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黄昏の窓辺

作者: 荒城醍醐

某SF新人賞の落選作です。

「無垢なる地平線」と姉妹作になっています。

 彼がくぐったのは築三十年のテラスハウスの玄関の扉で、屋外へ通じているはずだった。脇にある小窓からは、通りの向かいに並ぶ家が見えていたし、自転車で通り過ぎる少年の姿も見えていた。

 しかし彼がくぐった扉の先は、白い壁のだだっ広いラボだった。天井に照明はなく、ひとつのデスクに研究者風の青年が座っていて、机上に浮かぶ表示を目で追っていた。

「お疲れ様です。対象者は現実に戻りました」

青年は顔を上げて笑顔で報告する。テラスハウスからラボへ入ってきたのは細身の壮年期の男で、こちらも笑顔だった。すこしひねたような歪みはあったが、笑顔に違いない。

「ああ、あのばあさんもかなり頑固だったな。まあ、気持ちはわかるが」

 デスクの青年は机上の表示に視線を戻す。

「次でやっと最後ですよ。アパートメントの窓辺で夕陽を見る日課の時間帯ですね」

「まさに、『黄昏の窓辺』だな」

 それは、さっきまでのテラスハウスやこれから行こうとしているアパートメントが存在する仮想世界の商品名だった。年金生活でなにごともなく、ただ窓辺で黄昏の空をながめるだけ、という休暇がデザインコンセプトの世界だ。

「どうやって現れますか?」

「そうだな。目の前に急に現れるのは失敗だったし、窓辺にいる老人の背後のドアから部屋に入るというのも犯罪者っぽい。窓の側から自然に屋内に入れる間取りかな?」

 青年が部屋の立体図面を確認する。

「ええ。窓の脇に小さな花壇用のテラスがあって、出入りする扉がありますね。そこにつなぎます」

 このラボもまた、仮想世界だった。現実世界の二人の肉体は生命維持用のシートに横たわっていて、意識だけがここに居る。

「じゃあ、行ってくるか」

今さっきラボに入ってきたドアに向かう男に、青年が手を振った。


 老人の人生は、大きな波乱もなく黄昏を迎えていた。

 若いころに造船所に就職し、職場を変えることなく四十年余り働き続けた。恋愛や結婚とも無縁で、家族は居ないが、年金は生きていくのに十分だったし、健康な身体のおかげで生活に苦労はなかった。これといった趣味もなく、毎日、買い物を兼ねた散歩をして、あとは部屋で窓の外を眺めて過ごした。

 西向きの窓の正面にあったアパートメントが取り壊されてからは、一キロほど離れた海岸の背の高いヤシが見えるようになり、その先に続く海の水平線が見わたせるようになった。

 日没の一時間ほどを、空を眺めて過ごすのが、彼にとって至福のときだった。


 今日も、窓から三メートルほど離したところに置いた安楽椅子に腰かけ、色づき始めた空に目をやった。窓からの距離はこの位置がベストだ。視界は狭まるが夕陽を見るには十分だし、取り壊されたアパートメントの両側に建つビルも視界に入れずにすむ。ひとつの絵画のような景色を眺めて過ごすのだ。

 美しい。

 ほんとうに絵のように美しい。

 そう思ったとき、いつも彼についてまわる確信に満ちた言葉が頭に浮かぶ。

『これは現実ではない。ここは仮想世界だ』

 散歩をしていて良いことがあったり、食事をしておいしいと思ったり、こうして外の景色を美しいと思ったりするたびに、その言葉は浮かんできた。

 だが、だとしたら現実世界とはどんなものなのだ?

 老人にはそんな世界の記憶はない。あるのは子供のころから過ごしたこの町の記憶だけだ。彼にとって唯一の世界はここだ。どうしてここが現実ではないなどと思うのだろう。

 だが、それは間違いないと確信できる事実だった。

 いつか、それを思い知るできごとに出くわすのだろう。


 そしてそれは、まさしく今起こった。


 普段、老人が足を踏み入れたことがなく荒れ放題の野ざらしのテラスに通じる扉を開けて、一人の男が入ってきた。非常用の降下器具は設備として備えられているはずだが、階段や梯子はテラスにはない。ここは地上十五階で、テラスから人が侵入できるはずもないと思っていたから、鍵など気にしたことはないが、開いていたのだろうか。

