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ドーナツの穴  作者: 久架 雪歩
プロローグ
1/15

プロローグ 前編

 初投稿です。更新頻度は不定期になりますが、一話一話確実に更新していきたいです。

 要素として異世界転移や異世界転生が含まれますが、メインの要素ではありません。同性愛表現も同じくメインの要素ではありません。また主人公が絡んだ甘酸っぱい恋愛などは期待できません。よって主人公中心のハーレムもないです。悪しからず。

 基本的に(ほぼ)なんでもありな、お祭り騒ぎな感じになると思います。自分の書きたいこと、やりたいことをやる、みたいなイメージです。その結果、残酷な描写が含まれます。可能な限り直接的な表現は避けていく所存です。


 また、サブタイにもある通り、今回はプロローグの前編となります。前後編に収まるよう頑張ります。

 表現の癖として、自分の中でここで句読点、という場所に点を打ったりしているので読みにくい可能性があります。大変申し訳ありません。また、同じように台詞と地の文は自分で読み返しやすいように行を開けさせていただいてます。

 そのせいで読みにくく感じられた場合は大変申し訳ありません


 文字書きとしてひよこもひよこですが、温かく見守っていただければ幸いです。

 長々と、ダラダラと前書きを置いてしまい申し訳ありませんでした。本編をお楽しみください。


【4/14 追記】

 プロローグがあまりにも長すぎたので、前中編として公開していた分を前編とし、中編として公開していた分に次とその次の話を挿入させていただきます。

 今までの分を読んでいただいた方は申し訳ありません。長くなりすぎました。

 ――今日は最悪な日だ。

 彼はそう思った。

 今日は曇天だった。黒猫が目の前を横切って、靴紐が切れた。鳥の声は一つも聞こえず不気味だったし、昼食のカトラリーが何故か曲がった。

 何がどうしてこんなに不運が続いたのか分からないほど、悲惨な出来事が立て続けに青年を襲った。

 どちらかというと彼は不運な方だという自覚がある。兄が優秀な分、自分の無力さが際立つ。不得意なこともないが、得意なこともない。

 勉強だって成績は平均くらいだし、身体能力だって何をどうカバーのしようがあるだろうか、すべて平均だ。術の扱いだって同年代で平均程度。何も、突出したところはない、平凡人間なのである。彼は。

 せいぜい大人しく兄のサポートをするしか能がない。そんなのだから、人望もあまりない。

 ――物心ついた時から、彼には何かが欠けているような。そんな寂しさがずっと付きまとっていた。それは両親からも、兄からも、使用人からも期待されないという疎外感から来ているのだろうか。

 分からなかったが、そういうわけで、彼は生まれてくる場所を間違えたと自覚していた。こんな貴族の家ではなくて、平民の家だったら。平凡で幸せな暮らしができたに違いない。

 そうした疎外感を感じながら十年以上生きてきたが、今日ほど酷い一日は存在しない、と胸を張って言えるだろう。

 ……何せ、彼は今。家族である存在から殺意を向けられているのだから。


「何をしている。そこを退け」

「――あ、あにうえ。どうしてでしょうか」


 震え声の彼は、兄の行動が理解できていなかった。

 彼は貴族だ。だが、分家筋の次男だ。成人がまだで、家から追い出されていない。

 だからまだ一応貴族だ。分家筋は本家筋を守るのが必然。だからその教えに従って彼は、本家の次男をその身で庇っていた。誰から。――本家の次男に剣を向ける、実の兄から。

 ランプの黄色い灯りに照らされて、剣が怪しく光る。それは自分越しに本家次男に向けられている。

 なぜ、分家筆頭筋の長男が、本家次男に剣を向けているのだ。なぜ、この本家屋敷のそこかしこから怒号が聞こえてくるのだ。

 彼には理解が出来なかった。

 今日は本家長女の婚姻の日。めでたい日だ。天候こそ悪いが昼から宴を開催していた。

 曇り空だったが、涼しい気温だった。外にテーブルを広げて、ビュッフェ形式で本家筋も分家筋も、それから花婿の一族も楽しく料理を囲んでいたではないか。その楽しそうな光景は、つい数時間前の出来事だったではないか。

