大丈夫ですので」
「いやいや、もう品出しは殆ど終わってるから大丈夫だよ」
言われて、比嘉と呼ばれた彼は申し訳なさそうな顔を一瞬覗かせ、それから何かを思いついたという顔になった。
「じゃあ、田島さんのお手伝いしますよ」
「え? いや、いいっていいって休んでよ」
「それじゃ悪い気がして、休めないですよ」
「うーん、そこまで言うなら、事務所でシフト作るの手伝ってくれる?」
「はい!」
そうして、田島 洋子の後について事務所に向かったのだった。
〇〇〇
「どう? ウチのスーパーでの仕事で何か不満あったりする?」
煉の住むアパートの近くに位置するスーパーの店長である田島洋子。彼女はいい上司であり、いい人生の先輩でもあった。
年齢を聞いた事はないが、30代後半から、40代だろうと思えるくらいには年嵩の貫禄がある人物である。
そして、事あるごとに不満はないか、やりづらい事はないかと気にかけてくれるのだ。
「いえ、こんなに良くしてもらって、不満なんかないですよ」
「そう、それならいいんだけどさ」
煉は田島の経営するスーパーで、早朝の品出しのバイトをしていた。
朝5時から朝8時までの短時間だが、やるべきことは多い。
商品の補充や発注だけではなく、開店前に当日のセールのポップ作りや商品の入れ替え、お店の掃除など。
勿論倉庫の整理や棚卸などもある。
漫然と作業していると、何も終わらないままあっという間に開店時刻になってしまうだろう。
けれど煉は、そういった事はしなかった。こういった作業からも学べる事はあるはずだし、こういった作業を続ける事で得るものもあるだろう。自分の将来にきっと何か役立つはずだと自分に言い聞かせて、毎日笑顔で素早く仕事をこなした。
その姿を見てきたからこそ、田島は彼の事を特に気に掛けるのだろう。
「んで? 『本業』の方はどうなの?」
言われて、煉は困ったような、苦しいような顔をして答える。
「えーと、取り敢えず今は稽古で怒られてばっかりで……」
「あっはっは、怒られるっていうのはね、それだけ君に求めてるものがあるって事だよ。頑張りな、初日は観に行くからさ」
「最高の舞台にできるように、頑張ります!」
煉の本業は役者である。
といって、売れない役者と言った方がいいかもしれない。役者業での収入は殆どないに等しいのである。
それでいて、役者としての仕事は時間が拘束される。本気であればあるほどに、役作りにどれだけ時間をかけても足りないくらいだ。
週7日、毎日早朝の品出しのバイトをし、昼は週3日カフェでバイトをする。そしてそのカフェのバイトがある日の夜は配送倉庫で深夜バイトをしていた。
朝と晩を有効に活用して、週に4日は役者としての稽古、公演などに集中できるようにしているのである。
そう考えると煉には365日休みなどない。世の中では労働環境の改善だとかそういった話も聞くが、煉の人生にとってそれはあまり意味をなさない。
きっと役者として売れたとしても個人事業主だ。どれだけ仕事するのかは自分の裁量で決めることになるが、それはつまり労働時間に決まりはなく、何時間でも働けるという事でもある。
いつ仕事がなくなるか分からない業種なのだから、疲れたから仕事を断るなんて事もできないだろう。
そんな事を漠然と考えながら、田島と世間話をしたのだった。
〇〇〇
昼はカフェでバイトである。
煉は、自分が暇になった時になるべく周りのスタッフを手伝う事にしていた。
「伊井田さん、手伝うよ」
「あ、うん。ありがと」
煉が話しかけたのは、伊井田 雲母という学生バイトである。
彼女は一つの事に集中するのは得意だが、沢山の事を同時に行うのが苦手なのであった。
だから、店が混雑してしまった場合に慌ててしまう事がある。
「俺レジ入るから、伊井田さんはコーヒーの用意に専念して」
「はい!」
そんなやりとりをして、お互いに作業に集中する。
こうして助け合うように仕事をするのは、煉にも事情があった。
役者の仕事を優先するために、他のバイトスタッフにシフトを変わってもらう事もあるのである。
彼ら彼女らにとって、自分の役者で売れたいという目標なんて関係ないのに、無理を言ってシフトを変わってもらっている。それなら、作業中くらい皆の役にたたなくてはならないという思いが彼を突き動かすのだ。
そうして今日も一所懸命に仕事をし、いつしかバイトの終業時間となっていた。
帰りは、伊井田と一緒に帰るのが通例となっている。
というのが、伊井田は最近ストーカー被害に遭っているらしく、それならと家が近い煉が家まで送る役を買って出たのである。
なんでも、カフェ店員と仲良くなれば付き合えると考える人もいるらしく、そういった考えの客が業務中しつこく声を掛けて来ていたらしい。
それだけでも気持ち悪い行為ではあるが、更にその男の一人が執拗に個人情報を聞き出そうとしてきたのだそうだ。
それを伊井田が店長に相談したところ、その迷惑男を出入り禁止としたのだが、それが返って迷惑男の心に要らぬ火をつけてしまったのか、道中後をつけられるようになってしまったのだそうだ。
警察にも相談はしているそうだが、現時点で被害はないという判断になるらしく、見回りを強化するとだけ言われて実質何も守ってはくれないのだそうだ。
だから、せめて煉が同じ出勤日の日はこうして一緒に帰っている訳なのである。
「あの、比嘉さんの舞台、もうすぐですよね」
「うん、そうだね。でも上手く演技できなくて、苦戦中」
「そうなんですね……頑張ってください! 絶対観に行きますから!」
「ちょっと恥ずかしいな、でも嬉しいよ、ありがと」
「初日から千秋楽まで、全部観に行っちゃいます!」