 そもそもどうやってテラスに来たのか。老人が出かけているうちに部屋に侵入し、テラスに隠れていたのだろうか。それが一番現実的だ。

 いや、そうではない。入ってきた男の姿がそれを物語っていた。まるでそれは、そう、未来を思わせるデザインの服装だった。この世界には、まったく似つかわしくない。

「はじめまして。わたしはチノ・ユージンと言います。この世界のデザイナー兼プロデューサーです」

 彼がそう名乗ったとき、老人は素直に受け止めることができた。

 いつか現れるべき人物が現れ、いつか起こるべきことが起ころうとしているのだ。

「わたしに何の用だね」

 老人は慌てることなく静かに尋ねた。

 チノと名乗った男は、衣服の乱れを直しながら、夕焼けの窓の前に移動して老人の正面に立った。

「あなたがこの世界から現実に戻ってこないので、迎えに来たんです」

 老人にとって、その答えは長年何度も想像した来訪者のものと同じだった。天使や悪魔、あるいは人の形をしていない光のようなものを想像したものだが、未来っぽい服装の男だったとは。

「なにかの手違いが起きているんだと思う。わたしは現実の世界への行き方を知らないんだ。それに行きたいとも思っていない。ここに満足しているからな」

 そう言うと相手が困るだろうと予想していたのだが、チノに困った様子はない。

「ええ。あなたの状態は存じています。あなたは、この世界が現実しゃないことを知っている。しかし、現実の世界がどんなものだったかがわからない」

老人は頷いて肯定した。

「仮想世界がそういうものだと思っているかもしれませんが、それは違います。本来、仮想世界に居るときは現実世界の記憶も同時に持っていて、現実の自分がどういう状況かも理解している。そうしなければならないという法律があるんです、現実世界にはね」

老人は首をひねるように傾げて疑問を呈した。

「わたしを信じてください。決して、この、わたしがプロデュースした仮想世界に欠陥があるわけではないのですが、あなたと、数人の方があなたのような状況に陥って、そこから救い出すためにわたしが来たのです」

「わたしのほかにも?」

「そうです。いや、そうでした。もう、みんな救い出しました。あなたが最後です。この世界であなた方の問題が発覚してから、現実世界の記憶がある方々にも退去していただきました。新たなログインは受け付けていません。ここはもう、閉鎖するんです。この世界に居るリアルな人間は、あなたとわたしだけです。さあ、帰りましょう」

 老人は窓の外を見た。外からは百万人都市の息吹が感じられた。ひっきりなしに鳴る車のクラクションは帰宅時間帯の町の渋滞によるものだ。三ブロック先の交差点で慢性的に起こる混雑。あの交差点だけでも百人以上の人が居るだろう。そして高架を走る電車が駅へ入るときの汽笛。ホームで待つ人々と電車の中の人々。しかもそのさらに向こうの市街地の幾千万の人の気配も伝わってくる。この世界に人が二人だけなどとは思えなかった。

「ちょっと窓から避けてくれないか。もうすぐ夕陽が沈むんだ」

老人の言葉はチノの呼びかけへの答えではなかった。

「あそこに建っていた十二階建てのアパートメントが邪魔だったんだが、数年前に取り壊しになってね。ちょうどこの窓から海に沈む夕陽が眺められるようになった。季節によって沈む位置は若干変わるが、概ねこの位置から沈み切るところまで見えるし、毎日天気もいいし。このひとときのために生きているようなもんだ」

チノは自分の影が老人にかかっている位置から窓枠の脇へ寄って、老人が夕陽に照らされるようにした。

「夕陽を見るのが生きがいですか。まあ、こんな夕焼けは現実ではもうお目にかかれないが。そういう隠居生活というのは御免被りたいな」

年齢を重ねても働くことが望みのチノは、軽い気持ちでそう言ったつもりだったが、老人には侮辱と捉えられたようだった。

「年長者には、もっと敬意を払うべきなんじゃないかね」

「そういうことなら」チノは自分の外見を見回して、老人と見比べた「払って頂くのはわたしのほうですよ。わたしは、この世界の標準からすると六十歳くらいの外見ですが、生まれてから百十年生きてます。しかも仕事で仮想世界に居る時間が長くて、体感では六百年生きてる。あなたの個人データを一方的に知っていることは申し訳ないが、あなたの肉体年齢も、仮想世界での体感年齢も、わたしには及ばない」

