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ラッシャン

作者: 池野瑛

 ウサギちゃんはいつものように白い前衛的なデザインの椅子に腰を下ろして、足なんか組みながらぼくを見下ろしている。背後のカーテンの隙間から漏れ入る日光が君の髪を綺麗に透かして何だか神々しい。まるで後光がさしてるみたいだ。ぼくはそんな君を見ているけど決してそれは下心からではない。そうではなくて、ぼくはただ純粋に分からないのだ。


「ぼくは何で縛られてるんですか」

「そりゃ、君が悪いことしたからだよ」


 悪いことと言われて思い浮かんだのは君の制服のネクタイを燃やしたことくらいだろうか。だけどそれはむしろ善意でやったことなのだ。あまりにもダサかったからいっそのこと無に帰した方が君の為になると思った。本当だ。制服だからってダサいネクタイをわざわざ着けて行く必要なんてないんだ。ぼくたちは自由になるべきだ。


 必死になってそう説明した。熱を入れて話せば話すほど胃の中が熱くなってさっき飲んだコーヒーが逆流しそうになる。もしかしてあれは伏線だったのか? ぼくがコーヒーを吐き出すための、布石だったっていうのか? もしそうなら芸術的に吐き出さなけりゃならない。ぼくは試されているんだ。伏線を回収するならそれは美しくなくっちゃいけないからな。


 話し終わった後むせて本当に吐きそうになったぼくの口元に、ウサギちゃんはそっとフタの開いたペットボトルを近づけた。吐くならここに吐けってこと、なんて無茶振りなんだ、と思ったけれどよく見たら中には水が入っていた。ウサギちゃんがペットボトルを傾けてくれたので、ぼくは大人しく水を飲んで吐き気を抑えた。


「私が怒ってるのはね。君がネクタイを燃やしたからじゃない。それが善意だったって間抜けな言い訳をしてるからでもない。君が淫乱クソビッチだから怒ってるんだ」


 「淫乱クソビッチ」。ぼくはそれを聞いた途端脳神経がバン! と弾け飛んだような気がした。そんな言葉はこの世界に存在しない筈だった。いくらこの場所に倫理観や現実感がなくたって、ウサギちゃんとぼくのこの二人だけの特別な世界でそんなクソみたいな言葉は可視化されてはならなかったのに。おお神様! せめて「淫乱クソビッチ」と言うのがぼくの方だったら良かった! たった今世界は変わってしまって、静かに自壊を始めた。だってぼくは現実を受け止めきれない。君が「淫乱クソビッチ」なんて口走る現実を。


「ウサギちゃんはそんなこと言わないっ!!」

「嫌だな、目が充血してるよ。大丈夫? 目薬さしてあげる」

「あ、結構です。他人の目薬使うのって目に悪いし」


 腹部を蹴り飛ばされた。鈍痛。あ、吐くかも。伏線回収。そう思ったが案外吐きはしなかった。これでも君は加減をしてくれていたみたいだ。ぼくは嬉しくて君を見上げたけれど、虚しいかな、君の顔を目にすることは出来なかった。


「痛い」

「だって痛めつけてるからね」

 頭を思い切り踏まれて床に叩きつけられた。脳天直下、雷鳴一閃、閃輝暗点。※これらの言葉は全て思いつきと誤解によって用いられています。なぜならぼくの意識は今混濁しているから。


 君はぼくのことを軽蔑しているのか。逆に、足蹴にしているのに軽蔑していないなんてことが有り得るのか。こういう状況を一言で表すとして、相応しいのはイジメなのかご褒美なのか。全部君に聞いてみたいけれど、よく考えれば最後の疑問の答えはもう出ている。ぼくは君にこういうことをされると「蜍?オキ」——いや、切なくも甘い気持ちになるのだ。