「いや、それはさすがに……いける日のチケットは用意するよ」
「いえいえ! ちゃんとお金払います。推しに用意させるなんて本末転倒です」
「推し?」
「はい! 比嘉さんは私の最推しです!」
「ありがと、そういうの初めて言われたよ」
言って、少しだけ残念な気持ちが募る。
煉にとって推しだと言ってくれる事は嬉しかったし、応援してくれる気持ちも非常に嬉しいのだが、やはりそれは、演技に惚れて欲しかったという思いが心の片隅にあった。
伊井田はまだ煉の演技を見た事がないのだ。つまり、煉という人間性だけを見て推しだと言ってくれている。
それはそれで喜ばしい事だが、役者としてはやはり演技を見てから判断して欲しいという我儘な部分もあった。
だが、煉にもわかっている。一般的に演技の良し悪しなどそこまで注目されることではない。
勿論、演技が悪すぎる場合はそこを批評される事はあるが、演技に関係する仕事をしていたり、劇団のファンだとかでない限り演技の良し悪しを注目して舞台やドラマを観るという事はないのだろう。
諦めや前向きな気持ちがない交ぜになった複雑な感情。それが煉の心に渦巻いていた。
そんな煉に、伊井田は遠慮がちに口を開いた。
「あの……今週の日曜日ってやっぱり忙しいですか?」
今日が金曜日なので、日曜日といえば明後日の事である。
舞台の稽古日ではあるので忙しいと言えば忙しいのだが、勿論用事があれば空ける事もできる。
もしかしたらシフトの交代を打診しようとしているのかもしれない、いつも代わってもらっているのだから、たまにはこちらも協力しなくてはならないだろう。
「予定はあるけど、何かあるなら動かせるよ。でも、伊井田さん日曜日シフト入ってったっけ」
「え? あ、シフトの交代じゃなくてですね……」
であれば何だろう、そう思いながら伊井田の言葉を待つ。
「比嘉さんがチーズケーキが好きって天音ちゃんが言ってて、それで、その、ニューヨークチーズケーキが美味しいお店が渋谷に出来たらしいんですけど、一緒に行けたらいいなあって思って」
なるほど、と煉は胸中で頷く。これはデートの誘いだ。
言われてみれば、煉のこれまでの人生では、色恋は殆どしてこなかった。
元来モテる程の何かを持っている訳でもないし、それ以上に、役者として成功する為に必死に生きてきたのだ。
ふと、10代の頃に必死に芸能事務所にオーディションに行っていた時の事を思いだしていた。
煉が役者を目指そうと思ったのは、小学生の頃である。
文化祭で演劇をやって、その時は馬の役だったと思うのだが、その時に感銘を受けたのだ。
自分ではない何者かになる事ができる。それは人間という枠に収まらず、動物にだってなる事ができるのだ。
自分のこれからの人生を想像し、何の為に生きて、何の為に死んでいくのかと悲観的な思考に捉われた彼にとって、自分の人生ではない、別の人生を少しの間だけでも生きる事ができる可能性に、胸が躍った。
それから演技の勉強をし、やはり目指すのはテレビドラマや映画に出演する役者になりたいと思って、高校生になる頃には芸能事務所のオーディションに赴くようになっていた。
けれど、感触はどこも悪かった。
その中に、面談で気さくに話してくれる事務所もあったのだが、そのうちの一つでこんな会話があった。
「君は顔に華が無いから、カメラ演技は難しいかもしれない」
事務所の人間にそう言われて、心に鉛が落ちてきた気持ちになった。
「でも、演技力で勝負したいんです!」
「それだったら、テレビじゃないかもだね。演技の種類によるけど、体を使った表現の演技なら演劇、音声での演技力だったら声優かな。でも、最近は声優もビジュアルに力入れたりしてるから、事務所の力で売る人間は、どうしてもビジュアルの華も必要かもね」
「……そうですか。でも、テレビでも脇役とかでなんとか……」
「いやね、演技が上手いだけの人はそれなりに居て、それでもテレビのカメラ演技っていうのは、表情を抜く事が多いからさ。やっぱり顔のドアップでどんな表情ができるか、そしてその時にはさ、やっぱり整った顔の方が都合がいいのよ。でさ、やっぱり売っていく側からすると、脇役しか出来ない人より、主役を狙っていけるっていう人がいい訳なのよ。それこそ、演技力はなくてもアイドルとか、まあ元アイドルでもいいよ、それとかモデルとかね。やっぱりさ、ドラマ、映画とか中身がいくら良くてもさ、広告が映えないとそもそも見ないっしょ? だから番宣、ポスター、CM、そういうのってビジュアルが結構大きいもんだしさ」
言葉が続くたびに、煉の中で何かが萎えそうになるのが分かった。
けれど、それだけで諦められるほど、煉の人生は満ち足りたものではない。役者として成功できなければ、悲惨な人生でしかないように思えてならなかったのだ。
だから、諦められなかった。
「……わかりました。ありがとうございます」
「あんまり気を落とさないで。華は無いけど、清潔感はあるしそんなに悪い訳じゃないから。ウチでは取ってあげられないんだけどさ……地元の劇団とかで活動してみたりして、感触掴んでみな。そこからテレビの世界に這いあがった人もいるし、こんな事言うのはあれだけど、応援してるよ」
「はい、ありがとうございます」
人知れず過去の事を思い出して悲観的な気持ちになっていた煉に、伊井田が伺うように問う。
「比嘉さん?」
「ああ、ごめん、ちょっと考え事してて」
「そうですか。やっぱり、駄目ですかね……」
「いや、日曜、一緒にケーキ食べに行こう」
「いいんですか!?」
「うん、俺も楽しみだよ」
たまには、そういうのもいい。そう思って煉は誘いを受けたのだった。