「百十歳? その姿でかね?」

仮想なのだから、姿かたちが現実どおりとは限らない、とも思ったが。

「ええ。服装も含めて、この姿が今の現実のわたしのとおりですよ」

 老人は、チノの言葉にひとつ安心していた。これまで、現実世界の自分が人間かどうか疑問だったのだ。まったく違う姿をした生物かもしれないという考えは捨てられなかったのだ。

「これは失礼をした。なるほど、敬意を払うべきはわたしの方だったか。ははは」

 安心すると素直に笑いも出た。そして言葉もあとからあとから湧いて出た。

「いったい、わたしが現実世界のことを知らない理由は何なのだね。あなたはなぜそれをいの一番に語ろうとしないのかね。それがわたしにとって、ここに居続けるよりも不利益なものでないと納得の行くものならば、それを明かすのがもっとも効率的な説得法のはずだが、あなたはそうしない。つまりわたしは、現実世界では『今』よりも恵まれていないのだということになる」

 チノは真実を言ってしまいたい言葉が漏れ出さないように口を強く結んだ。この老人の論理は、これまで説得してきた全員から言われたことだ。真実を言ってしまって、良い結果が生まれないだろうことは容易に判ることだった。チノの言葉すべてが信用されなくなってしまうだろうし、信用された場合は死神のように思われるに違いない。

 喋るべき言葉を反芻してから、チノは答えた。

「わたしはあなたを騙すつもりはありません。だから嘘は言わない。隠すべきだと思っていることは言えないのですが、それを安易な嘘で代用することはしません。そして現在のあなたの現実が、不遇なものでないことはわたしが保証します」

「わたしは病人か怪我人なのではないかね? 短期間しか記憶を保持できないような、あるいはこの世界を出て、現実に戻ったら、すぐさま命を落としてしまうような」

「いいえ。あなたは健康体です」

「わたしは大罪人なのではないかね? 拘束されていて、この世界は実は牢獄で、新しい牢獄へ移送されるだけなのではないかね」

「いいえ。あなたは自由だ。望むとおりの生き方ができる」

「ならば、あなたが最初に言ったことが嘘だ。この世界に欠陥があって、わたしがこのとおりの状況にあるわけだ」

「いいえ。想定していなかった状況なのは認めますが、決して欠陥品ではない」

「では、何らかの犯罪行為かね? わたしは被害者で、あなたが救おうとしているのか?」

「悪意はそこにありません。わたしは人を裁く立場にありませんが、今回のことに犯罪者は居ないと思っています。あなた方も、被害者と呼ぶべき方々ではない。このまま放置したり、無理にログアウトさせたりしたら、害があるかもしれない。だから、それを防ぎたいのです」

 矢継ぎ早に問答が交わされ、そしていったんぱたりと止んだ。

 チノの言葉を証明するものはない。だからすべては、老人がチノを信じるかどうかだ。

「わたしがこのまま居座ったら、わたしじゃなくて主催者に害が及ぶのではないかね? 維持費が嵩むとか」

「いいえ。この世界を維持するのは容易です。もう、あなたしか居ないのだから、あなたが知覚できる範囲だけ動かせばいいんですから。そして、この世界に居る間のあなたの本体の健康維持も容易です。仮想世界体験中の肉体の健康維持は、外の世界では規定値です。基本設定ってやつですよ。仮想世界は万人のための社会の一部分だから」

「嗜好ゲームとかじゃないのかね?」

老人が知るこの世界にもゲームの仮想世界はある。もちろん現実のように体験する技術はないが。そしてそういう世界は楽しむためのものだ。利用者は金を払って楽しみを買い、提供者は富を得る。

「そういうノリのものも多いですが、この世界のように、そうじゃないものの方が多い」

「この世界は『どういうもの』だと言うんだね」

「この世界は、短期間で心の休養を取るための世界です」

「心の休養?」

「ええ。技術の進歩によって肉体の休養は、簡単に取れます。それ用のプログラムを選んで、五分も休めば疲れは取れ、細胞は活性化できる。でも、そのまますぐ働くのでは精神的には休めていない。そこで、この世界です」

