71話 青リンゴのおすそわけ
日を追うごとに、風が涼しさを増している。
太陽の日差しもやわらぎ、肌がひりひりと焼きつくことも少なくなった。帽子や日傘を用意しなくても、畑仕事を行えるくらいの陽気だけど、夏用のつばの広い帽子を被っていた。
理由? そんなの簡単。
「レベッカ、ひさしぶり」
王都のレベッカを訪ねるためである。
変装、なんてものではないけど、帽子と町娘風の青いワンピースをまとい、「普通の王都在住の娘です」という雰囲気で歩いているだけで、案外、噂のロベリアだとバレないものである。
だいたい、伯爵家の令嬢がどっさりと食料品や衣料品を市場で買い歩き、すっかり重くなった鞄を背負っているとは誰も思うまい。王子の婚約者時代のロベリアを知っていれば知っているほど、そっくりな別人だと考えるはずである。
「ひさしぶり、っていうほどかしら? あ、ナギ君も一緒なのね」
レベッカは快活な笑顔と共に、家へ迎え入れてくれた。
一週間ほど居候させてもらった部屋は、特に記憶と変わらない。まあ、数週間も経っていないから当たり前と言えば当たり前かもしれない。
ロベリアはそう思いながら部屋を見渡すと、テーブルの上で何か光ったのが見えた。
「あれ、そのネックレス……」
真珠のネックレスだった。
大粒ではないが、ビーズほどの小さな真珠が均等に連なっている。ロベリアは、へぇっと目を丸くした。
「おしゃれな真珠のネックレスね。もらったの?」
「まあね、大臣からお礼にって」
レベッカはちょっと得意げに鼻を鳴らした。
「大臣、ルージュに魅了されなかった稀有な高官の一人ってことで、かなり重用されてるのよ。お給料もそれなりに上がったみたい」
「いや、あの大臣は、ルージュが魅了させようとしなかっただけでは?」
大臣は聖女の血を引いているとは考えにくいし、魅了の耐性を持っているとは思えない。
あんな大臣は魅了させるまでもないと判断した、という方が正しい気がする。
「たぶんね。でも、魅了されなかったって事実は変わらないわ。それに、あたしと懇意の仲ってことも重用の理由みたい」
「それでお礼のネックレス」
「そういうこと。最近は、結婚も視野に入れてるみたい。ま、それはちょっとお断りだけど」
レベッカはそこまで言うと、くるりとこちらを振り返った。
「それで? 今日はどうしたの? かなり大荷物だけど」
「この時間なら家にいるって、あなたに聞いたから」
ロベリアはそれだけ言うと、買い物してきた荷物であふれた鞄から一つのカゴを取り出した。
「いつものお礼。真珠のネックレスに比べたら、随分と値段は下がっちゃうけど」
「もう、お礼なんていらないのに」
レベッカは腰に右手を当て、はぁと息をついた。
「あたし、友だちだから助けたんだから。お礼なんて受け取ったら――」
「それじゃあ、おすそわけってことで。家の庭で採れたのよ」
ジェイドと一緒に収穫したカボチャと昨日、ナギと一緒に採った青リンゴが、カゴ一杯に詰まっていた。
「へー! ずいぶんと良い色してるじゃない!」
今度は、レベッカが驚く番だった。
レベッカは青リンゴを手に取ると、艶を確認するのようにくるっとまわす。
「気に入ってもらえたなら嬉しいわ」
ロベリアは自慢げに微笑んだ。
今回収穫できたリンゴのなかでも、特に青々と美しい。木になっているときから、エメラルドが木になっているみたいに見えたものだ。
「おいしそう!」
ティモシーは、レベッカの足元で目を輝かせている。喉をごくりとうならせ、青いリンゴを物欲しそうに見つめていた。
「そうね、美味しそうよね!」
レベッカも目を落とすと、嬉しそうに頬を緩めた。
「さっそく、剥いて食べよっか」
「れべっか、かぼちゃもたべたい」
「かぼちゃは茹でてサラダにしようか」
レベッカとティモシーは楽しそうに笑いあっていた。