 ――それがどうして、初夜という大事な時に、本家の屋敷に分家筋が、物々しい装備で上がり込んでいるのだ。


「どうして? ジュリアが俺を選ばなかったからだろう?」


 さも当然と言いたげな回答。そのあっけらかんと天気の話をするように出された強欲に、彼は信じられない思いを抱えていた。

 兄は本家の長女――ジュリアを特に想っていなかったはずだ。つまりこれは嫉妬からなる凶行では、ない。だが普段から兄は向上心が……出世欲が激しかったのは、知っている。つまり、兄は出世欲のままに本家の長女と婚姻するつもりだったのだろうことが、窺える。だが思い通りにならなかった。

 此度の婚姻は政略結婚だ。隣の領地との友誼を深めるための、婚姻。家格もつり合い、何より双方に利益のある取引だ。兄もそれは納得していたのではないだろうか。それなのに、どうして。


「俺はこのミゼリコルディアを思って行動している。友誼のための婚姻だ? ふざけるな。不穏分子はすべて排除が当然だろう? それともお前は『尊い犠牲』になる気があると」


 兄が言う尊い犠牲とは、きっとおそらく彼の死の理由を歪曲し、美談に仕立てるという意味なのだろう。それを察した。描かれるであろうシナリオも半分は読めたし、この兄は弟を殺した手で、自分の流した涙を拭うのだろう。

 別に兄のためになるのであれば、この疎外感を感じなくなるのであれば、それでも構わないと彼は考えていた。――次男は長男のために生きて、死ぬモノなのだから。

 だがそれでも納得できないことがある。彼は兄に向かって吠えるように問いを投げた。


「で、ですが! この子は幼いじゃないですか! 幼い子を手にかける気ですか!?」


 彼が背に庇う子供は、十にも満たない幼い子供だ。顔を青ざめさせて震えている。泣いていないのは恐怖があまりにも強すぎるからだろうか。それとも自分を守る意思を見せている彼の存在があるからか。

 子供はこの異質な空気の中、見捨てられまいと必死に服の裾を掴んでいる。同じく次男という立場から、彼はこの少年に多少なりとも情を抱いていた。それも併せて、彼は少年だけは守ると強く、強く決意を固める。……きっと今頃、屋敷にいた者たちは――。

 なにより、子供を怯えさせて、あまつさえ殺すなどと。彼にとって、それは赦しがたい行為だと思われた。

 だが現実は無情。兄は彼に向けて、剣を、大きく。


「ち、父上! これはどういう事ですか! まさか本当に幼い子供を殺めてまで本家を乗っ取る気なのですか!?」


 青年は部屋の入り口に向けて大きく声をかける。兄は剣を振り下ろす手を止め、部屋の入り口を注目した。


「何?」


 ――だがそこには誰もいない。

 兄が視線を戻すと同時に窓が割れ、幼い子供を抱えた彼は闇夜の中、窓から屋敷を飛び出していたようだった。

 見れば無様に地面に着地し、森へ駆けていくところではないか。舌打ち交じりに、兄は部屋の外で控えていた部下たちに指示を投げる。


「不穏分子は可能な限り排除するに限る。アレを追え。弟は殺しても構わないが、子供を殺すことにためらうな。今は夜で、逃げた場所は森だ。子供連れでそう遠くへは行けまい。だが油断するな。知っているだろうが、あの森には奇妙な伝承があるからな。