チノは芝居じみた身振りで両手を広げた。

「ここは、現実世界の約四百倍ほどで時間が過ぎる。何も『事件』は起きないし、年金生活っていう設定なので働く必要もない。なにか努力して能動的に行うレジャーも用意されていないかわりに、安息がある。身体が休んでいる現実世界の五分の間に、ここで丸一日以上、なんにもしない生活で精神的にも休暇を取るわけです」

「脳が四百倍で情報処理し続けて、安息と言えるのかね」

「実際には脳は四百倍で情報処理しません。せいぜい四十倍です。娯楽用の仮想世界と違って、ここでは何も起きない。だからこそできることです。こうして今わたしたちは普通に会話していますが、実際に脳に送られる情報の速度とこの世界の時間の流れは異なっているんです。交互に会話しているように脳に情報が記憶として書き込まれていますが、それに要する時間は、しゃべっている時間よりもずっと短い」

「『記憶として書き込む』」

老人は、その言葉になにか引っ掛かるものを感じた。

「そうです。情報として伝達するのではなく、記憶として書き込みます。そのときに、どれくらいの時間を使って伝達したのか、ということも同時に書き込みますが、その部分はフェイクなのです。アクションを伴う世界でそれをやると、相互の行為に矛盾が生じてしまう場合があるから、そういう仮想世界ではもっと速度を落としています。しかし、この世界にはアクションの要素は皆無だから、めいっぱい早くできるというわけです」

「われわれは騙されているわけか」

それが老人にとっての引っ掛かった棘だった。

「時間の流れをいじられてるだけです。起きたことを騙したりしているわけじゃない。情報伝達の形だと、受け取った脳は高速処理しなきゃいけませんが、この方法なら脳にかかる負荷も小さい。そして、その負荷も疲れの一部として取り除いてしまうので、結果的に五分で、心身ともに一日半ほどの休息を取ったことになるのです」

「その便利な書き込みとやらに、問題があってわたしがこうなっているのではないのかね?」

「それは・・・・・・それも違います。正常に働いていますよ」

「そりゃあ、会話は上手く進んでいるようだが・・・・・・」

「それだけじゃありませんよ。その、年金生活中の老人、というあなたの設定を維持しているのも書き込みのおかげです」

自分にとってはただひとつの人生を、設定と言われるとあまり良い気はしない。

「ふむ。たとえば?」

「あなたは定年前、どんな職に就いていましたか?」

「造船所の溶接工だ。最初に働きはじめたときから、四十年ずっと」

「あなたが最初に使っていた溶接道具の名称は・・・・・・ああっと、今思い出さないでください。思い出す前の時点、今、このときは、あなたの脳にはその記憶はないんです。当然でしょう? あなたは二十一世紀に引退した溶接工じゃないんですから。働き始めた二十世紀に使用されていた道具の名前なんて知ってるはずがありません。現実世界で世界中探しても知ってる人間がいるかどうか。しかしあなたは、わたしのこの言葉が終わって、思い出してみたらちゃんと道具の名前を憶えているはずです。それどころか目の前に現物があったら見事に使いこなせるでしょう。それに、はじめて使ったときに先輩に教わったときのエピソードなんかも思い出せます。叱られたとか褒められたとか。今の時点では脳にはそんな記憶はないけれど、必要になったら書き込まれて、本物の記憶のようになるんです」

老人はたしかにその道具の名前を思い出せたし、それを初めて持たされたときに『人に向けるな』と親方からげんこつを食らったことも思い出せた。親方といろいろあったことを思い出そうとすると、次々に浮かんでくる。

