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ドーナツの穴  作者: 久架 雪歩
一部
7/15

一部四話

お待たせしました。

本当にお待たせしすぎて申し訳ないです。少しずつは頑張っています……。


今回は不穏な気配を察知した一応主人公と、話したがりの軽い会話です。常識、とはいつの時代も難しいものですね。


それではごゆっくりどうぞ。


 ナイトの口からは、自然とその言葉が流れ出していた。

 ルーから、隣国のコレール王国とピッカート王国の間で戦争が起こると言われたのだ。ミゼリコルディア辺境伯に近しい存在としては、民を想い戦争を避ける方向で動きたいと考えた結果である。

 本当に戦争が起こるならば、の話ではあるが。


「そもそも、戦争が起きるって根拠は何ですか」

「……ヴィントが話したから、では少々弱いかな。こればかりは勘と言わざるを得ないのだが……。

 昨夜とある商人たちが旅立ったという情報を、酒場のマスターより聞いた。この商人の足取りを追ってみると、コレール王国方面に向かった形跡がある。夜の森を、だ。ただの商人がわざわざ夜の森を通る意味が分からない」


 言われてみると確かにそうである。国境の森は、一応オオカミなどの動物が歩いている。襲われたらたまらないだろう。普通ならばこの街で休んで、日が出たら森を抜ける方法を選択する。

 慌てて国に帰る必要が出来た。となれば昨夜の事件を国へ報告する必要があると考えるのは、ある意味必然ではなかろうか。


「……食堂でも話題になってました」

「なら確定だな。情報を早めに持ち帰る必要がある。それも魔術を頼らない方法で。そうなれば怪しいとしか言わざるを得ないだろう」

「でもなんでヴィントさんが話していたからってそう思ったんですか」


 ナイトがルーに詰め寄ると、ヴィントは肩を竦める。距離を詰めすぎたことに気付き、ナイトはベッドに腰かけた。ルーはテーブルに肘を付き溜息を吐く。


「あいつは嗅覚が鋭い、と言えばいいかな。本当にヤバくなったら確実に逃げおおせるし、また面白そうなところに的確に現れる。また自分の小説のネタになりそうであれば、目の前で人が死んでも動揺はしない」

「まさか」

「いいや、事実だ。だからこそアレは狂人と呼ばれても否定はしなかった」


 人が死んでも動揺しないなんて。それは流石に人としてどうなのだろう、とナイトは思う。しかしルーは奇妙に断言しきっている。

 だが、思い出してみると確かにヴィントは、性悪と呼ばれて不快感を露にすれど、狂人と呼ばれても否定はしなかった気がする。またナイトが感じた、あのうすら寒い嫌な予感の、雰囲気ともまた似ていた。

 何事か考えていたらしいルーが、しかめ面を作る。


「ああ、そういうことか。だから今のタイミングで奴がここに来て、そして戦争の話が持ち上がっているのか」

「……どういうことです?」


 訝しげに訊ねるナイトに、ルーは肩を竦める。


「言っただろう奴は嗅覚が鋭い。

 以前に聞いたことがあるのだが、奴は小説を書く際はインスピレーションを大事にするタイプだ。職人気質、と言えばいいのか? 書きたいという衝動が無ければ良いものが書けないのだとか」


 ナイトは似たようなことを聞いた気がした。本家長女が以前言っていたのだったか。隣の、隣の国でもヴィントの小説は出回っているようだが、その貴族令嬢がヴィントの熱心なファンで権力に任せて自分の好みの小説を書かせようとしたのだとか。だが、ヴィントの正体が不明だったこともあって逃げられたとか、なんとか。

 その時はそんなものかとナイトは思ったのだが、今にして思うと良くも悪くも自分に嘘を吐けなさそうな。そんな印象がある。難儀なものだ。


「インスピレーションを湧かせるに、実に手っ取り早い方法として、書きたいと思わせる場面に遭遇することが大事だと言っていた。

 時にキミ。隣国の王に妃はいるか? またこの国の王子あるいは王女の名前などは?」


 急に質問を振られて、ナイトは一瞬だけ返答に詰まる。

 もちろん知っている内容だ。ここはコレール王国と一番隣接している領で、自分はつい最近までその中枢に近い場所にいた存在なのだから。詳しいことは知らずとも、概要は知っている。