 君はくるりと椅子を回転させてぼくに背を向け、カーテンを開いた。


「外はいい天気だよ。散歩でもしよっか?」

「ぼくを犬にしてくれるってこと?」

「私に従順なら君は犬になれるよ」

「万歳! あ、あ、じゃあウサギちゃんに『繧ケ繧ォ繝医Ο』趣味はありますか」

「……あるって言ったらどうするの?」

「ウサギちゃんはそんなこと言わないっ!!」


 以下省略。ぼくは細菌に対する懸念を全力で払拭して結局君に目薬をさしてもらった。目の中がスースーする。瞳に穴が空いちゃったみたいに。もう何も見えないと思って瞬きをすれば液体が零れ落ちて頬を伝った。少しずつ視界に輪郭が戻ってくる。ウサギちゃんのお美しいお顔にもピントが合い始めた。すごく近い。というか近づいてくる。


「泣いてるみたいだね」


 実際ちょっと泣いているんだ。だってあまりにも目が爽快すぎる。否応無しに意識を覚醒させてくるこの感じはどうしても夢見がち症候群のぼくにはきついってものだ。いつだって眠っているような気がしている。


 君は相変わらず背もたれが半分くらいしかない、一般人にはオシャレなんだかダサいんだか分からない椅子に座ったままだ。膝の上で頬杖をつきながら、腰を低めてぼくの髪の毛を指で弄ぶ。例によってネクタイをつけていない君の胸元はいつもよりセクシーだ。やっぱりネクタイなんて燃やして正解だった。


「泣いてる君はしおらしくて良いのに」

「そお? じゃあもっと目薬さして」

「それは本当の涙じゃないでしょ? ガッコの先生に『繧「繝翫Ν繝輔ぃ繝?け』されてた時みたいなさ、本物が見たいんだ」

「え、え、何で知ってるの」

「だから言ってるんだよ。君は淫乱クソビッチだって」


 ぐい、と髪の毛を引っ張られ、顔が君の方に引き寄せられる。そしたら君はぼくの耳を舐めて甘噛みした。毛根は今にも引き千切られそうで凄まじく痛いのに、耳は気持ちいい。両方合わせて痛気持ちいいというやつだ。混乱してくる。思考よりも感覚が優っちゃう時ってあるのだ。あー、さいこう。


「誰にでもそういう顔見せてるんだろ」


 こんなシチュエーションではお決まりとなった文句をウサギちゃんが吐き出す、意外性。君も人間なんだなあ。君も、フィクションに毒された人間の一人なんだ。でも思えば「淫乱クソビッチ」なんて語彙そのものがフィクションのそれだ。ウサギちゃん、きっと君は『繧「繝?繝ォ繝医ン繝?が』を見すぎたんだ。


 チャキ……と耳慣れない音がした。目を上げてみて、ぼくは思わずのけぞった。単純な恐怖と驚愕。


「けけけけけ拳銃だ」


 重厚な黒がウサギちゃんの手に握られている。悪い冗談だよね? そしてそんな場合ではないのにぼくは、逆に良い冗談って何だろう、とか考え始めている。マイケル・ジョーダンの冗談は良い冗談、とかいう冗談は良い冗談かもしれない。あ、良かった。すぐに結論出た。これで心置きなく死ねる。いや待って、そもそも何でぼくが殺されなきゃいけないの? マジに、ぼくが淫乱クソビッチだからなの?


「も、もうしないよ?! 先生に『繧、繝ゥ繝槭メ繧ェ』とか『蟆ソ驕楢イャ繧』は好きでされたわけじゃないの!」

「じゃあ『繧「繝翫Ν繝輔ぃ繝?け』は好きでやってたんだね」

「ちっ……違うよお?!」

「もう黙れば」


 銃身が口の中に突っ込まれる。思っていたより美味しいかもしれない。舌先でちょっと舐めてみる。悪くない。もし本当にぼくがこれで殺されるのだとしたら、ぼくは美食によって死ぬことになるなと思った。最後の晩餐は最高級の拳銃でした、というのはむしろ名誉かもしれない。