 死体には獣にかみ殺された痕を、現場には獣が暴れた跡でも残しておけ。俺は屋敷内に生き残りがいないかなど確認をする。――繰り返すが、油断は、するな」

「御意。全てはミゼリコルディアのために」


 指示を受けた部下たちは一礼をするとその場から立ち去る。割れた窓を見て、兄は再度忌々しそうに舌打ちを重ねた。


「――無能のくせに煩わせてくれやがって」




 彼は闇夜の中、森を走っていた。とはいえ彼は特別体力があるわけでもないし、魔法が使えるわけでもない。

 しかも子供を抱えながらだ。速度はあまりない。屋敷からは少しも離れていないだろう。後ろを振り返っている余裕はないが、そんな気がした。

 兄が優秀ならば、その部下たちも優秀だ。すでに追手の気配を感じる。

 彼は色々な意味で顔を歪めた。その苦しそうな顔を見たからだろう。少年は彼に声をかけた。


「お、にいちゃん、だいじょー、ぶ……?」

「うん、平気だよ。これくらい。でも静かにしてないと、怖いおじさんたちがこっち来ちゃうから。シーね?」

「……うん」


 少年は不安そうな顔をしていたが、彼の言うとおりに口を閉じた。……おそらく舌を噛んで大変なことになるリスクは減っただろう。

 ――彼は運の悪いことに屋敷から飛び降りた際、足を捻っていた。今はまだ無視できる程度だが、じきに痛み出し、熱を帯びるだろう。そうなれば逃げるのに、更に不利になる。

 どこか身体を休めることができて、また見つけにくい場所はないのだろうか。

 懸命に視線を巡らせても、見えるものは木々と綺麗な星だけである。月でさえも彼の味方はしないのだろうか。

 唯一幸いなのは、自分と少年と。それ以外の息遣いが近くにないということだけ。だが、それもじきに騒がしくなるだろうとは、想像するまでもない。

 ……思えば彼が兄に反抗するのはこれが初めてであろう。いつも兄の言うとおりに動いてきた。

 周囲が優秀な分、自分の不出来が目立ったが、無能だなんだと言われようが、彼なりに頑張ってきたと思っている。

 初めて兄に逆らった。その精神的ショックが多かれ少なかれ、彼の心に響いていた。

 ましてや灯りもない暗闇で。頼れるものなど何もいない。むしろ頼られる側だ。

 草の擦れる音が大きく響いて居場所がばれやしないか不安だ。森だから。獣が出やしないか。

 不安だ。


「せめて術が使えれば……」


 呟けど、無理なものは無理だ。

 彼はまだ術を満足には扱えない。また扱うための触媒すらも手元にない。もっと言うなら馬もないし、武器になりそうなものもない。

 ただひたすら、地道に、走るしかないのだ。


 ――本当に、今日はついてない日だ。


 心の中で大きく溜息を吐いた瞬間。それほど遠くではない場所から怒号が聞こえた。


「見つけたぞ!」


 もう追手に追い付かれたらしい。本当にこれ以上酷い一日があるのなら教えてほしいくらいだった。だが、最期まで諦めたくはない。初めての反抗なのだ。ならば最期まで抗いたいと、彼は決意を新たに歩を進める。

 だが、相手は術の使える大人。こちらは子供を抱える、秀でたところがない平凡な人間。怒号が聞こえた時点で、もう、どうあがいても詰みなのだ。

 不意に足に熱を感じた。彼は子供をかばって倒れこむ。――ちょうどそこは奇妙なことに木々が生えていない、開けた場所だった。

 草も生えない場所、というのに引っ掛かるものはあるが、おかげでしたたかに地面に身体をぶつけて肩が痛い。

 ……足の様子は確認したくはない。ろくでもない状態になっているのが、匂いで分かったからだ。

 彼は這うように立ち上がり、子供だけでも逃がすか、それとも説得をするか迷った。その迷いが追手との距離を更に縮める。

 気付けば弓を構える男や、剣を構える男たちに囲まれていた。それでも彼は少年をかばって、少しでも距離を取ろうと地べたを這う。


「……残念です。貴方様ならば、立派にあの方をお支えできると思っていたのに」


 先頭に出てきた男が心底残念そうに呟いた。もちろん知っている。兄の右腕とも言える、腹心の部下。――ナザリオだ。

 彼は這いながらも徐々に距離を開けていく。弓は油断なくこちらに向けられている。

 その様子に実の弟を殺しても構わないと言い放ったであろう兄の様子が想像され、彼は声を上げて笑った。


「あはは! 僕は今回のことは何一つ知らされていませんでしたよ? それなのに立派に支えられる? 何の冗談でしょうか」

「子供をこちらへ。そうすれば貴方様の命までは取りません」


 ナザリオは静かに彼を見つめて、静かに告げた。背後に庇う子の肩が震えたのが分かった。守らねばならない。絶対に、だ。


「ナザリオ。あなたにだって息子さんがいると思いました。この子と同じくらいの年齢でしょう? 自分の息子と同じくらいの歳の子を殺めて、それで作られる領地の未来とは、繁栄とは何でしょうか」