 また王子あるいは王女の名前も、貴族――元貴族として、常識と言えよう。ただ、ルーが急にその情報を求めてきた理由も、また情報収集の一環としてその情報を得られていなかったのだろうかと言った疑問が邪魔をする。

 ルーは肩を竦める。


「答え合わせと思ってくれていい」

「分かりました。

 ――コレール王は、先王陛下が崩御なさって五年になりますが、今だ妃はいないとか。また先王陛下が崩御されたのが、十五の時だったとかで」

「今二十か。……成人年齢が低いのは寿命の問題か?

 蛇足になるが、先代の崩御の理由は? それともそこまでの情報はない?」


 聞かれナイトは首を傾げる。


「病で倒れたとしか……」

「……暗殺だったとしても、本当だったとしても、結果今のコレール王はとても辣腕を振るわれておいでか」


 ルーはまた肩を竦める。ナイトはそのお隠れになった理由を疑ったことはないが、そうなのである。あまり身近でもなかったが、権力闘争などで荒れる王宮の若き主が、愚策で批判を受けている噂を耳にしたことが無い。また、すぐそこの隣国の街の様子を見ていると、特に貧しいと言った印象も受けない。見栄を張っているのであればまた別かもしれないが、民の様子を見ていると、暗く塞ぎ込んでいる印象もないからだ。

 若き王は、王宮の狸をよく、御しているらしい。その上で野心に燃えることが出来るのだから、それは完璧と言わざるを得ないのかもしれない。――この、ピッカート王国とは違って。


「話の腰を折ってしまった。コレール王には妃がいないんだね。

 で? この国の王族たちは?」

「第一王子、アルバ様。第二王子、ルカ様。第一王女、ローザ様。第三王子、ディーノ様。第二王女、リリアーナ様、の順番でお生まれになったと聞いてます。ディーノ様とリリアーナ様は双子と伺いました。

 併せて、継承権は順番通りではないとも」

「いい、それ以上は本当に本格的に本題から外れる。それに、今のキミには直接的に継承権争いのことは関係ないだろう?」


 それもそうだが、誰が玉座に座るかによって民の暮らしが変わる。全く関係ないとも言い切れない。……だが、今の議題には関係ないのも確かである。

 ナイトは肩を竦める。


「……で? アンタは答え合わせして何を確認したかったんです?」

「アレはネタバレが好きじゃないから。流石に詳細までは教えてもらえなかった。

 だが、おおよそ予想される次の小説の内容が分かった」

「……新作の内容が分かったんですか!?」


 周辺諸国の令嬢たちがこぞって知りたがる内容だ。それこそ、それを然るべき場所に知らせたら金一封はもらえるかもしれないほど、貴重な情報をルーは握っている。

 それを今から聞けるかもしれない興奮に、ナイトの目が輝くが、対比するようにルーは遠い目をする。


「そう興奮できる内容ではないさ。名前を変えるだろうが、結果モチーフが誰だか分かりやすかったら大問題だぞ。

 あまり流通させる気がない方の小説で助かった」

「……はい?」


 あまりにも不可解な呟きに、ナイトは首を傾げる。ルーはとうとう明後日の方を向いて遠い目でどこかしらを見上げた。


「ちなみに、同性愛についてどうお考えかな?」

「禁忌です」

「そうだろうな。ただ、その禁忌は読み物として楽しむ分には規制されない。娯楽だし、現実ではないからな。この国ではその程度の認識なのだろうが、果たして隣国はどうかな?」


 ナイトはルーの言っている意味が分からなかった。

 確かに隣国とピッカート王国では土地が違うのだから愛に対する考え方が違うのは間違いない。この国では一夫一妻制だが、隣国では一夫多妻が許容されていたり。この国では恋愛事情は秘められている方が望ましい風潮だが、向こうでは特に秘める必要を感じていない風潮であったり。色々と違うだろう。

