9話 関わりたくない人
「まずいっ!」
その声が聞こえた瞬間、ロベリアは反射的に逃げ出そうとした。
しかし悲しきかな。
一介の伯爵家の娘が一週間分の荷物と趣味の諸々を抱え、颯爽と逃げるなんて無理な話。なるべく全速力で人ごみを縫おうとするもなかなか思うように前に進めず、ちらっと後ろに視線を向ければ、自分を追いかける黒髪の女性との差が縮まっているのが分かる。
「主! あれは敵か!?」
ナギがロベリアと並走しながら鋭い声で尋ねてきた。
「仕事以外で関わりたくない相手ですの!」
「ちょっと! それって酷くない!?」
心外だという声が追って来る。
「あたしとあんたの仲じゃない!」
「友だちになったつもりはありません!」
ロベリアが叫びかえした、相手は聞き入れてくれない。むしろ、あっという間に距離を詰められ、白魚のように細く美しい指が、ロベリアの肩にかかけられてしまった。か弱そうな細腕だというのに、簡単に振り払えないほど力が籠っている。
「あたし、あんたに聞きたいことがあるんだから!」
「……はぁ……レベッカ。私から貴方に話せることなんて、まったくありませんわ」
ロベリアは観念したように息を吐くと、レベッカと向き合った。彼女はロベリアが諦めたことを悟ると、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「立ち話もあれだし、お茶でもしましょう。ほら、そこのカフェで」
「私、持ち合わせがありませんの」
「あら、誘ったのはあたしよ。あたしが払うわ」
理由をつけて婉曲に断ろうとしたのに、ロベリアはレベッカに腕をつかまれ、颯爽と店の中に連れ込まれてしまった。あまり体格は変わらないか、彼女の方が一回り小さいくらいなのに、こんな力がどこにあるのだろうか? と、ロベリアはほとほと疑問に思っていると、レベッカが不満そうに口を尖らせる。
「なによー、不満なの? せっかく、あたしが全部払うって言ってるのに?」
「半ば誘拐に近い状況で、よくそんなこと言えますね。
……まあ、このお店は一度は行ってみたかったので、大目に見ますけど」
ロベリアは小さく息を吐くと、メニューに目を落とした。
正直、レベッカと話したくもないし、王都に長居をしたくもないが、この喫茶店には以前から興味があった。なにせここは、滅多に市場では出回らぬ茶を取り扱っている稀有な専門店なのだ。品揃えはもちろん、椅子など店内の家具は上品な水色で統一されており、隣の話が聞かれない程度に席が離れている。
運の良いことに、ペット可だ。
ナギの他にも、ソファーサイズのドラゴンが陽光を浴びてきらきら鱗を輝かせていたり、猫が飼い主の膝の上で大あくびをしたりしている。
「しかも、ここは大通りからずれてるし、貴族御用達高級店街からも遠い。おまけに、ここは窓から一番離れた席だから、安心してお茶とおしゃべりができるわ」
「まあ、そうですわね」
ロベリアが諦め、レベッカが胸を張る一方、ナギはきょろきょろ辺りを見渡し、落ち着かなそうに尻尾を丸めていた。
「……なぁ、主」
ナギが遠慮がちな声を出した。
「この人は?」
「元上司の愛人」
「もー、その紹介は酷くない?」
レベッカは不愉快そうに頭を振り、ルージュに負けず劣らず艶やかな髪を揺らした。
「あたしは、レベッカ・アップルシールド。ロベリアの唯一の友人よ」
「愛人ということは否定しないのか?」
「事実ですからね、それは」
ロベリアが呟くと、レベッカは悪戯っぽく笑った。
彼女は娼婦だ。
元上司の一推しで最も入れあげている娘である。それだけなら、特別興味はなかった。豚大臣が誰に入れあげているとか、心底どうでも良い。
ところが、ある日のことだ。
ロベリアが仕事放棄して逃げ出した大臣を回収しに行った際、あの豚大臣が、
『今度、公国との戦争で先方に立つように王命が下ったのだ! どうだ、凄いだろう? かっこいいだろう?』
と、レベッカに語っていた場面に遭遇してしまったのである。
国の重要機密を一娼婦にぺらぺら語るなど笑止千万。ロベリアは大臣に厳重注意した後、レベッカに口止めを依頼した。
しかし、レベッカは首を振った。
『口止め料? いらないわよ。それより、あんた……ルージュって女と似てるわね』
レベッカはロベリアに詰め寄ると、不愉快そうにムッとした。
『金髪と橙色の瞳……顔立ちは、黄金姫の方が愛嬌があるけど』
『あれは妹ですの』
『姉なのね! だったら、あいつに注意してよ!
あの子のせいでお得意様が次々と盗られてるの。こっちにお金を落としてくれる人が減ってるのよねー。
あいつったら、頻繁に顔を出して、
「娼婦に手を出す汚らわしい人だなんて、知らなかったわ! 貴方、大っ嫌い!!」
とか、言い出すんだもの。そりゃ、好きな男が別の女と遊んでたら怒るのは分かるわよ。あたしだって、激怒するから。
でもさ、片っ端から言いまくるのはどうなの!? 十人も二十人も!! あの女のせいで、せっかくついた固定客が、どんどん減っていくんだから!』
レベッカの怒りはごもっともである。
聞けば、レベッカだけでなく、ありとあらゆる娼婦についた金持ちのお客は皆総じてルージュの餌食になっているそうだ。それなのに、ルージュを嗜める人は皆無らしい。
『「黄金姫なら仕方ないよねー」ですまされないわよ。こっちには生活がかかっているの』
ロベリアは「注意しても効果は皆無だが伝えておく」と言えば、レベッカは唇をひん曲げた。
『それで、あの豚男のことは王様に話すわけ? そうしたら、あの男はクビでしょ? あーあ、あたしの固定客が減っちゃうわー。あたし、死んじゃうかも』
『それは……』
『ねぇ、見逃してくれない?