 脳に記憶としてきざまれていたことを思い出した、というふうにしか思えない。

「現実の記憶を併せ持っていない状態では、それが本物の記憶のようにしか思えないでしょうね。実際にはあなたは、この世界で二十年しか過ごしていない。年金生活の部分だけがこの世界で体験した部分です。それ以前の六十年ほどは、必要に応じて書き込まれる記憶です。もっと非現実的な世界だったら実感してもらえるんでしょうけどね。たとえば中世風の剣と魔法のファンタジー世界だったとしたら、あなたは習ったこともない剣の使い方に通じている剣士の役だったり、現実にはありえない魔法を操る魔法使いだったりするわけですが、本物のあなたが知っていることしかできなかったら、剣と魔法のファンタジーが成り立たないでしょう? 役割が演じられるように、必要な知識や技は必要なだけ短期記憶に書き込まれるようにできている。ログアウトして現実世界に戻っても、その記憶は残っていますが、剣を振るうことはないし、同じ呪文を唱えても魔法は現実には発動しない。フィクションです。その世界の中でだけ必要なことを記憶に書き込む。それがうまく機能しているからこそ、違和感がない。そしてそれは、あなたのように現実世界の記憶がない場合、本物の記憶のように感じられるんでしょうね。現実世界の記憶がある場合なら、仮想の中だけのものだという自覚が常にあるんですが」

「剣と魔法のファンタジー世界か。そんなものまでが『万人のための社会の一部分』だというんじゃないだろうな」

「人々がそこにありたいと感じるすべての仮想世界が現実世界の社会の一部ですよ。この世界だけしか知らないあなたには理解しがたいかもしれませんが・・・・・・」

「ふむ?」

老人は眉を寄せてチノの説明の続きを待っていることを表現した。チノは続けた。

「現代の現実世界は、物質主体の社会ではないのです」

 年金老人の説得のためにこの話をするのは五度目だった。過去の四回は吉凶五分五分と言えた。現実社会は、物質社会しか知らない二十一世紀の老人にとっては、ディストピアとも言える社会だからだ。チノにとっては良い社会で常識的な現実だと思えるのだが。

「現実世界では人が増えて、物不足に陥ってしまいました。最小限の物で最大限の人口を支えるため、物をすべて政府が管理する閉じた都市が生まれました。その中では個人が所有する物はない。財産はもちろんだし、個人的な記念の品も、なにもかも生きている間だけ政府から借りている。貧富の差はない。政府は万人に衣食住を与え、健康と医療を保証する。働かず、もっぱら消費者として生きている人もいる。一方で働き甲斐を感じながら働く人もいる。働いた報酬は富ではなく現実での贅沢ができる評価ポイントとして得る。たとえばわたしは仮想世界のプロデューサーとして成功しているおかげで現実世界で本物のヨットに乗ることができる」

「ヨット?」

「ええ。この世界の、あの夕陽に照らされた海にも浮かんでるヨットですよ。ただし、ここのような海はない。屋根付きで一辺が五マイルほどの管理された海です。でも、波も風もちゃんとある。そこで、わたしはコンピュータに書き込まれた記憶ではない自分で体得した技術でヨットを操り、対岸を目指す贅沢が味わえる。わたしほどではない評価ポイントを得たヨット愛好家は、シミュレーションルームでヨットに乗る贅沢が味わえる。実際には十メートル四方しかない部屋だと判っているが、必要なスキルや波の揺れや風は、本物と変わらない」

趣味のヨットの話を年金老人にするのは三度目だ。チノが大好きな話だから、どうしてもしゃべりすぎてしまうのを止められない。

「さらに政府は、すべての人民に仮想世界を提供する。その中では、誰でもヨットに乗ることができる。スキルは必要ない。ヨットも現実には甲板の板一枚も存在しない。しかし、評価ポイントなしでも仮想世界でのヨット航海はできます。この窓から見えるあの海のモデルになった太平洋っていう地球で一番大きかった海を横断する旅を味わえるし、もしも望めば、そこに大イカが登場して、そいつと戦う大冒険を体験することだってできる」

「ただし、それが仮想だと知っているというわけか」

「そうです。政府は憲法での制約を受けている。国民を騙さないように。すべての仮想世界はそれを提供する政府によって、仮想世界であることを利用者に知らせるべく作られている。わたしが参加する以前の初期のものでは、常に空に大きな文字が浮かんでいたものもあったそうです。『これは現実ではありません』とね」

老人は軽く噴き出した。チノも釣られて鼻で笑った。

「屋内ではどうしてたんだ?」

「各部屋の天井あたりに同じ文字を浮かべていたそうですよ。でも、現実世界で同じように宙に文字を表示する技術が進んだので、これだけじゃマズかろうってことになったらしい、っていうオチなんですけどね」