 ただ、向こうの国では同性愛が許容されていると聞いたことが無い。あの、恋愛を秘めないコレール王国で、だ。またこの国では、教会より同性愛は禁忌とされている。だから、当然向こうでも許容されていないものと思っていたが。


「だが世継ぎの問題もあるのに、いつまで経っても向こうの王が妃を娶らないのは不自然だろ? 臣下を掌握しきっているなら、誰をいつ迎えようが問題ない。

 それなのに、妃がいない。――そして、今回のヴィントだ。もしかしたらコレール王はこの国の王子の誰かが好みなのかもしれないよ?」


 どこか冗談めかして言われた言葉だが、冗談ではない。そうなれば国が荒れる。今以上に。だが、ルーは確認を抱いているようだった。


「……私としては、別に良いと思うけどね? 見目麗しい人らがくっつき合ったりして、時には他の存在に惑わされて悶々とした日々を過ごすというのは。個人的な嗜好としてはガタイが良すぎる人らが、くんずほぐれつというのはあまり見たいと思わないが、その点で言えばヴィントは安心かな?

 アレは自分の美的センスを大きく逸脱したモノを書こうとは思わないから」

「で、でも物語でしょう!? ただの偶然でしょう? そんな、娯楽が現実世界に影響を及ぼすなんて!」

「卵が先か、鶏が先か。あるいは神が先か、人が先か。今となってはどっちが先だってどうでもいいのだが、それに固執したがる存在も何人かいることは知っているよ。ただ、それはそれだ」


 何が言いたいか分からないが、とりあえずルーは同性愛について何も思っていないことだけが分かった。そこでようやく気付いたが、また話がずれているような気がしている。

 疑問を口にする前に、ルーは言う。


「冷静に考えて、見初めた系で侵攻してくる気があるなら、確かに同性愛的方向性じゃないとダメなんだよな。普通に姫と結婚したいなら使者立ててプロポーズすりゃいいんだから。

 誰が巻き込まれたか知らんが、いやぁ、実に面白いことになったかもしれない?」

「アンタなぁ……! 民が巻き込まれてんのに面白がってる場合か!? 止めなきゃだろ!」


 あんまりな態度にナイトが吠えると、ルーは眉を寄せた。


「……まぁ、配慮に欠けた発言ではあるか。申し訳なかったな。だが、うまいコト阻止すれば面白がっていてもいいんだろう? 今回はヴィントが関わっているから戦争を避けられるかは、分からないがまぁ、やれるだけやれば良いんだろ?

 ――しかし、アレでよく今の今までブタ箱に収監されていないものだよ。そろそろ誰か通報してやった方が世界平和に繋がるんじゃないかねぇ」

「通報って、どこに」


 言われ、ルーは顔を顰めた。考えていなかったのか、それとも別の理由からなのか。ナイトは分からなかったが、言い返すことに成功した感触が残る。


「黙秘権を行使する」


 口をへの字にゆがめ、ルーは完全に黙ってしまった。黙られるとより気になるのは人間の性と思われるが、ルーはどうしても言いたくないようだった。

 ナイトが溜息を吐くと、ルーが呟く。


「戦争を止める、ねぇ……」


 ルーは椅子に深く腰掛け、顎に手を当てる。少し遠くを見るような目で考え事を始めたようだった。

 戦争が起こるという言葉を真実と考えるとして、それを止めるのにどれほどの猶予があるのだろうか。ナイトでは情報不足のため、よく分からない。例えば、コレール王に直談判をするのか。根拠も薄いというのに。むしろその行為が引き金を引く可能性だって大いにありうる。

 領民を守りたいという思いから口走ったことであるが、その難易度が難しいことを改めて感じる。

 まずはどうやって止めるか。ナイトには全くと言って良いほどその案が出てこない。ルーはやけに確信しているようだが、そもそも戦争の原因が王族の婚姻に関係することなのだろうか。にわかには信じがたい。

 だが、この国とコレール王国とで戦争が起こるならば、今のところそれ以外には考えられないのも事実だった。こちらから攻める気はない。向こうから攻めるとしても、相応の理由が無ければ国際問題になる。