もともと仲が良かったが、王城に潜入した一件以来、より二人の仲が深まったように思える。たとえるなら、飼い主と可愛いペットの関係だったのが、さらに家族としての絆が深まったように思えるのだ。
ロベリアは二人のやり取りを微笑ましく見守っていたが、三時の鐘ではたと我に返った。
「……それじゃあ、私たちはこれで」
「えっ? もう帰っちゃうの?」
「……あまり、王都に長くとどまりたくないから」
イーディスは苦笑いで返す。
今日、王都に来たのは、フローライトの誕生日の準備をするためだ。
やはり、品ぞろえの良さは王都の市場が群を抜いている。ジェイド曰く、滅多に帰ってこれないはずの妹が戻ってくるほど大切な誕生日なのだ。だから、ヴィーグル家にとって最良の誕生日にしてあげたかった。そのためなら、ちょっと嫌な気持ちを我慢して王都に行くくらい造作もない。
ロベリアがそう伝えれば、レベッカは仕方ないと肩をすくめた。
「ちなみに、どんなケーキ作るの?」
「秘密。しいていうなら、可愛らしいケーキにしようと思ってるわ」
「可愛らしいかー。うーん、分からん!」
レベッカは天を仰いで大きく頷くと、悪戯っぽい笑顔を浮かべる。
「ねぇ、せっかくだから帰る前に占いしない?」
「占い?」
ロベリアが眉間をしかめると、レベッカはリンゴをお手玉のように軽く投げていた。
「ほら、鏡の前でリンゴを食べながら髪をとかすと、結婚相手が映るってやつ」
「……レベッカ、それは夜の12時にってやつでしょ?」
「そうだっけ?」
「というか、そういうことやらない人だと思ってたわ」
「たまにはいいんじゃない?」
レベッカはリンゴを宙で捕らえると、ふてくされたように口を尖らした。
「あたしだって、いつまでも高級娼婦を続けられるとは思ってないからさ、はやく結婚したいわけ――あの大臣は嫌だけど。
あんたは、結婚に興味ないの?」
「……あまりないわ」
ロベリアはそれだけ言うと、あとは口を閉ざした。
結婚願望がないといえば、嘘になる。
でも、いまの生活は捨てがたい。ルージュやしがらみから解放され、自由気ままな庭暮らし。雑草の処理や野菜、家畜の世話は大変だけど、ナギと身を寄せ合っての暮らしは温かさで満ちている。
ここの生活に、また新しい住人が増えること自体、想像できなかった。
その人が、ナギも家族として扱ってくれるとは限らないし、自分なんかと手を取り合って生涯を共にしてくれる人がいるとは思えない。
でも、自分が死んだらこの庭はどうなるのだろう?
それに、ナギはひとりぼっちになってしまう。
もし、結婚して子どもがいれば――その子どもが継いでくれるかもしれないし、ナギは一人にならなくてすむ。
そう考えると、結婚はしたほうがいいのかもしれないが、いかんせん。ほとんど引きこもり生活なので出会いがないし、既知の男性陣に添い遂げたいと思える人はいない。
だから、ロベリアはふと思ってしまった。
誰もが寝静まった夜、ベッドのなかで昼間のレベッカとの会話を思い出す。
「……私、やってみようかしら」
たしか、自宅用に残しておいたリンゴはあったはず。
ロベリアは枕元で丸まってるナギを起こさないように慎重にベッドから降りると、台所へ歩みを進めた。
「……11時58分」
ロベリアは壁かけ時計を横目で確認し、適当なリンゴを右手でとる。
そして、時計が鳴ると同時に、ロベリアはリンゴをかじった。昼間と同じ音なのに、家を揺らすような時計の音を耳にしながら、青リンゴの爽やかな味が口いっぱいに広がっていく。
あとは、髪をとかすだけ。
ロベリアは空いている手でとかすと、鏡に映った自分もどこか緊張気味の怖い表情でリンゴを食べながら髪をとかしはじめた。
そして、ロベリアは「あっ!」と声を上げた。
驚きのあまり、右手にしていたリンゴが床に落ち、乾いた音を立てながら転がっていくことにも気づかないくらい、目の前の事象から目が離せない。
ロベリアの肩のあたり――暗がりに、何者かの顔が映っていたのだ。