あの豚男が変なことを言ったら、あんたに伝える。仕事しないようだったら、あたしが仕事するように口添えしてあげる。
代わりに、面白い情報手に入れたら知らせるから』
『知らせるって、なにを?』
『ここ高級娼館だからさ、色々なお偉いさんが来てぺらぺら色んなこと話してくれるのよ。その情報をあんたに渡す。そうすれば、事前に情報漏洩を防げるでしょ?』
当時のロベリアは、要求を呑んでしまった。
理由としては、ルージュ被害者のレベッカが可哀そうだったのが大きい。
以後、性懲りもなく豚大臣がレベッカの元へ遊びに行った際、彼女の方から「遊びに来てるぞー」と連絡が来るようになった。レベッカが、
『仕事してる姿がかっこいいー』
と持ち上げてくれたので、(娼館で)仕事をしてくれるようになり、他の男たちが零した重要情報――例えば、○○男爵家が下克上を企んでいるとか、○○侯爵家が着服しているとか、そういった情報を手にすることができた。
引き換えに、ルージュが顔を出したとか客の誰それを奪われたとか、レベッカの不平不満愚痴を聞く羽目になったのだが、大臣が仕事をしてくれるならと諦めた。
つまり、仕事上の付き合いだ。
断じて、友だちではない。
「さてと……ナギ、貴方は何を頼みます?」
ロベリアは淡々と呟くと、ナギにメニューを見せた。ナギは「俺は何でも良い」とロベリアに一任すると、レベッカから身を隠すように足の裏に隠れる。一方のレベッカは、ナギが珍しいのだろう。青い瞳を興味深そうに光らすと、少し身を乗り出していた。
「ナギって言うんだ。ねぇ、そのドラゴンどこで手に入れたの?」
「貴方に応える義理はありませんわ」
ロベリアが注文している間にも、レベッカは質問を繰り出してくる。
「赤い鱗、ちょっとボロボロなのに、身なりは綺麗ね」
「毎日、風呂に入れてますからね。食事にもできる範囲に気を配っていますし。それよりも……」
ロベリアはウェイターが遠ざかったのを見計らうと、声を一段階落とした。
「本題は? ナギについて聞きたかったわけではありませんよね?」
「……あんた、ルージュに何したの? 酷いことして、仕事辞めさせられたって聞いたけど」
「クビになったのは本当ですが、ルージュの件は言いがかりです」
ロベリアが答えると、レベッカは口元に指を添えて考え込み始める。
彼女は素早く周囲に目を奔らせ、誰も聞いている人がいないことを確認すると、ほとんど囁くような声で問い返してきた。
「だといいんだけどさ。なんでも、ルージュの奴があんたを探してるって聞いたわよ」
「は、はあ!?」
ロベリアは愕然とした。
「あの女が?」
「なんでも、あの豚が
『ルージュ様が「お姉さまが行方不明になったの! あたしの結婚式に来て欲しいのにー。ねぇ、大臣さま、行く先知ってる?」と聞いてきてくれたのだ! いやー、若くてかわいい子に頼られるって良いなー』
って、笑ってたから」
「信じられない」
ロベリアはがっくり肩を落とした。
ルージュのお花畑っぷりに悩まされるのは今になってのことではない。だが、姿を消せば軽く流してくれると思ったのに、まさか探されているなんて想像していなかった。
しかも、結婚式の招待客として。
「さすがに噓かなって思ったけど、あんた、凄い荷物なんだもの。もしかして、本当にあの女から逃げてるの?」
「逃げるというか、悠々自適な生活をするためよ」
「へぇー、あんたから悠々自適なんて言葉が出てくるとは思わなかった」
レベッカは目を見開く。ロベリアは反論しようと口を開きかけたが、ちょうど良くお茶が配られてきた。ロベリアは動揺した気持ちを隠すように、お茶を口に含んだ。渋みと爽やかな香りを口の中で転がしつつ、気持ちを落ち着かせる。
「ブドウの香りがする」
ナギが珍しそうにすんすんと茶を嗅いでいる。
「ブドウの葉を使った茶なのか?」
「いいえ、違うわ。でも、半分あたり。この茶はね、ブドウを口で含んだような爽やかな香りが特徴的なのよ。どう? 美味しい?」
「気に入った!」
ナギは蛇のような舌で大事そうに飲み始める。
ロベリアはその姿を眺めながら、今後の身の振り方に思いを馳せた。
ルージュが追っているなら、本格的に身を隠さなければならない。
彼女が諦めるまで、しばらく王都に来ないようにしないと。
だけど、どうして自分に固執しているのだろう?
これ以上、ルージュとは関わり合いたくないし、縁を切りたいのに。
ロベリアはカップを見下した。
薄橙色の茶に、自分の不安そうな顔が映っている。眼を曇らせている自分の顔が情けなくて、ロベリアは首を横に振る。
「本当、ルージュには懲り懲り」
ロベリアは静かに呟くと、お茶を一気に飲み干すのだった。