「――キミの考えた通り、建前として婚姻が承諾されないから、というのは多少弱い。確かに力関係が明確になっていて、力関係が下の国が上の国の要求を跳ね除けるのは蹂躙の理由になりうる。

 ただ、コレール王国とピッカート王国の力関係は明確になっていない。その状態で婚姻を問題として戦争を引き起こすのは不適切に過ぎる」


 ルーの言う通りである。コレール王国とピッカート王国は、ダンジョンと穀倉地帯を有しているという差で対等な関係を築いている。だから、婚姻一つで戦争にはならない。多少気まずい関係になる程度だろう。

 国際的に批判されない程度の、戦争になりうる理由が、必要なのだ。


「例えばコレール王がこの国に訪れて怪我を負ったら?」

「……それは戦争になりますね」

「そういうことだ。聞く限りコレール王はちゃんとした建前を作れる人間らしいな。今までは小国相手だったから、支援を名目に攻め入ったりしていたのだろうが……今度はそうもいかない。あらかた周辺の小国は呑み終わったらしいから、まだしばらくは内政に集中するだろう。ならば、次の戦争までは五年は見ないとならない。これでも早い方での試算だな。

 だから、時間的猶予はかなりあると考えてくれて良い。だから打つ手はたくさんあると考えていい。……ところでキミ、コレール王国への旅行の経験は?」


 聞かれ、とっさに答えられなかった。今、ルーはなんと言ったのだろうか。


「はい?」

「コレール王国への旅行の経験は? 一番手っ取り早く戦争を止めるには交渉を行うべきだろう。寝ぼけたことを言ってんじゃねーよ」

「ね、寝ぼけてないし……!」


 反射的に反論したは良いものの、いまだに何を言われているか分からなかった。意味は分かる。だが、なぜここでコレール王国への旅行の話が出てくるのかが分からなかった。


「何故ここまで言って分からないのかね。交渉しに行くなら、多少でも土地勘ある奴がいた方が対策立てやすいに決まってるだろうが。交渉の餌を何にするか、何を突けば有利になるのかとか。大事な要素だろうが」

「……何を突けばって」

「文字通りだが? 交渉において一番重要視されるのは、少しでも有利な立場に立つこと。有利に立てれば交渉を通しやすくなる。如何にして不利な立場に立たず、有利になるか、だ」


 知らなかった。ナイト自身が交渉のテーブルに立つことはなく、またそんな重要な話し合いの場には立ったことがないのだ。いづれ、平民になる身分。防衛や経済に関わる重要機密に触れさせられない、と判断されていたのかもしれない。


「つまり、交渉とは情報の質と量で殴り合いをしているようなモノなんだよ。動揺を相手に見せないなどのテクニックは、最終的に情報の質と量には叶わない。相手の弱みを握るだけでも交渉はぐっと有利になるんだ。戦争を避けさせるには、国が得られる利益を潰すほどの不利益を叩き付けないとならないから、下調べが非常に重要なの。

 少しでも土地勘がある奴が一緒にいた方が、何かと情報収集しやすいだろう? だからこそキミの旅行の経験の有無が重要になるわけ。オーキードーキぃ?」


 最後の単語はさておいて、そこまで解説されたなら多少は理解できた。だが、ナイトは旅行と言うほどコレール王国に踏み入った経験はない。真相は不明だが、両国の友好のために隣り合った領土で友好を深める程度に訪れる程度だ。ナイトはおまけ程度でしかなかったために、街を自由に歩いたことはない。これは、経験と言えるのだろうか。応接間でお茶を飲んでいた程度なのだ。

 ナイトの表情を見て察したか、ルーは肩を竦めた。


「さもありなん。まぁ、過度な期待はしていないから安心してくれたまえ。あったらいいな、程度だ。そうだな、今回はキミには助手を頼みたいから。そんな落ち込まなくて問題ない」