「……これもミゼリコルディアのためなのです。貴方の兄上が領主となられることで、得られる安寧がある。

 貴方も存じ上げないわけがないでしょう。ここ数年の近隣諸国のきな臭さを。我が国は、ピッカートは狙われているのですぞ」


 ナザリオの言っていることは、彼にも分からないことではなかった。最近街を歩いていて、商人たちの会話に耳を傾けていると、不穏が渦巻いている気がしていたのだ。

 だが、それでも。この幼い子供を殺めて得る安寧など、あろうか。


「ナザリオ。あなたは本気でそんなことを考えているのでしょうか」

「確かにその子は幼い。今夜の記憶を消して教育しなおせば、十分にあの方を支えることはできましょう

 噂を聞けば、幼いながらもとても利発的な子だ、利用価値はあるでしょうな」


 兄の右腕であるナザリオから、譲歩とも取れるその言葉を引き出せた。だが彼は、喜ぶにはまだ早いと感じた。漠然とした不安を感じる。

 その勘は当たっており、ナザリオは、兄の腹心は身勝手を口にする。


「ですが、その子が本家に一番近いとして担ぎ出されたら? あの方の地位が脅かされるだけではありませんか。

 本家が全員いなくなれば。分家筆頭筋であるあの方が、ようやく陽の目を浴びる。私は今までそのためにあの方に仕えてきました。――それがミゼリコルディアのためになると信じて」

「……失望したよ」


 兄にも、それを撤回する素振りを見せない兄の腹心にも。

 呆れて物が言えない、とはこの事だろうか。彼はどこか他人事のようにそんな感想を抱いた。


「失望したのはこちらの方です。この程度のことも理解されないとは……貴方は本当に、貴族には向いていらっしゃらない」

「領地の未来は大人が担うのではない。今は幼い子供こそ、その未来を担っていく。そんなことすらも分からない貴族になんて、僕はなりたくない。そも貴族でなくたって分かることなのだから。

 ――それに僕は分家の分家。もはや貴族でなくなる運命ですから」


 せめてもの虚勢とばかりに笑って見せれば、それが癪に障ったのか、弓を構える男の表情が歪んだ。それと同時に、もう片方の脚にも熱が走る。

 漂っていた臭いが濃くなる。これで彼が逃げ切れる道が消えた。幼い子供だけではこの包囲網を突破はできないだろう。彼は失態に歯噛みした。

 ナザリオが剣を振り上げる。


「清濁併せ吞む。それこそが貴族に最も必要な資質ですよ」


 彼は少年を背に庇い、きつく目を閉じた。






「――バカか。その男の長所を潰すような真似をして、どうするよ」






 第三者の声が響いた。

 男とも女とも。若者とも老人とも。なんとも言い難い奇妙な声だった。またどこから響いているかも分からない。

 彼がおずおずと目を開ければ、ナザリオが振り下ろそうとしていた剣に、何か細く、星明りと松明の灯りを反射するモノが絡み付いていた。

 糸。だろうか。見当を付けた彼はそれを目で追おうとするも、いつの間にかに複雑に張り巡らされたのだろうか、どこから出たものか特定ができなかった。


「薄汚い貴族社会において、確かに大切なのは清濁併せ吞む事だろうけどね。上に立つ者ならば、別に対面さえ取り繕う事ができれば、完全にそんなことができなくたって構わしないのさ。それをカバーできる優秀な部下がいればいいんだから。

 手を汚すのは部下。いつだってそうだろう? 現にキミだって今、手を汚そうとしているのに。何を今さら。

 それに綺麗事を口にする存在だって、組織運用という点に置いてはとても重要だというのが分からないのかね、この戯け。横やりを入れられる隙を埋められる、貴重なご意見じゃないか。誰も彼も汚いことしか言わないなら、その組織はいずれ腐っていくに決まってんだろ。

 ……それにさっきから話を聞いていれば、なんとも気味の悪い話をしている。人間はね、生きている間はいくらでも使い道がある。だのに簡単に殺してしまうのはもったいないだろう? なんだよ、『あの方の地位が脅かされるだけ』とか。キミの主人はその程度で地位を失う愚か者なのか? それだったら潰れてしまった方が身のため世のためじゃないかね