 もっと味わいたいなと思った。でも、予想に反してウサギちゃんはさっさとぼくの口から銃を抜いてしまった。


「亀田くん。最後に何か言っておきたいことは?」


 そんな言葉を使いこなすなんてやっぱり君はフィクションの住人だ。そして、そんな言葉をかけられているぼくだって紛れもなくフィクション。嘘っぽい何かに揉みくちゃにされながらそのうちに超現実だとかを見出すのだろうか。そしたらぼくは伏線回収屋としてではない、本物の芸術家になれる。


「シュルレアリスムとバーバリズムの邂逅」

「文化人気取ってんじゃねえよビッチ」


 再度銃を口の中に入れられてグリグリと銃口を喉の奥に押し付けられる。反射で流石のぼくも嘔吐した。結局ぼくは伏線回収屋じゃないか! 本物の芸術家云々というところからしてそれがもう伏線だった。でもまあまあ美しい吐き方だったと思う。なぜならポージングが完璧だった。


「こういうの、慣れてると思ってたけど」

「ふつうに吐く」


 口元を拭いながらぼくは君を見上げた。なぜ君はちょっと嬉しそうなんだろうかと考えた時に思い当たるのは、やっぱりぼくの嘔吐が美しかったからということだ。ぼくには才能があるらしい。


「本当のこと言ってみなよ。あるよね?」

「うーん。あっ、じゃあぼくを『蜈ィ陬ク縺ァ莠?逕イ邵帙j』にしてください」

「……は?」

「『繧ェ繝翫ル繝シ』しながら死んだ奴みたいにして欲しいなあ」


 無言で殴られた。平手打ちだった。拳で殴られるよりもなぜかショックだ。お母さんに叩かれたみたいな気分になるからかな。道徳的に間違っていることをしたみたいで。ごめんなさい。でも君の「淫乱クソビッチ」がぼくの頭から離れないんだ。いつも以上に不適切になってしまう。不思議だ。どうして、その部分だけは修正してくれなかったの? どうしてそんな言葉だけは見えるようにしたの? 「淫乱クソビッチ」には何か意味があったの? ぼくは真剣に考えた。けれど、君はもうぼくにすっかり興醒めしてしまったみたいだった。世界の崩壊。


「もういい、死ね」

「え、『蜈ィ陬ク縺ァ莠?逕イ邵帙j』してくれないの?」

「死ね」


 君はクールにそう言って拳銃を構え直した。照準はきっと口の中。このままだと本当に死んでしまう。何かやり残したことはなかっただろうか。考えてみると色々あり過ぎて言葉に出来ない。でも中でもこれは絶対に言っておきたいというやつは? 肉体的であり精神的であり高尚な遺言を。芸術的で建設的で未来に受け継がれていくような意志を。


 あ、そうだ。とぼくは思った。最後くらい、無修正でもいっか。って。


「ロシア女とセックスしたい」

 ロシア女と。セックスしたい。したい。セックスしたい! ロシア女と! セックス! したいですぼくは!

「じゃあなクソビッチ。愛してるよ」


 引き金が引かれた。スローモーションの世界。生と死の狭間にある最後の猶予期間。その間ぼくは何を思っていればいいんだろう。とりあえず君の顔でも見ておこう。やっぱりきれいだよ、ウサギちゃん。陽の光が差し込んでる。君の頬に色味はない。白っぽい光に照らされて輪郭が曖昧だ。モダンな椅子に座って、頬杖ついて。ぼくをそんな冷たくも愛しげな目で見下ろしている。君が二人に分裂した。くるくる椅子を回転させながら踊ってるみたい。フライングシットスピン。六角形の光が何度も明滅した。光線の結晶が砕けては結びついてお遊戯会だ。君の顔が光に呑まれていく。だのに君はどんどん増えていく。今や世界は十二分割の画面みたいだ。君がそこかしこにいる。ロシア女はどこにもいない。じゃあぼくは一体どこにいる? ぼくは、今、生きて——

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