「それでこの、いつもついて回る感覚があるのか」

チノは真顔に戻った。

「ええ、そうです。政府が提供する仮想世界にはすべてで、常に利用者に意識付けするしくみが施されている。この世界もそうなってる。わかるでしょう?」

「ああ。いつもその思いに悩まされていた。この世界しか知らないのに、なぜだかこの世界が現実でないということが頭のどこかにある。現実に戻ったらどんな自分になるんだかわからないから、不安でしかなかった。あんたにはわからんのだろうな。自分が実は人間ではないんじゃないか、とか、世界の成り立ちがまったく違うものなんじゃないか、とか」

「ええ、わたしは体験したことがないですがね。あなたの前にこの世界から連れ出すためにお話しした人たちも、みんな同じ悩みを抱えておられた。現実世界で死に向き合う感覚に似てるようですが、何をしていても意識付けられていて忘れることができない、というのは、それ以上にやっかいだったでしょうね」

「ああ。考えてもしかたないから今を楽しもうという結論に至るのはわかり切っているのにな。くりかえし、くりかえしだ。だが、あんたが現れて変わった。まずは、自分がおかしな妄想に取り付かれている狂人や、催眠術で暗示をかけられているんじゃないと判って安心したし、この世界が現実世界の過去の姿を模したものだということだから、少なくともわたしは、こういう姿の人間で、世界の成り立ちも大差ないということなんだな」

チノは黙って小さく二度頷いた。

「だが、あんたは現実のわたしの境遇を明かしてくれない」

「だから、それはわたしを信頼してほしい、としか言えないんです」

「政府とやらに口止めされてるのかね?」

「それは・・・・・・わたしの判断です」

夕陽は水平線にさしかかり、沈みはじめた。老人はしばし無言でそれを見つめた。チノは老人の至福の一時を邪魔せぬよう、だまって待った。老人の瞳に夕陽の輝きが映っていた。その輝きが消えたころ、老人が口を開いた。

「わたしが居なくなったら、この世界はどうなる?」

「ここは閉めます。存在しなくなる」

「どこかに保存しないのかね」

「仮想世界はそこに居る人の今のために存在しています。記録しておいてリプレイを他者に公開したり、プレイを中断して続きをまた、なんて仕組みがある著作物ではない。今はすでにあなたが知覚できる部分しか存在していないし、あなたが居なくなったらそれも存在しなくなる。そして新たな来訪者はないし、このサービスを続けるつもりもない」

「この世界がなくなってしまうというのか? 散歩で訪れるカフェの店員や、あの夕陽や」

「それはあなたの脳に書き込まれる記憶の中にしか存在しない、架空の信号のようなものでしかない」

「きみがそれを言うのかね。脳に刻まれる記憶でしかないのは、現実世界だって、突き詰めればそうなのではないかね」

「事象としてはそうかもしれませんが、でも、われわれは知っている、現実世界では、自分がいないところや人類がいないところも存在し続けているということを。人が訪れることのない山奥にも花が美しく咲くでしょう。ああ、まあ、現実世界にはそんな自然環境はほとんど残っちゃいませんが、たとえば過去、人類など影も形もなかった時代にも、愛でる心がなくても花は美しく咲き、美しい夕焼けはあったんです。それこそが現実世界の特別なところだ」

「自分が知らない場所で、未来永劫自分が知ることのない事が起こっていても、それは起こっていないのと同じじゃないか」

「現実を体験すれば、そうでないことがわかるでしょう」

 ふたりは無言で互いの反応を探るように見合った。

「ふん。それが誘い文句かね。そんな煽りには乗らんよ。わたしを無理やり連れださないのは、それをやるとあんたの評価ポイントとやらが下がってしまうんじゃないかね。だからわたしを説得して連れ出したい」

 老人はその言葉に対するチノの表情を探ろうとしたが、チノは変顔を作って首を振り続ける。ポーカーフェイスのつもりらしい。老人は、さらにつづけた。

「わたしがここに残ると言えば、結局あんたが困るだけなのだろう。わたしは現実世界のことを思い悩む要因は格段に減ったから、この世界で休暇とやらをもっと楽しめるんじゃないかね」