 ――はぁ、腹心がそのレベルの発言しか出来ないなんて、主の程度もたかが知れているな」


 その場のすべてを嘲笑していくような物言いだ。誰にも口を挟まさせずに、ソレは全方位に罵倒を投げていった。

 彼は音の発生源がいまだ特定出来ていなかったが、発言の趣旨を概ね理解した。よく分からないが、彼の味方をする気があるらしい。

 だが、それはあまりにも希望的観測だったらしい。


「大体キミも愚かの代表じゃあないんだから、もう少し先を読んで逃げたりしないのかね。その様子だと逃げるアテもなく、その子を抱えて飛び出してきたってクチだろ。護衛対象を最後まで守ろうという気概については、辛うじて点数評価が出来るけれど、その他の部分がまるでダメだ。

 見たところ、武器も移動手段も、何にも持ってないじゃないか。それなのにこんな森に足を踏み入れるとか、自殺行為じゃあないのかい? 主を何があっても守り抜くなら、気合いだけじゃなくて手段が必要だと思わんかね。

 ――それにどうにかして生かしてやりたいというのであれば、その子のいい所を相手に正しく伝えて利用価値がある、殺すのはもったいない逸材ですとアピールをすればいいのに。なんで情に訴えかける方を選ぶかなぁ。それは人によっては地雷を踏み抜きかねない悪手だからな。なんかしらの試験に出るぞ。知らんけど。

 命の価値は等しくないんだから。利用価値を丁寧に示さないと意味がないだろう。――バカめ」

「な、何ですか! 言いたいことがあるならば、面と向かって言えばいいじゃないですか!」


 さすがに言われっぱなしは納得が出来なかった。彼は拳を固めて吠える。

 つい数秒前まで命が危うかったことなど、ほぼ忘却の彼方である。寸でで助かった安堵もあるのかもしれない。

 彼は普段では考えられないほど苛烈に、謎の存在に対して言葉を投げつけたのだった。


「なるほどなるほど。諸君らはの目は節穴だということがよぅく分かった。

 ――オレは最初からここにいるが?」


 空気が変わった。先ほどまでの空気が冷えていると言うのであれば、これは凍てついているとでも言うのだろうか。


 バケモノ。


 そんな感想がまず一つ。絶対に敵わないと思う本能的恐怖だ。少し前まで感じていた死への恐怖など、どこにあろうか。今はただソレが恐ろしかった。まるで悪夢を見ているようだった。

 ソレは怒りを抱いているのであろうか。非常に冷たい目をしていた。


「おや、主をバカにした存在がノコノコと出てきたんだ。多少は反撃してくる勇ましい者がいてもいいだろうに。アタシの姿を見ただけで、まさか怖じ気ついたのかな?

 腰抜け揃いとは、いやはや、諸君らの掲げる大義とやらはその程度か!」


 誰かその発言に反撃できようか。だが、ソレの外見に驚愕し、誰も、何も出来なかったのだ。

 身長は子供のよう。だがソレから発せられる威圧感は子供では決してあり得ない。……そもそもただの子供がこんな暗闇の森で、灯りもなく佇んでいるのが荒唐無稽な話なのだが。

 更にはこの辺りでは見られない、奇妙な姿をしていた。黒い髪、黒い服装。何より僅かに見えるソレの肌が、白すぎた。

 普通ならば、肌の下に血が通っている様子を確認できるだろう。だが、その様子が見えない。正しく紙のような白さの肌だった。

 今は夜の森だ。明かりといったら松明と星くらいなもので、気を抜けば直ぐにでも暗闇に見失いそうである。だが、それと同時に異質なほどの存在感で、どこにいても見分けられそうでもある。

 ――その場の全員が見ていたからであろうか。ソレは不愉快を隠さずに指摘する。


「人の事を不躾に眺めて、まぁ。失礼な人間だな、キミらは」


 呆れた声で頭をゆるりと振るソレは、長すぎる袖に隠された腕を持ち上げる。――見れば、そこからはナザリオの剣を拘束する糸のような物が伸びていた。袖の中はあいにくと見えなかった。

 糸を、引いたらしい。それだけでナザリオの剣が落ちる。

 複数の音が聞こえたところから、彼の視界の外でも武器が次々と落ちていったようだった。

 ソレは獰猛な笑みを浮かべる。


「さて、じゃあ拘束させてもらうよ。キミらが自由に動けると私の不利益になる」


 言いながらも、糸を操作してナザリオをはじめとした追手たちを次々と拘束する。正気に戻ったらしいナザリオらが、どれほどもがこうが既に遅かった。

 腕を後ろ手に回され、足の自由も奪われ、地面に座らされていく。声を発することができないよう、轡も噛まされていく。

 その手並みの、なんと鮮やかなことか!

