発端
ながい梅雨だった。
僕も少なくとも三日は太陽を拝んでいない。細長い雨糸が街全体へ垂れ堕ち、樹木といわずコンクリートといわず濡らし続ける。
そろそろ晴れ間ものぞかせてくれないことには、我らが非日常減少究明クラブの活動も停滞気味に……という人間の気持ちなど知ったことかとばかりに歓喜の声をあげ続けるのが水田の住民たちだ。
「ちょっと湿気が入り込むでしょ!」
部長の矢橋立花が嫌な顔をするのを無視して、僕は部室の窓を開けた。
同時に騒がしいカエルの合掌が部屋を満たす。
「閉めてよ栄之助!」
「少しは気晴らしになるかと思ってさ。よく聞こえるだろ?」
××高校の二階の部室からは、校舎の裏側に面した水田が一望できた。繁殖シーズンに入ったようで四日前から、ひっきりなしに鳴き声が響いてくる。
「立花、聞いてもいい?」
「──何よ」
雑誌を眺めたままで生返事をする。ここのところずっとこんな具合だ。
日頃、突拍子もない発想と行動力で部員たち──実質僕ひとりだが──を振り回す立花が、妙にふさぎがちなのも天候のせいだけではあるまい。
「時折、ゲコゲコいう合掌に混じって別の鳴き声があるだろう?」
僕は窓へ向けた耳に手を添えた。確かに今も聞こえてくる。
グブォォォォ……グブォォォォ……という、芸術性の欠片もない音調ながらも、どこか悲しげな両生類の声が。
「あれもカエルの声だよね?」
「──どうしてわたしに聞くの」
「立花ならカエルに詳しいだろ。なんてカエル? ヒキガエル?」
「ヒキガエルは田んぼに産卵しないわよ!」
「じゃあ、なんだろう? あれが噂の人面蛙かな?」
「人面ガエル?」
ようやくこっちを見て、怪訝そうな顔をする。
「一年生で見たって子がいるんだよ。昨日、用水路の淵にガマの置物、ほら縁起物の瀬焼き物のガマ、あれが放置されてると思ったら、ヌメヌメした肌の本物だったんだってさ。三十センチはありそうなのが」
「ウシガエルじゃないの? サイズ的にちょっとありえないけど」
「違う。両目が側面についてなくて、人間みたいに正面についてたんだ。目撃した子が悲鳴あげたら、水路へ飛び込んだんだと」
「君の耳で断定してくれよ」
半開きにした窓のほうへ手招きするが、立花は動かない。
「聞くのが嫌なのかい? 君らしくもないな」
「別に……」
「ジャク師のことがあるから?」
「関係ないわよ!」
立花はびっくりするぐらいの大声を出した。
「なんで急に石神井先生のことが出てくるわけ⁉」
「え、だって、立花好みの謎なのに食いついてこないから心配するだろう? トラウマになってるのかなって」
「全然関係ないから! そりゃ惜しい人を亡くしたとは思うけどさ」
「お通夜のときもそれだけ言って黙り込んでたね。一時は石神井先生の部屋へ押しかけるぐらい懐いてたのに、先生浮かばれないなあ」
「あんたこそ今頃何よ。陰でジャッ君なんて呼んでたくせに」
ここで説明しておく。石神井先生とは、去年僕らの高校へ転任してきた生物教師のことである。
やや常軌を逸したレベルで両生類、特にカエルが好きで、理科室で珍種のカエルを嬉々として飼育する姿が印象的で、また風貌もどことなくカエルの幼体、つまりオタマジャクシを思わせることから、本名の石神井のアナグラム的意味も含めて、オタマジャクシのごとし教師、すなわちジャク師という仇名を付けられていた。
この異様なニックネーム、はっきりいって蔑称については、当人の耳にも聞こえていたはずで、内心不快に感じていたことは想像に難くないが、これほど故人の特徴を的確に指摘し得た仇名も他にはなかった。
そう故人。石神井先生は突如、自死を遂げた。
動機は失恋説が囁かれているが、真相は三か月たった今も不明のままである。
「僕が小四まで住んでいた所に仲良しのお兄さんがいてね。やっぱり石神井って名字だったから、ジャッ君て呼んでたんだよ」
「そりゃ初耳ね」
立花は立ち上がって窓際へ向かい、雨粒が当たるのも構わず顔を出した。カエルの合掌と外の風で頬を冷やしながら何かを考えているようである。
やがて腹を固めたように言った。
「いいわ! 正体見極めてやろうじゃない人面蛙とやらの!」
「やる気になってくれたんだね」
嬉しくなって僕も手を叩いた。
「聞きたかったんだよ。君からその台詞を!」