「……フォローのつもりでしょうか。ありがとうございます」


 存外ルーは優しいのかもしれない。本人に直接言ったら嫌な顔をされそうではあるから、言わないが。

 とは言え助手と言われても何をすればいいか分からない。ナイトが出来ることはそう多くはない。多少の魔法と、文字を書くことと、多少の剣術の心得程度と、少しの教養。本来ならばこれでも十分恵まれているのだ。文字の読み書きは、単なる平民には出来ないことなのだ。計算も複雑なものは難しいが多少は出来るため、商人を相手にする際騙される心配は減る。その程度の教育しか受けていないのだ。

 一般人程度の能力しかないというのに。


「今回の計画に、キミは欠かせない存在と言えるほど重大なキーパーソンだ。……ただ、今日はもう遅い。詳しくは明日以降話すから、キミはもう眠ると良い」


 言われ、頭を撫でられ、ナイトはようやく眠気を自覚した。この部屋のベッドは二つある。片方をこのままナイトが占領してしまっても、問題はないだろう。

 素直に横になることに決め、ナイトはルーに声をかけた。


「……おやすみなさい」

「――ああ、良い夢を」


 そう告げたルーはどこか悲しそうな目をしていた。




 ――暗い森。月もなく、星明りを頼りに、どこかへ向かって走っていた。

 早くその場から離れ、遠くへ行かねばならない。理由は分からないが、だがそう思った。『捕まる』前に、早く。

  胸の辺りが苦しい。気付けば息が荒くなっていた。木々を避けて、可能な限り枝を折らないように『俺』たちは逃げていた。これが終わったら『二人で』どこかへ行くんだ。仕事なんて忘れてどこかへ。約束したから。だから、こんなところで終われるわけがない。

 ただ、こんな森の中で枝を折らないように逃げ回るなんて無理だ。臭いだってどうしても残ってしまう。くそ、ドジを踏んだ。せめて『俺』はどうなっても良いから、コイツだけは、せっかくなんだから広い世界を。

 繋いでいる手の感覚だけがハッキリと伝わってくる。

 ――ふいに後ろを振り返る。

 その小さい影は、どことなく頼りなさげに見えた。何を言っているか分からない。それでも『俺』は心配させまいと笑顔を見せた。と、思う。自分の姿は自分では分からないから、どんな顔をしているかは分からなかった。

 その影の後ろに見えた光景。それに『俺』は目を丸くして、手を強く引いた。小さい影をそうやって強引に扱うのは少し躊躇われたが、それでもコイツを守るためなら仕方ない。

 コイツが小柄なことを良い事に、俺は完全に影に覆いかぶさった。途端に、焼け付くような痛みが走る。一回だけではなく、二回も、三回も、四回も。

 絶対に、コイツだけは守り切らないとならない。……ああ、でも、約束してたんだけどな。



「――海に……あれ?」


 浮き上がるように目覚め、奇妙な感覚に囚われていた。心に空白を感じた。底の空いた桶に水を注いでも、満たされないように。起き上がる気力が不思議と湧いてこない。

 涙が止まらない。次から次へと溢れては流れていくような感覚を覚えていた。宿屋の天井が滲む。窓を見ればまだ外は暗かった。このように中途半端な時間に目覚めたのは初めてで、横向きになっては身を丸める。

 満たされないのが、苦しい。何か大切なものを失い、そしてそれが何かも分からない。ただ失くしたことだけは明確に心に焼き付いていた。

 寒い。布団は肩まで被っている上に、今は春。花が咲き乱れ、寒さから脱した喜びに満ちている季節。だと言うのにどこかに刻まれている喪失感から、今まで味わったことが無いほどの寒さに震えていた。

 ――どんな、夢を見ていたのだろうか。


「うみに……」

「――、まったく。キミと言うやつは」


 やわらかいこえが聞こえる。無気力のまま、滲んだ視界に影を収める。ソレはただこちらを見下ろしていた。

 ソレは頭をゆっくり撫でては、もう一度やさしくなまえをよぶ。


「――、海は、また今度行けばいいじゃない。今はまだ目覚めるには早すぎる。もう少し休んでいて良いから」


 促されるままに、彼はまた眠りに落ちる。

 

願わくば。彼の見た夢が、夢でありますように。


次話もジワジワ書いています。次回更新までしばしお待ちください。

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