 チノは答えをすぐに思いついたが、それが脅しのようにならないよう言葉を選ぶのに時間をかけた。

「現実世界に居るあなたの身体は、それでも大丈夫です。この世界で二十年経っても現実では二十日ほどです。ちゃんと見守って世話をするスタッフもシステムもついていますから健康は十分維持されます。しかし、この世界は、そういう連続使用を想定したつくりになっていない。現実世界での一時間足らずの短い時間を、なんにもしなくていい数日間として過ごすようにしかデザインされていない。たとえば、ここでのあなたの二十年はどうでしたか。この世界で科学の進歩は感じられましたか? 社会制度が変更になったことは? なんにもなかったはずです。ここは二十一世紀の最初の年を切り取った設定だから、あと二十年居ても変わらない。ここではカレンダーや配信ニュースの類で、年数がユーザに知れることがあるから、暦は進んでいきますが、季節感も繰り返すだけです。今は西暦何年ですか?」

「二〇二一年だ」

「あと二十年経って二〇四一年になっても、ここはこんなですよ。あなたのその肉体も、今は八十代ですが、二十年したら百歳を超えてる。加齢は進みますが、ここでは病気知らず、衰え知らずです。この部屋の家具や家電も、あなたを悩ますような故障など起きない」

「どうせ仮想世界だと知らされ続けているんだ。そのくらいの不条理は問題にならないさ」

「窓の外の景色だって、年を経ても基本変わらない。建物が建ったり減ったりはしますが、建築デザインの変化なんていうのはないから、似たようなのがずっと建ったりするだけで・・・・・・」

 窓の外を振り返り、夕陽が沈み切って暗くなりはじめた景色の中で建築中の建物を探していたチノは、検索の補助をするため、情報の提示を視界に重ねた。そしてある表示を見つけた。

「あの、広場。三十五階建てのマンションになったら、夕陽は拝めませんね」

 正面の取り壊されたアパートメントの跡地だ。土台工事が間もなく終わり、資材が運び込まれる段階まで進んでいる。管理者向けの情報表示によると四カ月ほどでマンションの外装が完成することになっている。あまり幅広くはないが、距離が近いので西向きの視界をほとんど塞いでしまう。

「まさかあなたの差し金か?」

老人はチノを疑うように言った。

「いいえ」

チノは強い口調で否定した。老人が生きがいだと言った夕焼けの眺めを奪うなど本意ではない。コンピュータにはわかっていないのだろうか。この眺望の価値が。何年もなにも建たないで空き地が残るのは不自然かもしれないが、駐車場や公園にするとかいう手だってあるはずなのに。安息こそが、この仮想世界の目的なのに、ただ一人残った利用者の心を乱すような改変など、するべきではない。

「すみません。すぐにやめさせます。駐車場かなにかに変えましょう。あなたがここに残るなら、この眺望は残すべきだ」

 チノの言葉に、老人は安堵の笑みを浮かべかけた。しかし、その笑みは途中で凍り付いた。

「今の、その計画はどうなる? マンションの建設は、そこで働く人の生活は」

「最初からなかったことになります。遡って消すほうが無難でしょう。マンション建設への反対運動で訴訟、だとか、建設会社が倒産して頓挫、とかいうノリの世界ではありませんから」

老人は肩を落とした。

「なるほどな」

 目の前のプロデューサーを名乗る人物が、容易に無かったことにできる。ここはまさに仮想世界なのだということが今はっきりと理解できた。

 老人は目を閉じて、椅子に深く座りなおした。

「この世界での出来事は・・・・・・あの夕焼けは、わたしの心に刻まれていて、あんたがこの世界を消し去っても、消えはしない」

「・・・・・・ええ、あなたが記憶にとどめているかぎり・・・・・・」

チノは困った表情で、自分が自分を許せるぎりぎりの表現を使ったが、目を閉じていた老人にはわからなかった。

 そして老人は目を見開き、チノにたずねた。

「それで、わたしはどうやったらこの仮想世界を出て現実世界に戻れーー」

 チノの目の前から老人が消えた。

 まるで最初から居なかったかのように。

 老人はログアウトしたのだ。本人が現実世界に戻りたいと表層意識で思い浮かべることが、現実世界へ戻る方法だと教える前に。チノにたずねる途中で、すでにそう考えていたのだろう。

 チノはもうこの世界に用はない。世界を消してしまってラボ世界へ移行することもできるし、老人と同じように消えることもできる。最後のひとりになったチノがこの世界から移動した瞬間に、この世界はどうせ消えてしまうのだ。