 今しがたまでそれらに追われていたことも忘れ、彼はその光景に見入っていた。

 その食い入るような視線に気付いたか、最後の一人に猿轡を噛ませたソレが振り返り、彼にまた呆れたような声を投げる。


「何を惚けた面をしてるんだよ、キミは。現状を理解していないというのは、実におめでたいがね。少しは自分の惨状を理解した方が良い。

 冷静に現状を把握する、というのはいつでもどこでも必要な、いわばスキルのようなものだぞ。現状を把握し、その上で必要な一手を打つ。そうでもなきゃ、貴族社会どころかこんな森で生きられもしない。

 ――つか、よく平気な顔してられるねぇ。これぞ人体の神秘ってやつか? それともお馬鹿胞子が頭にまで回ってるのかね」

「へ……?」


 ソレが歩きながら彼の脚を指し示す。視線を落としかけて慌てて顔を上げた。彼の背後からそれを見てしまったらしい少年の、息を飲む声も聞こえてくる。

 彼は指摘を受けるまでうっかり忘れていたが、今の自分は手負いの身である。思い出しただけで脚がまた痛み出す。顔をしかめて、頭の中で鉱石を数え始めた。

 ソレは彼の様子を一瞥し腰のポーチから瓶を取り出すと、ゆるりとそれを振った。視界の端に液体を見て、彼は視線を虚空から戻す。

 中身の液体が揺れた。半透明の、青色のそれはきっとポーションだろう。彼は実家で何度か世話になったことがある。概ねそれらと同じように見えた。


「多少は滲みるだろうけど、まぁ、ここまで来れたなら平気だろう。可能なら悲鳴はあげないでくれると嬉しいね。

 それにしてもこんなに血の臭いをさせてるのに、獣の一匹も来ないのが不可解だけれど……確率的には一応そういうこともあるのかな。

 それともこの森には獣がいないのかね?」


 問いを投げながら、ソレは彼の足に遠慮なくポーションを振り掛けた。ポーションは傷を癒す。だがそれに伴い痛みが、走るのだ。

 激痛が走る。彼が腹に力を込め、口を開いた瞬間。ソレは彼の口に布を詰めた。


「モガ!?」

「そこの少年。そのアホにこれを握らせてやれ。多少は紛れるだろう。

 俺はあいつらにやることがある。落ち着いたら声をかけてくれ」


 ソレは少年に球体の物体を手渡し、拘束されている彼らの方へ出向いた。球体の物を受け取った少年は、素直に言われるまま、握らせた。

 激痛に呻いている彼は遠慮なくそれを握る。小さいボールのようなものだろう。多少弾力性があり、しかし握り潰す恐れはなさそうだ。

 呻き声をあげられない今、確かにそれに力を込めることで痛みを紛らわせられる。

 ……ようやく落ち着いた様子を見て、少年が言われた通りにソレを呼んでくる。彼はそれを横目で見ながら、詰め込まれた布を取り出す。

 ボールへ力を込めすぎたのか、彼の腕が痛む。だが先程までの痛みに比べればまだましだった。


「気分はどうだ? 吐き気はしないか?」

「……と、とりあえず大丈夫です。ポーション酔いって吐き気するんでしょうか?」

「念のため確認だ。特に問題はないようだな」


 よし、と肩を竦めるソレは。改めて周囲を見渡して首をかしげた。つられて彼も周囲を見渡す。地面に落ちていた武器はどこかへ消え、そして松明はソレが掲げていた。


「……で? 今はどのような状況だね。

 起きたら血の臭いはするわ、物騒な気配はするわで、いい加減に首を突っ込んでみたのだが。些か早計に過ぎたかな。

 ――キミたちは本当に介入するほどの価値があったのか?」


というわけでこんな感じで進んでいきます。よろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
[一言] こういう政治的な背景がある陰謀劇は個人的に大好きです。同じ処女作でも私の出来の悪さに比べると第一話からこれだけ話が動かせる辺りはとても才能がお有りと思います。 とても参考になりました。続き…
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