 しかし、彼はいつもの慣れた方法を取ることにした。手近な扉を開けて、そこをくぐる瞬間に世界を移るのだ。

 入ってきたテラスの扉ではなく、このアパートメントの部屋から通路へ抜けるドアを選び、チノはこの世界を後にした。


「こちらです。どうぞ」

 仮想ラボを経て現実に戻ったばかりのチノは、まだ身体に『仮想酔い』が残っていたが、ふらついているように見えぬように慎重に歩を進めた。

 医局の中を案内しているのは、さっきまで仮想のラボでチノを補佐してくれていた青年だった。白を基調とした廊下のつきあたりの開いた扉の脇で、チノに先に入るように手のひらで促し、青年はにっこりと微笑んだ。

 誰しも、この部屋に入れば、自然と表情がほころぶ、ここはそういう部屋だ。

 一面の壁が透明になっていることを除けば、家具も器具もなく殺風景な部屋で、五人のスタッフが透明な面から隣の部屋を見下ろして立っている。隣の部屋は吹き抜けのようになっていて、向こうの部屋からすれば、チノが入った部屋は二階にあたる。チノと青年も、他の五人のスタッフのように透明な面のそばまで行って、隣を見下ろした。

 明るい部屋に二十個の保育器が並んでいた。その間をパッドを持った白い服のスタッフが数人歩き回っていて、それぞれの保育器の制御盤の数値や中の様子を観察しては記録しているようだった。

 保育器にはそれぞれ乳児が入っていて、手足をバタつかせている。

「みんな、いい数値ですよ。長時間連続して仮想に籠って脳にいろいろ書き込まれていた弊害は、今のところ見られません。大人なら、休養たっぷりっていう状態ですね」

 青年は、乳児たちとそれを眺めるチノの表情を見比べながらつづけて言った。

「問題の保育官ですが、政府当局は罪に問うつもりはないようです。元の職にはもうもどれないでしょうけれどね」

 その保育官は、乳児たちの世話をするのが仕事だったが、いつしか乳児の泣き声が苦痛になっていた。乳児を仮想世界に接続することは違法ではないし、時間を決めて楽しい童話のような世界を体験させてあやすための世界もあった。しかし保育官は『安息』というキャッチフレーズに惹かれて、『黄昏の窓辺』を使ってしまった。赤ん坊たちは泣かなくなった。だが誰も帰ってこない。ログアウトの時間設定もなく、自分が帰りたいと思わなければ帰ってこれない世界で、しかも現実の四百倍もの速度で時間が進んでいることで赤ん坊たちに二十年もの時を体験させてしまったことに気が付き、保育官は運営に泣きついてきたのだった。


 チノは並んだ保育器の一番右手前の乳児と目を合わせた。

 乳児は知性を感じさせる表情で、不思議なものを見るようにチノを見つめていた。目が合ったのは単なる偶然かもしれなかったが、チノはこの赤ん坊が、あの最後の老人なのではないかと考えていた。そうだとしても、幼い頭脳には二十年分の年金生活の記憶を留めておく力はなく、急速に知性の光は窄み、やがて視線がせわしく部屋のあちこちを行き来するようになっていった。

 この子たちが大きくなってチノの姿を見ても、何も思い出せないのだろう。

 彼らがあの世界で大人としてチノと会話できていたのは、コンピュータが必要に応じて、あの世界での役割が果たせるように言語知識や思想を赤ん坊たちの脳に書き込みつづけていたためだ。現実世界では赤ちゃん言葉すら覚えていないのだが、仮想世界で役割を演じるための短期記憶の書き込みは本人の言語スキルを必要としなかったし、チノに反論するための論も、場合場合にふさわしいものをコンピュータが引用して渡していただけだった。

 ある意味、チノは霞を相手にしていたのだ。単に、駄々をこねて泣く赤ん坊をあやしていたのだとも言える。

 だが、彼らに嘘をつかなかったことは、自己満足だけでなく、彼らの現実世界での目覚めに傷跡を残さずに済ませる意味があったはずだった。

 チノは透明な壁から離れながら、ささやくように言った。

「リアルへようこそ、ベイビィ。きみたちの人生は前途多難で波乱万丈だ。幸運を祈る」


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